鷲はいまどこを飛ぶか

ミステリとSF、ときどき東方。

読書日記2019/02/21 イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』他

 SFを読む意欲が湧いてきたので、積んでいたSF長篇を3冊読んだ。SFを読むと云う今年の抱負を、早速実践したことになる。

 

 イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』の舞台となるのは、近未来のイスタンブールである。ヨーロッパとアジアの狭間、様々な勢力が取っ組み合い、金が縦横無尽に流れ、ナノテクが横溢し、アイディアが奔流し、遙かなる未来と長く積み重ねられてきた歴史が同居する混沌の都。物語は、ある日この街で起こった被害者ゼロの自爆テロから始まり、6人の物語へと枝分かれしていく。テロを目の前で目撃して以来、神秘的な幻覚が見えるようになった青年。安静を強いられているが、ロボットを駆使して街を駆け回る、探偵志望の少年。彼と仲が良い、暗い過去を抱える老人。ある邪な企みを仕掛けようとしているトレーダー。その妻であり、《蜜人》なる伝説の宝を探すよう依頼された美術商。テロのせいで面接に遅刻してしまったものの、その結果画期的な事業に関わる仕事が回ってきた女性。……それぞれの物語が並行し、時に合流しながら、《都市の女王》イスタンブールの姿が織り出される。中東の鮮やかで複雑で精密な絨毯のことを思い浮かべるのは、おそらく偶然ではないだろう。

 SFらしいSFを期待すると少々肩透かしを食らうが、以上のように活写される都市の姿と、それをものする鮮烈な文体に身を委ねると非常に楽しい。もとよりイアン・マクドナルドは、代表作と云われる『火星夜想曲からして、思索に耽るのではなく、連綿と続いていく人々の生を通じて、ひとつの街が興り、消えていく様を鮮やかに描いた作品だった。あちらが縦に伸びた物語であるならば、こちらは横に広がりを持った物語だ。現に、何世代も跨いでいた『火星夜想曲』と対照的に、本作はたった5日間しか経過していない。実に濃密。

 個人的には、もっと都市を根本から揺るがすような展開も見てみたかったが、《都市の女王》はそう簡単に斃れてはくれないと云うことか。6人の主人公たちはそれぞれの未来へと新たに踏み出し、《都市の女王》の治世はこれからも続く。

 

『千年都市』は思索で読者を圧倒するようなものではなかったが、ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』泣く子も黙るハード・スペキュレイティヴ・フィクションである。気軽にハードSFを使うと怒られそうだが、少なくとも本作は色んな意味で「ハード」だ。

 あらすじを文庫の裏表紙から引用しよう。

突如地球を包囲した65536個の流星の正体は、異星からの探査機だった。調査のため出発した宇宙線に乗り込むのは、吸血鬼、四重人格言語学者、感覚器官を機械化した生物学者、平和主義者の軍人、そして脳の半分を失った男。彼らは人類の最終局面を目撃する――。ヒューゴー賞・キャンベル記念賞・ローカス賞など5賞の候補となった、現代ハードSFの鬼才が放つ黙示録的傑作!

 何が何だかわからない。が、ネタバラシをしないようにするとこうなってしまうのも仕方がないだろう。SFファンには、『ソラリス』的な超高難易度ファースト・コンタクトを通じて、『ハーモニー』にも共通する問題意識を描いた、と云えば伝わるだろうか。 下巻で展開される、意識を巡る一読受け容れがたいヴィジョンが本作の主眼だが、それが浮かび上がるまでの過程も読みどころなので、深くは言及しないでおく。

 個人的に感心したのは、そのヴィジョンのために、語りの形式、登場人物ひとりひとりまで計算して組み込んだこと、そしてその上で、登場人物ひとりひとりの物語を取りこぼさず描いたことだ。正直、難解な説明もあるが、本作は「普通の人間」から外れた者たちがおのれを見つめ、互いに理解し合おうとする物語でもある。冷徹な思考が脳を揺さぶる一方で、熱い想いが心を揺さぶる。

 SF長篇は数を読めているわけではないが、これからも忘れがたい作品になることは間違いないだろう。3月刊行予定の短篇集も楽しみだ。

 

 ハードなSFを読んだこの勢いならいける――そう調子に乗って、グレッグ・イーガン『白熱光』も読んだ。見通しは甘かった。イーガンはやはりハードだった。

 物語は奇数章と偶数章でふたつのパートに分かれている。遠い未来、銀河全体に広がる《融合世界》と、銀河中心部にある謎に包まれた《孤高世界》を舞台に、未知への冒険を求めていた男が《孤高世界》へと旅立ち、なんやかんやある奇数章*1。《スプリンター》と云う閉じられた世界を舞台に、簡単な幾何学と四則演算しかない状態から、ニュートン物理学、アインシュタイン相対性理論まで科学を発展させていく偶数章。両者は互いが互いの種明かしをするような構成になっており、その仕掛けに注目すればミステリとして読むことも可能だろう*2

