『夜になっても遊びつづけろ:よふかし百合アンソロジー』(ストレンジ・フィクションズ,2021)に書いた短篇。コーマック・マッカーシーの遺作『通り過ぎゆく者』を読んでいたらふと思い出したので、もう発表から3年も――3年も?!――経つことも踏まえ、じゃっかん修正して、公開することにした。百合なのかどうかよくわからないし、かなり性的な話もしているし、美醜については踏み込みが足りていないとも感じるけれど、最後に語られる「言葉」についての言葉は、いまも自分自身に射抜かれてしまっているところがある。
なお元ネタは、シモン・ストーレンハーグの『エレクトリック・ステイト』。アメリカでは、誰もが旅をする。
汚いガキだったけど礼儀ってやつを知っていたね。いや、儀礼って云うべきかな。ちゃっかりあたしらのクラッカーくすねやがったよ。ほらご覧、あとひと袋しかない。あたしが囓ってたのをよだれ垂らして眺めてるから、ま、そうなるだろうと思ったけど。クラッカーくらいがちょうどいい。金だったら容赦してなかった。銃だったらひっぱたいてた。ガキが戦士を気取ってんじゃねえって。でもクラッカーでいいよ。クラッカーなら怖くない。クラッカーなら安心だ。腹が膨れて栄養満点。だけどクラッカーは不味いから、誰かと取り合いにもならないさ。あたしらみたいにね。
みんな大好き、グールド・クラッカー。クラッカーはグールド。微生物を食べて、あなたの病気を食べてもらいましょう。心も体も健全に成長いたします。ゴランツ・グループ、グールド社のクラッカー。クラッカーはグールド。
ん、これはドーキンのクラッカーか。ま、どっちも不味いことに違いはない。
は? わかってないね。あたしが食うのは、あんたが食わないからさ。知らなかったか? このクソ不味い、クソ乾パンを、好きこのんで食べるとでも?
分け合わなくちゃいけない。目的地までは、まだ何もかも足りないんだから。荷物も距離も。そう云うもんだろ。あんたが赤の缶詰食うみたいにさ。ユーカラの缶詰。栄養満点、健康第一。ユーカラ社の缶詰は世界一頑丈。世界一げろまず。
ばれていないとでも?
わかった、わかった、はい。うん。いや。ま、うん。
悪かったよ。
そう、ガキだった。女のガキだ。十二、三、てところじゃないか。人間の女は発育がいいから。そう、少なくとも人間だったね。手も、脚も、顔も、目も。ひとりだった。小柄な方だった。ぼろのジャケットにくるまるようにしてさ。
え?
知るかよ。あんたが寝てる後ろでやるわけないだろ。あたしを何だと――
あ?
うーん、ま、それもそうか。ついてるかも知れなかったしな。どっかの店から逃げてきて、変態野郎からくすねたジャケット着たまま、ヒッチハイク。ない話じゃない。あたしらみたいに。
冗談だよ。あたしらはそんなんじゃなかった。そう。その通り。
けど、あんた、そんなんだったか? もっとうぶだと思ってたよ。さっきの寝顔、写真撮っときゃ良かったな。可愛らしくて大人しくて。犬みてえに。
ああ、犬か。
ま、そう云うもんだろ。あんただって、あたしをそうやってからかうじゃないか。
そもそもあんたが犬みたいに従順なら、こうやってあたしと夜道を走っちゃいないわな。あたしが馬鹿だったよ。おっと。運転手を殴るのは勘弁してくれ。
ガキは人間だった。人間じゃないものじゃない、と云う意味で、人間だったと思う。
あんたが寝ちまってから一時間くらいしてかな。カーニーを越えて二時間あたり。ひとりで延々運転してるのも嫌になって、畑の向こうに池が見えたから近くまで車を着けてみたんだ。池は池だったけど、ポンプだった。あの大きさなら湖って云うべきか? まん丸な穴に濁った水がなみなみ注がれて、真ん中に柱が立ってる。そう、あれ。柱のてっぺんもまん丸だったから、トーア社のやつだな。この辺じゃ珍しいって思った。さっきまで、どこもかしこもゴランツ製だったのに。
東を出たんだって、それでわかった。ゴランツからトーアへ。ほら、あっち見てみろよ、そう、丘の上のバルーン。黄色い二頭身が真っ赤な口を開けて笑ってる、あれは正真正銘のトーアだ。
ここはトーアの国だ。たぶん。もうちょっといけば、でかい大穴が見られるはずだ。楽しみにしとけ。あれ、もう冷水処理は完了したんだっけ?