 比較的面白さがわかりやすいのは偶数章。天体観測ができなくとも、環境が地球とは全く違っていても、科学は宇宙で普遍のはずだ――と云う熱い思いが伝わってくる。学校で習うような数学理論や科学知識が、世界の見方を変える基礎として、あるいは世界の危機を救い得る武器として活躍する様は、細かい理論部分がよくわからずとも楽しめた(ただやはり、もっと厳密に理解したいとも思う。不可能なわけではないだろう)。

 偶数章が、科学的発見と発展の素晴らしさを語る一方で、奇数章は後半、ある展開によって「啓蒙」に問題意識を向ける。このあたりのバランスも狙っているのだろう。ふたつの物語は決してわかりやすく交差はしないし、一方だけでも成立するのだろうが、やはり両者が揃ってこそ、本作は完成する。

 難しい部分については「難しいなあ」と理解を放棄して流し読みしてしまったものの、それでも十分面白く読めたあたり、イーガンの卓越した技量がうかがえる。自分のことを棚上げしたような感想で恥ずかしいけれど。

旋舞の千年都市〈上〉 (創元SF文庫)

旋舞の千年都市〈上〉 (創元SF文庫)

 
ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

 
白熱光 (ハヤカワ文庫SF)

白熱光 (ハヤカワ文庫SF)

 

*1:何が起こっているのかよくわからない部分が結構あった

*2:多分。自分の理解が正しければ

読書日記2019/02/13 アガサ・クリスティー『象は忘れない』

《回想の殺人》と云うテーマが最近気になっている。過去に起こった、記憶の中の事件を解決する形式のミステリのことで、代表的なのはアガサ・クリスティー『五匹の子豚』だろう。この形式の場合、事件は目の前に展開されることはなく、資料や証言、そして経過した長い時間を通して、徐々に浮かび上がってくる。自分が気になっているのは、この経過した時間だ。

 ミステリ、特に本格と分類される作品はよく、物語の時間を停止させる。捜査の過程で何週間か経ることもあるが、読んでいるときの感覚としてひとまとまりになっていることが多いように思う。それは、ミステリが(非常に大雑把だが)謎と解明と云う2段階の構造にまとめられてしまうからであり、云い換えれば、解決によってそれまでの物語が大きな構図の絵の中に組み込まれてしまうからだろう。ミステリの場合、読み終えて残るのは物語が経過してきた垂直方向の時間よりも、結果として示された因果関係の横方向の広がりである。*1

 もちろん、その是非を問うつもりはない。ミステリは往々にしてそう云うものではないだろうか、と云う個人的な印象に過ぎない。わざわざここでこの話をしたのは、初めに挙げた《回想の殺人》の場合、謎と解明の間が引きのばされているわけだが、こうして生まれた隙間によってミステリは何ができるだろうか、と云うことに興味を覚えたからだ。その時間を通して、事件を取り巻く状況は変化し、関係者は否応なしに人生を経ていく。記憶は薄れ、あるいは歪曲され、悲劇は過去へと流される。しかし、過去が消えてしまったわけではない――。

《回想の殺人》において、解決すると云う行為には、それまでに積み重なってきた時間だけの重みがのしかかっているはずだ。そして明かされた真実は、過ぎ去ってしまった時間の分だけ、取り返しが付かないと云う苦みをもたらす。では、解決することに何の意味があるのか?

 

 先日読んだクリスティー『象は忘れない』は、まさにこの問いを踏まえていた。『五匹の子豚』が、過ぎ去った時間と積み重ねた人生の重みを描いていたのだとすれば、こちらはそれを経た上でなぜ今、謎を解くのかと云う意味と難しさを描いたと云えるかも知れない。

 過去への探求は、推理作家のミセス・オリヴァが昼食会の席上で奇妙な問いを投げかけられたことから始まる。彼女が名付け親になった女の子・シリヤは結婚するらしいのだが、相手の母親は、シリヤの両親の死について疑問があると云うのだ。曰く、《あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか、それとも、母親を殺したのが父親だったんでしょうか?》。シリヤの両親の死は、一応は心中として片付けられていた。どちらか一方がもう一方を銃で殺害し、その後自分を撃つことで自殺したのだ、と。けれども確かに、どちらがどちらを撃ったのかは、現場の状況や事件直前の経緯からは分からなかった。厄介な謎を押しつけられたミセス・オリヴァは、名探偵エルキュール・ポアロと共に、この事件の真実を探りはじめる。その方法とは、象のように記憶力が良い人々を訊ねて、過去へと遡ることだった――。

 物語のほとんどは、作中で《象》と表現される、事件当時のことを覚えている人々へのインタビューで占められる。とは云え彼ら彼女らの証言は決して確かなものではなく、事件そのものの掴み所の無さもあって、後半まで謎は漠然としたままだ。下手に書けば恐ろしく退屈になりそうなこのプロットを、会話や人物造形の巧さで読ませるものにしてしまうクリスティーの技量には感服してしまう。本作はかなりクリスティーの中でも後期の作品で、予め書かれていたと云う『カーテン』を除けば、ポアロものとしては実質最終作にあたるが、筆致が鈍っている印象はあまりない*2