池にしてはでかかったけど、あの大穴に較べればまだ小さかったのかもな。畔に沿って、車をゆっくり走らせて、しばらく池を眺めてた。ポンプなんか興味ない。鳥がいたんだ。ツルか、あれは。白くて赤い。数えたら十三羽いた。浮かんでた死骸を含めれば十四だな。ポンプの池で餌なんて取れるわけないのに。休んでたのかもな。だったらあたしと同じだ。
あ? ああ、そうか。へえ。
ツルは死骸に群れてたよ。だから、ま、そう云う考えもできるな。
でも、あたしの知ったことじゃない。あたしがクラッカーを投げてやったら、ずぶずぶ汚濁に沈んでくのを何羽かが争って食い始めた。死骸はそのまま沈んでいったね。残りはみんな飛んでいった。群れだったんだろうに。ばらばらだ。
いや、はじめからばらばらだったのか? あんたはそう云う見方が好きだろ。
でもやっぱり、あたしの知ったことじゃないんだよ。だから馬鹿らしくなった。アクセル踏み直して、ようし行こう、てときに、ガキが出た。
木陰から、車の前に飛び出してきやがった。両手開いて、こっち睨みつけて。ライトも半分壊れたバンの前によく出てこれるよな。あたしが鳥だったら轢いてたよ。違う、ツルじゃない。鳥目のあいつだ。あいつだよ。鳥目の。
えー、あー。鳥目だから、鳥の目と、嘴のある……
リー。
そう、リー。なんで思い出せなかったんだ?
いや、リーはいいんだ。ツルも、リーも、関係ない。運転していたのがリーだったら、ガキを殺してたってだけ。轢かなくても殺してたかもな。あいつは、鳥目のくせにプライドが高かったから。鳥目は関係ないか? それとも、見られたからには生かしちゃおけない、てな。見えてないのはお前の方なのに、な。
でも、関係ない。何も関係ない。そう云うことじゃない。
リーじゃない。ガキの話だ。ガキは、あたしが車を停めたら――寸止めだ、寸止め――乗せてって喚きはじめた。よく起きなかったな、あんた。感心するよ。
苛々して、とっとと行こうと思ったんだ。アクセルも踏んだ。ポンプの近くで潜んでいた物乞いのガキなんてろくなもんじゃない。薬漬けならぬ泥漬けの連中だ。そう思ったんだ。ゴランツでもトーアでも、そう云うことは変わらないからな。
でも、ラリってるわけじゃなかった。脚もふらついてない。ひと目で人間だとわかる程度にはしっかり立ってた。それで、よく見たらガキが女だとわかった。女のガキだ。想像してみろよ。人間の、女の、ガキ。ポンプの近くで。ひとけのない木陰から。何にだってなれるお年頃。何だってされるお年頃。でかいジャケットを着て、顔はくすんでる。寒そうだった。
はん。
シンパシーとか親切とかそう云うことじゃない。合理的な判断ってやつだ。そのまま置いていけば、ガキはどうにかされるだろう。ここで殺せば、あたしにどうにかされたことになる。でも、あんたを起こさないで轢き殺すつもりもなかったから、ガキを乗せることにした。それならあとからあんたが起きたとき、相談できる。あたしなりに考えたわけなんだよ。合理的だろ。
結局、あんたは起きなかったけどな。あたしにはよくわかんねえよ。よく起きないでいられたな。そもそも、寝るって何だ? 夢を見て、それで?
夢見るお年頃だ。ガキもそうだった。車を飛ばしてやったのに全然びびらない。後部座席で、鞄抱えて、膝抱えて、頭抱えて。脱色した赤毛をぐちゃぐちゃにひっつかんで。でも、震えない。自分がここにいることをなんにも不思議がっちゃいない。
あたしは気に入ったさ。あたしらだってできたことじゃなかったし、あたしはいまもできてない。なんであたしはここにいるんだ? あんたは答えられるか?
そう云うことじゃないのか?
鞄だ。そう、鞄があった。小ぶりで、ピンクで、赤くふちがついた。ポーチにしては大きかった。女のガキが持つにしては、あんまりに女のガキみたいで、そこは気に入らなかったね。とにかくここから出たいんだって思ってる女がピンクの鞄じゃいけない。そう云ったのはあんただろ。
違う? クレタか?
クレタ?
クレタ。クレタ。憶えてるよ。あいつはピンクが嫌いだった。ピンクは血の色だって云ってた。あいつには赤も何もかもピンクに見えてたんだろうさ。もしかすると、それだけの理由だったのかも知れないな。
それも違うのか? じゃあ何があってるんだ。
ガキの鞄はピンクだった。これは間違いない。荷物はそれだけだった。食いもんも飲み物もないってほざきやがった。たかる気かって云ったら、怒ったみたいに睨みつけてきやがった。いや、ガキはずっと睨んでいたんだ。あたしを睨んでいないなら、目の前の夜道を睨んでた。そう云うガキだった。
行き先を訊ねた。なんて答えたと思う?
西へ、だとさ。
あっは。
奇遇だろ。あたしらはみんな西へ行くんだ。どうしてだよってさらに訊いたら、黙っちまって、話さないなら降ろすぞって脅そうか迷ってる頃、ようやっとガキはぼそりと漏らしたのさ。
使命だから。
偉大なアメリカの偉大なガキ。笑えるね。ああ、まだそのときは、笑えた。
*
どうしてあたしがこんなに喋らなくちゃいけないんだ? ガキが乗って、降りた。そのあいだ、あんたは寝てた。それでいいだろ。どうして空白を埋める必要がある。べつに喋るさ、喋るけど、話したところで話せるもんじゃない。実際、口をきかなかったし、何も起こらなかった時間がほとんどだったんだから。
あんたが寝てるあいだ、あんたは夢を見る。あたしは寝ないで、夢を見ないで、その代わり、いろいろ見る。でも夢の中であんたはいろいろ見るんだろう、だったら同じだ。何が違う?
そう云うことじゃないのか? だから、あんたの夢の話をしてくれよ。
見ないって、そんな、噓つくなよ。さっきはたまたま見なかっただけか? じゃあ、きのう見た夢だ。おとといでも良い。こんやみたいに、あたしが運転してるあいだに、見た夢だよ。
は?
しつこいぞ。
……そう。
ずっと噓ついてたのか。
でも、なら、あんたが話してくれたことはなんだ。夢じゃないなら、なんだ。フィクションか。おとぎ話か。妄想か。舌が勝手に動いて喉が勝手に息を吐いただけか。
はあ? どこで聴くんだよ、じゃあ。
……はん。
ま、同じか。同じだろ。あたしにとっては。あんたが夢を話そうが、聴いた話を話そうが、妄想を話そうが、舌を動かそうが。でも、そうだな、それなら、わかった。喋るよ。ガキの話をしよう。あんたが夢も見ないで寝ていたあいだの話だ。
町の名前は知らない。町って呼ぶには家もまばらだった。ほら、そこかしこに杭が打たれてるだろ、あの山頂の棒だってそうだ。あれよりも少ない。家を貫いてる杭もあった。細いわりに重そうな杭を十字にしてさ。トーアのやることはえげつないね。ゴランツなら、体裁だけでも四角い箱で覆うさ。見てきただろ。でも町はおかまいなしで、杭、杭、杭。バルーンが結ばれてるのを見たときは笑ったね、にっこり笑うミセス・トーアは、みなさんの住まいを杭でぶっ壊して差し上げます。
ほんと、泣ける。
あたしらも泣いて喜ぶべきだね。杭がむき出しだったから、スタンドも使えたんだ。
そう! スタンド! ああ、これは喋らなくちゃいけなかったな。
車をとりあえず停めてさ、あたしはガキも連れて確かめてみた。ガスは残ってた。スタンドはもう、誰も使ってないみたいだったけど、機械は動き続けてたんだ。
がらんとしてた。そう云えば、スタンドでも、町の中でも、人間は見なかった。とっくに町ごと棄ててたのかもな。杭を打つだけ打って、お払い箱。それでもガスは製造され続けたんだ。たぶんどっかの管が破けてて、残ってるのは微々たるものだったけど、これを動かすにはじゅうぶんだろ。次の町まで、ええっと、人間のいる町まで、金を払わないでガスが持つ。
そう。あたしらにはまだ、何もかも足りないから。
ガキから目を離すわけにはいかなかった。あんたに何かされても困るしね。でも、スタンドに舞い上がってたね、あたしは作業中に目を離しちまった。最初はガキも機械からチューブ伸ばすのを手伝ったり、ガス入れるのを眺めたりしてたけど、管から絞れるだけ搾り取ったらいなくなってた。