 ただ、確かに、本作のミステリとしての仕掛けは大掛かりでも、切れ味鋭いものでもなく、規模としては短篇級のものだ。かつらや犬など、魅力的な小道具の冴えが見られるものの、構図の単純さに較べると、事件全体が複雑になってしまっているアンバランスな印象は否めない。しかし本作においては、解かれるべき核の謎が過去へと遠ざかってしまっているために、アンバランスな構造はむしろ人生の不思議な縁をも感じさせるものになっている。整理されていない、煩雑な記憶や証言を手繰るうちに辿り着く、呆気ないほどシンプルな反転。これが目の前にあったならば、なんて単純なミステリなんだ、と云う感想で終わっただろうが、本作は謎と解決の間に長い時間が挟まれているからこそ、その罪の構図が遠く現在へと残響する様を示し、簡単な真相だと切り捨てることを拒む。《過去の罪は長い影を引く》――作中で引用されるこの言葉になぞらえれば、本作はこの長い影を断ち切るための物語なのだ。

 エルキュール・ポアロはシリヤにこう忠告する。

「お掛けください、マドモアゼル。わたし自身のことについて、これだけは申しあげておきます。わたしはいったん調査に乗り出したら、最後までそれを追求します。そして事実を明らかにしますが、もし、あなたが求めているのが、いわば偽りのない真相であるならば、それを教えてあげます。しかし、あなたはただ安心したいだけかもしれない。安心と真相を知ることは別の問題です。あなたを安心させられそうな説明なら、いくらでも見つけてあげます。それでいいのですか? もしそうなら、それ以上求めるのはおよしなさい」

 ミステリでは、真実を解き明かすことが必ずしも良い結果を生むとは限らない。知らなければ良かった、と云う悲劇は少なくなく、またたいていの場合、殺人の真相とは悲劇的なものだ。今、安心を得るだけならば、わざわざ記憶を遡る必要などない。

 しかし、それでは、過去から現在へと伸びる長い影を振り払うことはできないのだ。終盤、解決を目の前にしたポアロはこうも云う。

「(…)よろしいですか、ここで必要なのは真実なのですよ。わたしは固くそう信じています。ただの想像ではないのです、推測ではないのです。(…)わたしは、いまその娘シリヤのことを考えています。気の強い娘さんで、元気があって、扱いにくいが聡明で、気だてがよく、幸福にもなれる素質を持っているし、勇気もある、それでいて、あるものを必要としている――それを必要とする人々もいるのです――真実ですよ。彼らは真実に敢然と立ち向かうことができるからです。もし人生が生きるに値するものなら、人生で誰もが持っていなければならない勇敢さで、真実に立ち向かうことができるからです。(…)」

 ポアロはこの勇敢さに応えるため、時間を遡り、記憶をかき分け、あの時、あの場所で、何が起こったのかを解き明かす。その悲劇はひとつの悪意が引き寄せたのだとも云えるし、また、あるひとを思いやった結果だったとも云える。けれどその一切が過去へと遠ざかった今、何かを責めることはただただ虚しく、事件の真相はただただ哀しい。

 こうして浮かび上がった悲劇と時間は、真実の解明によって今へとのしかかるが、しかし読後に抱く印象はどこか爽やかだ。なんとなれば、本作は単に真実を暴くだけではなく、のしかかってくる過去を受け止めた上で、未来へと向いているからだろう。行く末を見るために来し方を受け容れる。本作において、真実を解き明かすと云う行為は、かくして肯定される。

 

《回想の殺人》によって生じる、過去と現在の距離を通して、ミステリは何ができるだろうか。自分がこの問いに惹かれるのは、それを考えていった先で、ミステリが《人生》あるいは《人間》と云う存在とその謎を捉えることができるからではないか、と思う。まあ、そこまで云うと大袈裟だし、抽象化も甚だしいが、ミステリに何ができるか、と云う問いかけは、決して無駄な努力ではないと信じている。

 その点で、クリスティー作品は、今日も重要な示唆を与えてくれる。

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 
五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

*1:この段落の表現は巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』の影響を如実に受けている。影響受けすぎだろ。

*2:クリスティーを全ての年代で幅広く読めているわけではないので、あくまで表面的な印象に過ぎないけれども。

読書日記2019/02/07 ダリル・グレゴリイ「二人称現在形」他

 テストが終わり、単位については人事を尽くして天命を待つ状態となったので、開放感に任せて図書館に行った。〈S-Fマガジン〉を読むためだ(京都府立図書館はごく初期を除いて、〈S-Fマガジン〉のバックナンバーが揃っている。優秀!)。読んだのは単行本未収録の翻訳短篇3本。いずれも埋もれさせておくには惜しい傑作である。

 

 まず読んだのはテッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(2011年1月号所収)。原文では3万語、邦訳は20字×20行換算で250枚の中篇、もとい、短めの長篇。雑誌で読むにはいささか長いが、一気読みしてしまう面白さがある。ただし、エンターテインメントとして読み手を楽しませるのではなく、やっていることは地味なシミュレーションに過ぎない。けれどそのシミュレーションが、とにかく読ませるのだ。