車に戻ったわけでもなかったから、出てったんだと思ったよ。何も困らない。ガキが乗って、降りた。さっきも云ったけど、それだけの話で終わる。
でも、終わってくれなかった。スタンドはがらんとしてて、真ん中にぐちゃぐちゃのボットが棄てられてたけど、まあそれはそう云うもんだし、気にしてなかった。だから瓦礫が崩れたとき、はじめてそれがボットなんだってわかった。
わ、とか、ぎ、とか。ガキの声じゃなかった。ガキの声はあとから追いついてきた。あたしが聞いたのは機械の音で、それはガスの音じゃなくて、ええっと、ボットの犬がうなる声だ。
犬はまだ生きてたんだ。犬? たぶん犬。後ろ脚がぐずぐずになってたけど、前脚でコンクリートの亀裂とかチューブとかを引っ掻いて、ガキを追いかけはじめたんだ。ガキはスタンドのオフィスを漁ってたらしい。瓦礫の陰で見えなかったわけだ。
犬は上顎もなかった。げ、とか、い、とかうなりながら、これがけっこう器用に動くんだよ。びびったガキは鞄を投げかけて、やめて、あたしの方に走ってきた。嫌だったね。あんな犬に車を傷つけられたくなかった。だからチューブを引っ張って、ガキも犬も転ばせた。
あ? わざとだよ。犬、犬、犬。犬だ。あれは犬だった。
ガキは正面から倒れてでこをぶつけた。犬は下顎が潰れた。もう犬はうならなかった。あとは鉄くず。瓦礫の仲間入り。お仲間の山に戻してやろうかってガキは持ち上げようとしたけど、くちゃくちゃ鳴ってる内臓掴んじまって、ぶん投げてたね。あっは。
どうやってあれで生きてたのか不思議だったけど、いまわかった。管を破いたのはあの犬か。あそこでしか生きられなかったんだ。ま、生き死にで云うのも変な話だが。ボットは生きてた。でも、ボットは壊れる。死ぬんじゃない。ばらばらになるだけだ。
でも確かに、ねじにまみれた生体器官はいつ見ても慣れない。そりゃあガキもぶん投げるさ。拾っとけば良かったな。藪の中に紛れてわからなくなったからそのままにしたよ。昼なら拾ってたね。知らないか。高く売れるんだ。
ああ、生体器官そのものは生きてるのか。器官がぎりぎり生きてたから、犬も生きていた? なら、いつから、犬は壊れてたんだ?
あのスタンドだって、機械が生きてたから、スタンドも生きてたんだ。
変なこと云うね。そう、そうだ、だから町も生きてたのかも知れない。
たぶんこの町の警備に使われてたんだろうな。それが、町ごと棄てられて、お役御免。お払い箱。生き延びるためにスタンドに群れたわけだ。
おんなじことをガキに説明してやった。何あれって呟いたからな。
返事はなかった。ガキは口を曲げた。何か云いそうだったから待ってやったけど、結局何も云わなかった。礼儀を知らないガキだったね。でも、ガキの礼儀ってそんなもんだろ。礼儀を知らないのが礼儀ってもんだ。
もしもボットが生殖できれば違ったかもな。タンパク質も持ってるのになんでできないんだ? ボットが壊れても、次の世代が生き残る。ボットの群れが町を棄てる。
なんでそうならなかった?
……そうなるべきでないから、か。棄てられたらいずれ死ぬべき、か。そうだな。
でも、あんたは納得してないんだ。そうだろ。
そうじゃなかったらこうなってない。
おい。なあ。
……はん。
ガキはだんまりだった。一丁前に感傷に浸ってやがった。
しばらくは、何も云わなかった。あたしもガキも。
そのうち、あたしは訊いた。使命ってなんだ。
西に行くこと。ガキは答えた。
なんで西に行くんだ。あたしは訊いた。
使命だから。ガキは答えた。
降ろすぞって脅した。だんまり。無性に苛ついた。近くに家もない道の真ん中で降ろしても、ガキはどうなったっていいってそのときは思った。
なあ。
あたしらはなんで移動してるんだ?
答えろよ。あたしはあんたから、答えらしい答えをもらってないって、そのとき気づいたんだ。もちろん理由はある。あたしもそれは知ってる。でも、そう云うことじゃないんだ。なんであたしらは、このおんぼろ車を運転して、移動してるんだ。なんでだ? どうして?
べつに、わざわざ訊くことはない。ガキの話なんてしたくなかった。でも、話したら訊きたくなる。そうだ。ガキは使命を持ってた。ガキは西を目指してた。でも、あたしらは、西へ逃げてるだけだ。
あんたも逃げてるのかってガキに訊いた。どうせそうだって思ったんだ。ガキは逃げるしかないからな。だけど、ガキは鞄を抱きしめて、頭をぶんぶん振り回して、違うって。でかい声で。
叫びやがった。
あんたはそれで目を覚ますべきだったんだ。あたしの代わりに答えるべきだったんだ。それがあんたの役目だったんじゃないのか。ガキを乗せたのはあたしだ。でも、あんたはガキのことを、こうしてあたしから聞くだけじゃないか。話せるときにはもう、終わってるんだよ。
リーが云ってたな。言葉はあとから来るのさ。憶えてるだろ。だからあいつはぴーちくぱーちく喋り散らしてたんだ。喋れなくなったのは死んだときだけだ。
そうだろ?
ガキは叫び続けた。あんたもボットと同じじゃないかって。人間じゃないくせにって。機械のくせにって。
あたしはどう云えば良かったんだ?
事実じゃないか。あたしらは施設から逃げてきた、ゴランツ製の人形だ。あの犬と同じなんだよ。所詮は棄てられた機械のくせに。上顎のないぐちゃぐちゃの、壊れかけのがらくた。
ああそうだよって云えば良かったか?
おい、犬。答えてくれよ。話せっつったのはあんただろ。ガキはあんたが犬だってわかってた。帽子でごまかしても耳の位置なんてすぐばれる、脚の筋肉だって獣のそれだからな。動物型は大変だね。リーも。アリスも。ベルも。
変態のおもちゃだって、ガキは罵りやがった。
否定できたのはそれくらいだったね。
*
見ろよ、大穴だ。トーアが開けちまった大穴。手当たり次第に汲み上げまくって、挙句に制御できなくなって、あたりを沈めちまった大穴。馬鹿みたいに杭が刺さってやがる。縫いつけるためじゃない。冷やすためだ。
穴はまだ広がり続けてるんだと。
詳しいわけじゃない。ずっと起きてりゃ聞く話も増えるってだけだ。あと何年かすれば、グレートプレーンを呑み込むんじゃないかって。いつだったか雑貨屋で聞いた。
こう云うのに詳しかったのはミーアだよ。ミーア。猫の尻尾。猫の脚。猫の喉。ミャーオ。そう、だから名前も憶えてる。
忘れてない。大丈夫。
ミーアは外の雑誌をどこからともなく集めてきた。あんたも読んでたろ。知らなかったかもしれないけど、仲間がいたんだ。内通者ってやつ。
すばしっこいやつだった。なんでもかんでも早かった。誰にも捕まらなかったし、誰にも見つからなかった。飯を食うのだって早かったんだ。誰も盗りやしないのに。あいつは知ってたんだ、誰かと飯を分け合うってことは、自分のぶんは絶対持っとかなきゃいけないんだって。自分のためにも。相手のためにも。
それを云ったのはリーだよ。したり顔で喋りやがった。むかつくね。
だから、リーの缶詰を一個だけくすねてやったことがある。あ? そうか、あのとき一緒にやったのはあんたか。そうだ、そうだな、あんたは缶詰に目がなかった。
あたしはガキに、どう喋ればいいのかわからなかった。だから、リーたちのことを喋った。あたしにとってはそれが理由だったから。リー。アリス。クレタ。ベル。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。あいつらがいたから。
あいつらが、いなくなったからだ。
……わかってる。あいつらはあたしの頭からも消えてきてる。でも思い出せるんだから、いなくなるわけじゃない。そうだな、喋ってれば思い出す。喋ってれば忘れない。あんたが夢とやらを、ま、噓だったけど、喋ったのも、結局は同じだろ。
いまならわかるんだ。リーが喋り散らしてたとき、あいつはこう云う気持ちだった。喋らなきゃどうしようもないんだ。喋らなきゃ何にもならない。
右手がうなじとくっついてるのがアリスだった。左手じゃない。左手だったら体ごと捩れてるはずだから。だって、首の右から、しっかり骨ごと、肘が伸びてたんだ。見せてもらった。触らせてくれなかったけど。自分は出来損ないだって嘆いてた。嘆くことないのに。水かきがきちんとくっついてないキリイに較べればずっと綺麗な接着だった。
くっつく場所の問題? は、知らねえよ。アリスは動物じゃなかったけど、なんで動物じゃないとけないんだ? あたしらを作ったやつらが何を考えてようが、あたしらはこうなんだから。
あんただって、犬にしては鼻がきかない。鼻が良いならユーカラ社の缶詰なんて食うわけがない。
ユーカラ社の缶詰は世界一頑丈!