 物語の主役となるのは、《ディジエント》――仮想空間で生きる人工知能を持った生物たちと、彼らを取り巻く人間たちだ。電脳空間上のペットとして開発されたディジエントは初め、赤ん坊が成長するように発達を遂げていく。人間たちの感情移入を促し、愛でられ育てられ、市場を席巻していく。ここで他のSFなら、人間の手を離れ暴走するところまで――シンギュラリティ――駆け抜けるのかも知れないが、本作ではディジエントたちはほとんど人間の制御下に置かれる。時に手に負えなくなることもあるものの、その場合は手に負えなくなる前までリセットされてしまう。予想外の成長をおこなう一方で、彼らは人間を超えることはない。

 本作では、そうして人間の管理下で成長したAIたちの尊厳について、ひたすら問い続ける。手に負えなくなれば止めてしまえば良い、だがそれは許されることなのか? ディジエントのことを思って彼らを管理下に起き続ける、だがそれは彼らのためになっているのか? テッド・チャンはディジエントと彼らを管理する人間たちにそれらの問いを投げつけ、容赦なく揺さぶりをかける。ひとつのヴィジョンに留まることなく、様々な意見と主義と理屈をぶつかり合わせ、逃げ道を塞ぐ。あまりにも徹底しているので、読んでいるうちに作者のことが怖くなってくるほどだ。

 もちろん、ただのディスカッションなら、小説でやってもあまり面白くないだろう。この小説で展開される未来像の面白い点は、作中の現実が登場人物たちを待ってくれないところにある。ディジエントはのほほんと市場を拡げて成長することはなく、常に外部からの悪意に晒され、あるいは企業間競争の勝敗の影響を受ける。ディジエントたちが活動する仮想空間も、そこを運営する企業がなくなれば失われてしまう儚いものだ。SFは現実の一歩先をいくけれど、すぐに現実が追いつき、予想もしない形で追い抜いてしまう。テッド・チャンによるこうしたシミュレーションは、いやにリアルで意地悪だ。そして、だからこそ面白い。

 答えの出ない問いを与えられ続け、もがき続ける物語は、ついに答えを出せないまま結末へ至る。良い話風にまとめることさえしない。だがそれでも不満に思わないのは、そこまでの過程で逃げ道や解決策は潰されてしまっているからだ。答えは出ない、と云う答え。むしろ良い話風の落ちがついていたら、評価は下がってしまったことだろう。説教くさいと嫌ってしまえばそれまでだが、その問いかけをどこまでも推し進めることで傑作となった作品。

 これまでテッド・チャンの作品は短篇集あなたの人生の物語「息吹」(『SFマガジン700【海外篇】』所収)、「商人と錬金術師の門」(『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』所収)と読んできたが、本作が一番面白く読めた。

 

 ダリル・グレゴリイ「二人称現在形」(2007年1月号所収)も、意識の在り様と云う答えの出ない問いを扱っているが、こちらはあるひとりの少女に寄り添うことで、良い話として終わらせた作品。こちらの場合、良い話で終わったことで傑作になっている。もしも延々スペキュレイティヴな議論で終始すれば、ここまでの感動は与えられなかったはずだ。 

 物語の鍵を握るのは《ゼン》などと呼ばれるドラッグだ。これはドラッグにありがちな快楽を与えない代わり、摂取した者の意識と行動との間の距離を引きのばす。普通、人間は体内の働きによって何らかの行動を起こし、それとほとんど誤差なくそのような行動に至る経緯を意識する。《ゼン》は、この過程で意識を封じ込めてしまうのだ。外見上は何も変わらないが、意識は全く働いていない、そんな状態へ追いやる。記憶を失う程度ならまだマシで、もし過剰摂取してしまったら、切り離された意識が戻ってこなくなり、別人となる――この小説の語り手である《わたし》は、この事態に陥ってしまった少女だ。わたしはわたし。過去のわたしが何をしたのかは思い出せる。しかし、過去のわたしは今のわたしではない……。

 意識は、自我は、どこに在り、いかに在るのか? 考えすぎると落ち着かなくなってしまうこの問いを、「二人称現在形」は自分の形成過程で自分から切り離されてしまった少女が、自分とは違う自分をどのように受け止め、引き受けていくかと云う物語に仮託する。ただ、上でも書いたように、思索に耽ることはあっても過度に物語を抽象化することはなく、あくまでも彼女の物語として書き切ったことに本作の良さがある。周囲の世界によって規定された過去の自分と、わたしはわたしだと主張する今のわたし自身、その折り合いを付けていくことはつまり、ままならない世界でそれでもおのれの人生を引き受けていくと云うことでもある。

 作者のダリル・グレゴリイは、邦訳がこの短篇と長篇『迷宮の天使』のみ(長篇の方は未読)。もっと紹介が進んで欲しい作家だ。

 

 紹介が進んで欲しいと云えば、イアン・マクドナルドもそんな作家のひとり。新作を出せばとりあえず翻訳されるテッド・チャンに較べてしまうと、広く愛されるタイプの作家ではないものの、こちらの偏愛を誘う、独特の魅力がある。言葉を乱れ打ち、文章がもんどり打つような文体と、熱量が迸る鮮烈な作風。「ファン・ゴッホによる〈苦痛の王〉の未完の肖像」(1990年11月号所収)も、一読忘れがたい印象を残す作品だ。

 タイトルのファン・ゴッホとは、もちろんフィンセント・ファン・ゴッホのこと。物語は、画家として苦しい生活を送る彼が、遠い未来からきたと云う〈苦痛の王〉なるものから、肖像画を描くよう依頼されることで動き始める。〈苦痛の王〉によって、未来は苦痛のない世界だと云うのだが……。耳を切り落とすなど、ゴッホの狂気じみた奇行の数々は今日も知られているが、本作は歴史には語られなかった〈苦痛の王〉との出会いを挿入することで、それらを説明づけてしまう。だがその真実は、単なる狂気と説明づけた方がまだ良かったのではないかと思えるほど、傍から見るとすさまじいものだ。これが〈苦痛の王〉にとっては良いことであると云うあたり、彼は決定的に歪んでいる。彼によって支配される世界は、想像するだにおぞましい。そして、ファン・ゴッホ自身もこの歪みに対して反逆する。

 だから本作は、ゴッホと云うユニークな素材を扱った奇想SFであり、彼の狂気に説明を与えるミステリでもあり、〈苦痛の王〉による苦痛なき世界を批判するディストピアSFでもある。イアン・マクドナルドのひとつの特徴である様々なものをリミックスする描き方が、本作を無二の魅力を持った作品にしていると云えるだろう*1

 そうして様々な要素を取り込んだ物語が迎える結末は、もうこれ以外あり得ないと云うべき見事なものだ。恐ろしく、また、美しいそのラストは、フィンセント・ファン・ゴッホと云う男の鮮やかな肖像を読み手に刻みつける。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 
迷宮の天使〈上〉 (創元SF文庫)

迷宮の天使〈上〉 (創元SF文庫)

 
火星夜想曲 (ハヤカワ文庫SF)

火星夜想曲 (ハヤカワ文庫SF)

 

*1:実はそれほど作品を読めているわけでもない。私は今知ったかぶっている

POSシステム上から消失した「銘」:銘宮「黄金の降る場所で」

 円堂都司昭「POSシステム上に出現した「J」」*1は、全てをバーコードによって特定していくシステムに危ういほどその身を近付けつつも最後には否定をぶつけるものとしての本格ミステリ像を語る、刺激的な評論だった。ここで例示されているのは90年代に現れた清涼院流水の〈JDC〉シリーズだ。登場する探偵たちそれぞれに特殊な設定を与え、それらを羅列して配列し、管理をおこない、個々を特定する――しかし作中でその個々の設定が活かされることはあまりない――そのような作中のシステム、語り方に円堂はPOSシステム的支配の構造を見出す。そこから本格コードvs.バーコードの戦いを論じていくわけだが、この読解を見ながら自分の脳裏に浮かんでいた名は清涼院ではなかった。

 それは、〈東方project〉の名前である。

 

東方project〉(以下、東方)は上海アリス幻樂団による弾幕STGである。清涼院と同じく90年代に始まりを持つ*2このゲームは、N次創作が枝分かれと統合を繰り返した果てにいまや全体像を把握できないほどにまで巨大化しているが、ゲーム本篇における能力者たちの扱いは実にPOSシステム的だ。

 東方においては、キャラクターのほとんどに能力や特殊な設定が与えられるものの、それらは決して頻繁に作中で明確な意味を持って活躍することはなく、物語を形作るものと云うよりはキャラクターたちを特定するシステムとして機能している。このキャラクターはこの能力を持っていて、このような設定を持っていて、と割り振られた属性を同定しながら、プレイヤーたちはキャラクターひとりひとりを把握していく。

 だが、能力や設定がこのPOSシステム的支配に留まるのはあくまで原作に限っての話だ。東方の本領と云って過言ではないのは、そこから展開される無数の二次創作である。それらの多くが、新たな物語を語るための手がかり、足がかりとして、作中では活用されない能力や設定を拾い上げていく。逆に、能力や設定を回収されない伏線と見なして回収しようとした結果、新たな物語が語られる場合もあるだろう。いずれにせよ、東方二次創作では、キャラクターたちが原作のPOSシステム的支配から解放されているのだ。

 こうした二次創作による解放を歓迎してか、からかってか、原作側は新作を出すごとに新しい要素でキャラクターたちを翻弄し、不意打ちのように新設定を開示して、さらにもう一方の手では考察を煽る謎を残す。これに二次創作者たちは新たな二次創作によって応える――。そこに成立しているのは、火花散る危うい闘争ではなく、その危うささえ楽しみとして振る舞ってしまう、どこか甘美な共犯関係だ。両者は分かりやすい対立構造を崩し、単なる主従を超えて、東方なる巨大なコンテンツを今日も拡大し続けている*3

 ただ、ここではその展望を詳しく語るつもりはない。自分が本稿で眺めたいのはもっと具体的ないち作品――以上のような、東方とPOSシステム的支配の関係をユニークな形で照らし出す、銘宮(風切羽)によるミステリ短篇「黄金の降る場所で」だ。

 以下、ネタバラシにはなるべく配慮するが、作品自体はpixivに公開されているので、可能であればそちらをまずお読みになっていただきたい。(なんなら、それで満足すれば以下は読まずとも構わない)

 

www.pixiv.net

 