……はん。
アリスは殺されたのか? あたしは知らなかったんだ。あいつはずっと前にいなくなった。どっかに行った。逃げたんだってあたしは思ってたのに。
死体を見つけたのはベルだっけ。脛骨が腕と繋がってる骨だったってあいつは云った。そんなのはアリス以外にいない。
逃げようって云ったのはリーか? あそこで喋った言葉の半分くらいはリーが喋ったんだから。違う? ロー?
ロー……?
だってあいつは喋れないじゃないか。それとも、舌がないのはジョゼか?
ローは、背中にぶちぶち穴があって……。そう、アリスの世代だったから、おんなじように、動物のモデルがなかった。あ、そうだな、あいつは喋れた。アリスとよく話してた。同じ世代で病気にも罹らず生き残ったのがアリスだけだったから。DNAすりつぶして、混ぜ合わせて、とりあえず生ませてみる。
アリスが云ってた、頭の皮がつっぱっちまって耳が口になったやつと、あたしは話してみたかった。ま、話せないけど。どう聞くんだろうな。リーはなんて喋りかけるんだろう。
ローもアリスも気にしすぎなんだよ。生きれるんならそれでいい。そうだろ。人間の姿にこだわる必要なんてなかった。
……そうだな。それもそうか。あたしがどうだって、あたし以外は知ったことじゃない。そうだった。その通り。
いつだったかな。
なんで生きてるんだろうってアリスが云った。
死んでないからだってローが答えた。
うん。それは憶えてるよ。ローが、ローだって憶えてなかっただけ。ええっと、だから、ローってやつが、ローって名前だってことが、つまり、ローが何したかと、ローがどんなやつかってことは、違うってこと。オーケー?
ガキの質問にもあたしは、だからこう答えるしかないんだよ。
なんで移動するんだ?
死んでないから。
そう。……あ? ああ。
アリスが死んだ。ローが逃げようって云った。ミーアが手引きして、カブが作戦立てて、クレタが……、あいつ、何したっけ? キリイは腕っぷしがある。ベルは銃の使い方を知ってた。
リーは喋ってた。あっは、あはは。
ジョゼは……、そう、ジョゼはキュートだった。あいつはなんだって許された。あの愛嬌は天性だ。あいつが銃を撃ちたくないんなら、あたしが撃った。そう云うもんだったんだ。
ガキは銃を持っちゃいけない。
そう云ってやったら、バックミラー越しに、鞄を抱くガキが見えた。あのガキにはジョゼの愛嬌の百億分の一も可愛くなかったけど、ガキはガキだ。笑ってやったら、あいつもミラー越しに睨みつけてきやがった。
礼儀を知ってるガキだ。
あたしはガキを大切にするんだ。噓じゃない。現に、ガキを拾ってやったじゃないか。ガキはまだ成長できるから、なんだって許されるんだよ。たいていの場合。未来……があるからな。これもリーだ。たまにはいいことも云うんだよ、あいつは。
あんたもジョゼを見習うべきだろ。ジョゼはあんたみたいに耳を隠そうとなんてしなかった。なんて云うんだ、あれ、……そう、馬の脚も見せびらかしてさ。いや、いや、ああ、知ってるって。あんたが耳を見せたら人間は騒ぐ。変態がうようよ寄ってくる。でも、それでも、だ。あたしに隠す必要なんてない。
かっこいいじゃん、その脚。
あ?
もちろん。……化粧すれば綺麗になれるさ。
あたしが綺麗になりたくないなんて思っていると?
そうじゃない。そう云うことじゃない。もっとこう、なんて云うか、ええっと、あー、あたしはあたしだってことだ。
ジョゼはあたしの目を綺麗だって云ってくれたんだ。
鏡なんてなかったじゃないか。ローが全部壊したんだから。
ああ!
そうか、思い出した。クレタ。あいつは化粧が上手かった。変装も上手くやった。あいつは綺麗になるためじゃなくて、自分じゃなくなるために着替えた。正直、あいつのことは好きじゃなかったよ。でも、役に立った。
なりたいものになるってのも、ま、ひとつの考えだ。
ああ……。
あんたの帽子、クレタからもらったのか。
……そう。
へえ。
悪かった。謝る。
大丈夫、思い出してる。またはっきりしてきた。リー。アリス。クレタ。ベル。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。
なんで移動するのか?
あたしらはまだ、死んでないからだ。
思い出せる限りのことを話したら、ガキはもう睨みつけてこなくなった。また口を曲げて、右手がシートを握りしめてた。皺が寄るからやめて欲しかった。
ガキが訊いた。みんな死んだの?
ああ、死んだって答えたよ。あたしがどう信じていようが、そう訊かれたら、そう答えるしかないだろ。アリスは死んだ。次がミーア。いくらすばしっこくても、バクダン踏んだらお終いだ。爆風はあいつを捕まえちまった。
ロー。カブ。キリイ。リー。クレタ。ジョゼ。
キリイは、もしかしたら。けど、わかんないし、きっと死んでる。逃げ道だった川ごと潰されたらどうにもならない。
リーは……。
大丈夫。もう慣れた。あんたが寝ながら、あたしが運転してるあいだ、あたしが何してると思う? 嫌なことを、思い出せるだけ思い出して、頭の中ですりつぶすんだ。そうしないと追いつかれるからな。思い出しちまって、ハンドルを切って帰りたくなる。あそこに戻るんだって。あそこに帰れば何もかも元に戻るんだって。
だから、思い出をすりつぶすんだ。もう、砂みたいな味しかしない。みんな生きてきた。いまは生きてない。それだけ。
肉の塊になっても、息をさせる方法はあるかもしれない。あいつらはいまそうなってるかもしれない。貴重な素材だったから。あたしらがやけに丁重に扱われたのはそう云うことだったんだろ。
それで生きてるのか、いつ死ぬのかなんてわからない。ばらばらにされて、ぐちゃぐちゃにされて。そもそもあたしらは生きてたのかよって思うこともある。
あんたがあたしを残して寝る夜は、そう云う時間だ。
ようやくわかったか?
ジョゼの番まで。あいつらがどうやって死んだか、あたしは順番に話した。話し相手がいて良かった。ガキを降ろそうなんて気分はもう、その頃にはなくなってた。話しちまったからな。話を預けたんだから、そうそう無闇に降ろしはしないよ。
それに、ま、ガキだったからな。
ガキは何回か頭を振って、唾も飲み込んで、鞄を開けた。あたしがあいつらのことを話したから、あいつもそれを見せることにしたんだ。何を出したと思う?
ヒント。ガキが持っちゃいけないもの。
違う。
銃だったら、まだマシだった。ひとを傷つけるだけで済む。でも、違った。束ねられた黒い筒から紐が伸びてる。笑っちまうぐらい簡素な、あれは、そう……。
ダイナマイトだった。
*
バックミラーに映ったものが信じられなくて、振り向いちまったよ。真夜中でよかった。まだ昼間なら、車の往来がある。事故れば、あんたは眠りながらに死ぬことになった。
バクダンは見たことがないわけじゃない。ひと工夫すれば買うこともできるし、多少ものを知っていれば作ることだってできる。問題は、爆発させたところでなんにもならないってことだ。邪魔な杭を破壊できるわけじゃない。壁を壊したところで、無理矢理越える方が安上がりだ。だから、ひとを殺すことにしか使えない。
ガキが鞄から取り出したのは、つまり、ひとを殺す道具だった。銃なら、まだ、ボットや獣を仕留められる。でもバクダンは? 昔は川に投げ込んで、魚を一気に殺す漁のやり方があったらしいね。でも、川の魚が食えたもんじゃなくなったのは最近の話じゃないだろ。
ダイナマイトはひとを殺すため。それはわかってた。だから余計なことは訊かずに、あたしは、どこで使う気だって訊いた。
西で、だとさ。
いい加減、意味がわかった。要するに、トーアの本社だ。トーア社の管轄では、本社をそう呼ぶんだそうだ。ロスだっけ? 道のりは遠いな。
そもそも、そう云うスラングがあるらしい。西へ。西で。西は。西なら。西で会おう、それまではさようなら。あんた、知ってたか? トーア社はとにかく人間を西へ西へ動かしてるんだそうだ。東から順番に土地を食い散らかしてる。ゴランツに、あとで食われないように。
何もかも足りないのさ。誰だって飢えてる。
ガキは、兄を亡くしたんだ。トーアのポンプに巻き込まれて、脚がちぎれて、傷から泥がごちゃごちゃと、あれこれ体に入って、……染色体がぐずぐずになった。最期には、ただの肉の塊になったそうだ。
トーアからは補償金が渡された。その金でガキはバクダンを買った。トーアの本社を襲うんだと。あれだけのダイナマイトじゃ、家ひとつも壊せないのに。云ってやったら、睨まれた。
トーアが壊れなくてもいい。破壊できるなんて思ってない。ただ、ガキがそうやって突っ込んだ、ガキが捨て身でテロをした、それが大事なんだと。
ああ、馬鹿げてる。トーアがゴランツとたいして変わらないなら、ほんとに無意味だ。ナンセンスだ。ガキが肉片ぶちまけて命を落としたところで屁でもない。本社なら、なおさら、そう云うことはうまく隠す。
悪いことは云わない、やめとけ。
はじめて云ったよ。カブの……、そう、カブの口癖。
あいつはなんだって、やめろってうるさかった。あいつは誰より頭が良かったから。なあ、あたしらも、やめとけば良かったか?