 ある日、天狗たちにもたらされた告発。上白沢慧音が誰かを殺したと云うのだ。しかも彼女は、被害者が幻想郷で生きていた歴史すら消してしまったのだと云う。彼女は誰を殺したのか、そして、幻想郷から何が失われてしまったのか――。

「黄金の降る場所で」の魅力を説明することは難しい。そもそも魅力なるものを語ることが難しい、と云う議論はさておくとしても、いわゆる伝統的なフーダニットとは異なる問題提起をおこない、これまたフーダニットとは一線を画す解決へとなだれ込み、また同時にれっきとした東方二次創作であるこの物語は、それぞれの要素が類を見ないものでありながら高い完成度をもって成立してしまっているため、その面白さを語ろうとするとどうしても漠然としたものとなるか、無理に要素を取り出したものになりかねない。「すごい」と何とか言葉を絞り出しても、それはこの物語が持つ独自性に比べれば泣きたくなるくらい陳腐な表現だ。「黄金の降る場所で」に限らず、これは銘宮作品の多くに共通するもどかしさだが、とりわけこの物語はその完成度だけに物語を解体して評論することが容易ではない。

 本稿冒頭でわざわざPOSシステムなどと云う一見奇妙な視点を持ちだしたのは、だからこのような斜め後ろの観点からならもう少し深くに切り込めないだろうかと云う目論見だったのだ。まるで見当違いかも知れない、だが思いついたのだから仕方がない、やってみよう。

 

「黄金の降る場所で」でまず目に付く特徴は、指名すべきキャラクターが、作中で一度も登場していないことだ。名前が言及されないだけでなく――なぜならその文字すら失われているから――その存在自体が、物語から抹消されている。問題の設定上当たり前だが、このような問題を二次創作以外のミステリでおこなう方法はおよそ思いつかない。読み手の中に予めキャラクターのリストがあるからこそ、作中で一切言及しないキャラクターを指摘することができるわけだ。

 だが、このキャラクターのリストとは何だろうか。東方二次創作に多少なりとも触れてみれば分かるとおり、作品によって――時には原作同士でも――キャラクターの造形・解釈は異なっている。例えば「黄金の降る場所で」では射命丸と犬走の関係は決して悪いものではないが、別の二次創作ならば、どちらか一方がもう一方を完全に嫌っているものもあろうし、また、ふたりが友人以上の親愛をもって付き合っていることもあるだろう。読み手は、それらの異なる《あやもみ》像をひとつに統合することはできないが、その一方で同姓同名なだけの異なるキャラクターとも思わない。だとすれば、たとえ造形や解釈が異なっていようが、それらが同じ射命丸文であり犬走椛であると見なすために参照するプレーンなキャラクターのリストが、読み手の中に存在しているはずだ。

 このリストは、読み手の好み、解釈が反映されているとしても、おそらくその大部分に、キャラクターの名前と能力、基本設定が書き連ねられていることだろう。であればそれはキャラクターの集合と云うよりも彼女らを特定するための機関であり、この特定システムがPOSシステム的支配であると云うことは上でも述べた。「黄金の降る場所で」は、読み手が東方のキャラクターに対しておこなっているPOSシステム的支配へミステリの手続きの一部――指摘するべき解の範囲の指定――をすっかり委託することで、物語の完全な外側から真実を持ってくると云うアクロバットを成し遂げた。

 もちろん、このような試みは銘宮作品に限らず東方二次創作、あるいは二次創作ミステリ全体に見られるものだろう。「黄金の降る場所で」の独自性は、こうした読み手のPOSシステム的支配を利用しながら、その上で、物語自体が独自のPOSシステム的支配を提示する点にある。

 作中において、上白沢慧音の能力は《阿迦奢年代記への干渉》と説明される。ある過去を認識するために参照する歴史、それが参照している歴史が参照している歴史――と、遡っていった果てに辿り着く、究極の情報源。彼女はそれを書き換えることで、それを参照元とする歴史の一切を改竄する。まるで、ワンクリックで情報を一新するPOSシステムのように。この能力は、実際に経験したことによる歴史認識には作用しないが、「黄金の降る場所で」では被害者があまりに古くから存在していたものであるがゆえに、そのような抜け道も塞がれている。これはミステリの構造のみに絞れば解答の範囲を絞るヒントだが、読み手がそれを知って感じるのはむしろ、阿迦奢年代記によるPOSシステム的支配のもと、世界の全てが書き換えられてしまった衝撃と絶望だろう。上白沢慧音が殺したのは単なる個人ではない。彼女が犯したのは、世界一つを丸ごと書き換えてしまう、あまりにも大きな罪だった。

 かくして書き換えられてしまったPOSシステム的支配の中、犬走はそのほころびを集めることで、書き換えられたものを指摘してみせる。ただし、もし、上白沢慧音の能力が完璧なものであったなら、ヒントとなるほころびさえ生まれなかっただろう。「黄金の降る場所で」にケチを付けるとすれば、この能力設定の中途半端さだが、それは見方を変えれば、上白沢の世界への改竄に対する、そこで生きる人々の無自覚な抵抗の証である。はじまりに与えられる告発こそ、幻想郷外部からの干渉だったけれども、最後に指摘される犬走による解決は、こちらを把握して支配して改竄するシステムへの、支配下からの反逆なのではないかと思われてならない。