……意外だった、ガキは素直に云うことを聞いた。導火線を引きちぎって、ダイナマイトごと窓から捨てた。捨てるために取り出したみたいだった。
死んだって何にもならない、だとさ。正しい。まったくね。
生きているうちは移動ができる。死んだらそれまで。ともかく生きていれば、どこかに行ける。……違うな。どこかに行けるなら、それは、生きてるってことだ。
うん。いいね。いい線引きだ。
ガキは笑ってた。とても笑えなかったあたしとえらい違いさ。ゴランツに行こうとトーアに行こうと。東に住もうと西に住もうと。この大陸ではおんなじ。呆れたように、からからと。
でも、とにかく、動いてみるしかないんだ、止まるまでは。
あのボットは可愛かったって、ガキは云った。あのスタンドの壊れ損ないが? 感性を疑うね。けど、ま……、醜くはなかったな。
そのあと、しばらく、ガキのお喋りに付き合った。ガキは兄の話をした。木登りが得意な兄の話を。父親は土を掘る仕事をしてた。コンピュータいじりが好きだった母親はとっくに死んでる。ガキの鞄は母親の形見なんだと。
ジャンパーは兄が着られなかったものらしい。徹底してる。だろ?
ガキは別れ道で降ろした。まっすぐ行けばいつかはテキサスにつくんだと。気が長い無茶な話。ガキの特権だ。ちょうど明かりの灯ったストアもあったし、そこでひと晩明かせばいい。ついでだからあたしも缶詰を買った。あんたのためにね。あっは。
クラッカーをひと袋盗ったのは、ま、そのときのどさくさだろ。
*
えーっと、うん、ゴランツとトーアは、確かに、別だ。トーアのネットワークは、ゴランツに食い破られない。ゴランツのネットワークに乗ってる限り、トーアに接続はできない。だから物理的に行く必要がある。
それはわかるよ。でも、だから、なんなんだ?
おい。なあ?
西を目指したのは、それだけか? インターネットに接続できるから? 安全に?
……はー。
たっく……。
あ?
ああ。
もうすぐ朝だ。東海岸より、夜明けは少し遅い。
ほら、見えるか? あのツルだ。いや、おんなじツルじゃない。つまり、えっと、あのツルと同じ種類のツルだよ。あたしが見たのは。ポンプに絡めとられない方法を、あの鳥は知ってた。
あのツルはいまどこを飛んでいるんだろうな?
沈んだ仲間の死骸はいまごろ、どこに呑まれてるんだろうな?
なあ。
……べつに、話したくないなら、いいさ。あたしが喋るよ。あんたの代わりに。
言葉はあとから来る。あとに残るのが、言葉だ。
出典は、ぼく。
あいつの真似だ。似てるだろ。嘴があるからな、ちょっと声を籠もらせるのがコツ。ジョゼから教わったんだ。あいつは耳が良かったから。
あれ? 耳が良いのは、あんたか?
……そうか。じゃあ、見せるまでもなかったな。あいつの物真似……。
あいつの……。
大丈夫。リー。うん。リー。
リー。アリス。クレタ。ミーア。ロー。キリイ。カブ。ジョゼ。
そして、あんた。
あんただ。
そう。うん。あ……
違う。違うよ。きっと大丈夫だ。思い出せる。わかってる。あんたは。あんたは、耳が良くて、そう、犬の耳と、獣の脚と。綺麗な膝と、形のいい頭蓋と、真っ二つに割れた腹と、舌っ足らずの口と、焦点が合ってない目と、分厚い瞼と、くすんだ瞳と、長い睫毛と。
あとは……。
大丈夫。喋ろう。話せば思い出せる。舌が引きちぎれるまで話せば、きっとわかる。
言葉はあとから来る。あとに残るのが、言葉だ。
要するに、言葉があれば、言葉以外は、前に進むんだよ。
なあ、そうだろ。だから喋らなきゃいけない。そう云うもんだろ。そう云うもんなんだよ。そうじゃなきゃいけない。
なあ?
聞こえてるか?