 もちろん、上白沢自身も、ヒントを――それも極めて重要なヒントを――与えてしまっていることは事実だ。大きすぎる罪を犯した彼女は、作中で誰よりも苦しんでいる。この物語において、POSシステム的支配に対する反抗があるとしても、それは上白沢慧音への反抗ではない。世界が改竄されたことを彼女しか知らない――「黄金の降る場所で」は、そうして苦悶する彼女に手を伸ばす物語でもある。

 かくして、支配のシステムを把握し返し、改竄へ反逆し、上白沢慧音に寄り添った先、ついに真相が明らかとなる。だが、その真相は決してただひとりの犯人あるいは被害者へと像を結ばない。むしろ浮かび上がるのは、POSシステム的支配とは異なるしたたかな支配の構造へのあまりにいじらしい復讐であり、その復讐へのあまりに悲しい反抗と云う、連鎖する支配と反逆の構図だ。元凶と云うべきものをひとつ指摘することも可能だが、その一点への怒りよりも、どうすれば良かったのか、と云う答えの出ない問いの虚しさと、こうなってしまったことへの苦さの方が胸に去来する。

 どうしてこうなってしまったのだろう。――ミステリはしばしば、この虚しい問いを読み手に抱かせる。どうしてこうなったのかは分かっている、しかしそれでも問わずにはいられない、どうしてこうなってしまったのか、と。なんとなれば、明らかとなった巨大な構図は、それへの驚き・畏怖と同時に、それによって押しつぶされた個人の声なき悲鳴を響かせているからだ*4

 そして本作もまたその例に漏れない。真実が明かされ、物語の全体像が浮かび上がると同時に、読み手は大いなる構図の中に押しつぶされてしまったキャラクターたちの声を、失われてしまった風景の中に聞き取ることだろう。失われたものたちが集う幻想郷から何かが失われてしまったと云う皮肉と悲劇。ここにおいてカラーページによる演出は、憎らしいほど巧く決まっている。

 加えて、演出の点でも、構図の中の要素としても、ラストの台詞を見逃すことはできない。このひと言は、まさしくフィニッシングストロークと呼ぶべき最後の一撃を読み手に与えるが、この衝撃をもたらしているのもまた、世界を支配して改竄するシステムの徹底ぶりであり、それによってある決定的なものまでもが失われてしまったことの開示であり、何より、そこまで考え抜いていたのかと云う作者による支配への畏怖である。作者の緻密な計算に、ただでさえ目の前の風景に圧倒されている読み手はしたたかに打ち付けられる。

 銘宮作品の特徴として、特殊な設定・設問からミステリを描きながら、最後にはまごう事なき東方二次創作として着地させることが挙げられるが、本作はそのフィニッシングストロークをもって完璧な詰めを最後に打って見せた。この一手が、冒頭で触れた甘美な共犯関係を完成させるのだ。

 POSシステム的支配を利用し、揺さぶり、反逆し、そして最後には、キャラクターたちをそうした支配から解き放つ。「黄金の降る場所で」が成し遂げたものを思うとき、その一切が、失われたあの「銘」へと収斂する。

*1:『謎の解像度 ウェブ時代の本格ミステリ』(光文社)所収

*2:ただし『東方紅魔郷』は2000年代に入ってから

*3:個人的には、同人作品がPOSシステムの通用しない即売会と云う場所で主に流通していることが非常に面白く映るのだが、そもそも原作も同人作品である以上、あまりそのような符合を弄びすぎるのは危険だろう。しかし、同人の発展のひとつにPOSシステム的支配への反抗を見出すくらいなら出来るかも知れない

*4:この表現は巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社)からの借用

2019年の抱負

 新たな年がはじまりました。昨年末はブログと云う格好の舞台を用意しておきながら一年の総括のようなものをやっていませんでした。*1今さらやったところで遅いですから、どうせやるなら今年の話をしましょう。

 と云うわけで、2019年の抱負をつらつら述べていきます。あくまで「こう云うことをやりたいな」と云う程度であり、こうして書くことで背水の陣的な効果を期待してはいますが、絶対に守るわけではありません。あしからず。

1. 「宿題を取りに行く」

 2018年に読んだ小説でない文章の中で、おそらく最も自分が感銘を受けたのは巽昌章の評論「宿題を取りに行く」でしょう。日本のミステリがながらく置き去りにしてきた宿題を指摘するこの評論は、完全に鵜呑みにするのも危険ではあり、また、全面的に賛同するわけではないものの、自分が今のミステリおよびその読者に対して抱いている漠然とした不信感・不安感を形にするものでした。

 わたしたちは何かを忘れているのではないか? 忘れているとすれば、何を? あるいは何かを忘れていると云うことさえにも気付いていないのではないか? ……ミステリは、このままで良いのか?

 ずいぶんと大きく出てしまいましたが、この一年間で、自分なりにこの宿題について考えていきたいと思います。

 また、ミステリに限らず、個人的に見て見ぬ振りをしていた様々な宿題を取りに行く一年にもしていきたいと考えています。大学生活の中でおそらく一番自由に出来る時期です。今取りに行かなければ、存在さえも忘れてしまうかも知れません。

 こう云うわけで、今年のテーマは「宿題を取りに行く」なのです。

 それでは以下、もう少し具体的な話をしていきます。

2. 読書

 去年、やろうやろうと思いながら、結局手を付けさえしなかったのが「英語の小説を原書で一冊読む」こと。今年こそこれをやります。読む本はまだ決まっていません。クリスティーあたりはどうだろうかと考えています。

 また、ジーン・ウルフと向き合い直します。好きな作家でありながら、未だによく分からない彼の作品群から目をそらすのをやめにします。さしあたっては、〈新しい太陽の書〉と『ケルベロス第五の首』の再読&読み込み、でしょうか。

 去年はミステリに重心を移しきってしまいましたが、今年はSFもあまり疎かにしたくありません。本棚の青背率をもう一割くらい上げたい。

 ブログを更新して行くに当たって、評論系の読書量も増やしていこうと思っています。自分の感覚だけではあまりに心許ないので。 

3. ブログ

 見切り発車的にはじめたこのブログも周囲では思いのほか好評をいただいています。ありがたいことです。

 今後も運用方針を変えるつもりはなく、特定の作品についての短い文章を気ままに書いていこうと思っています。今のところとりあげる予定なのは、小川哲、レジナルド・ヒル、銘宮、加藤元浩など。このブログは自分の中で優先度が低めなので、どこまでやれるかは他との兼ね合いによります。最低でも月一更新は守りたい。*2

4. ミステリ研

 私事ですが大学では推理小説研究会に所属しておりまして、今年は運営に関わる立場となりました。ミステリ研会員としての意気込みをここに書いても仕方がありませんが、とりあえずここでも「宿題を取りに行く」を目標として掲げておきましょう。

 その目標を達成するにあたって、とりあえず、次は読書会を主催します。課題本は候補を二つ三つまで絞りました。大きな心変わりでもしない限り、そのうちのどれかでおこないます。非ミステリになる可能性が高いです。

 それに、もし可能であれば犯人当てもします。去年の犯人当てであらわになった課題を踏まえつつ、自分なりの犯人当てを模索していく所存です。ただ、前回の犯人当ての後、会話の流れで「次に書くとすればこれの続篇になる」みたいなことを云いましたが、その宣言を守れるかどうかは怪しくなってきました。

 また、ミステリ研内には個人的に倒したい人たち(敵意を向けているわけではありません)がいるので、倒すことの是非も含めてそれについて考えていきます。そもそも倒すってどう云うことなのでしょうか。

 他にも、ミステリ研内の資料を整理したいとか考えていますが、これはやる気次第です。今のところ主導してまでやってやろうと云うほどの気概はありません。

5. 創作

 犯人当てを除いた上で、何かを書きます。

 まず、去年これまた犯人当ての後の会話の流れで書くと宣言してしまった短篇(あるいは中篇)を、春までを目処として何らかの形にしたいと思っています。今は「書きたいものはあるのだがどうやって書けば良いのか分からない」状態。手がかりを求めて資料をちびちび集めていますが、これをどうすれば良いのやら。もしかすると、全く資料と関係ないものが出来上がるかも知れません。そもそも出来上がるのかと云う問題もありますが、ここでやらなければずるずると引きのばしそうな気がするので、何かは書きたいところ。

 それが出来れば、色んな方から「書かないの?」と云われてきた東方二次創作を何か書きます。こちらはまず何を書きたいのかを決めなければいけません。書きたいものはあれこれとありますが。秘封倶楽部のSF? 幻想少女たちの倒叙ミステリ? 天狗たちを主役にした捕物帖? 個人的な理想は幻想郷でチェスタトンとクイーンを出会わせることですが、そんなことが出来るとすれば山口雅也を憑依させた者か山口雅也本人くらいでしょう。まあ、幻想郷は全てを受け容れると云う言葉を信じて、自分なりに(今回はこの言葉が頻出しますね)やっていきます。

 去年発表した犯人当ての主人公たちがわりあい気に入ったので、何か思いつけば何かを書く、かも知れません。

 

 以上、2019年にやりたいことでした。全て実行するのは大変ですが、自分のやる気や体力や大学の単位と相談しつつ、無理しない程度に頑張ります。

*1:単純に忘れていた。

*2:なお、この記事で1月分のノルマは達成とします。

お蔵出し的なもの、あるいは「デス博士」の書き出しについて

  年末だからと云うわけでもないが、パソコンのフォルダを整理していたら懐かしいものを見つけた。高校時代に国語の授業の課題で提出した、ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」の書き出しについてぐだぐだと述べた論考(らしきもの)だ。前回*1やたらと気張った文章を書いた結果、次はどうしようかと書きあぐねていたので、とりあえず次までのその場しのぎにはちょうど良い。ずいぶん拙い文章だが、ここで出さなければ一生公開する機会もないと思われた。

 最初の部分には若干手を入れているが、基本は、つまり、書いていることは高校時代そのままである。高校生の青さを微笑ましく見るも良し、成長がないと嗤うも良し。まあ、前置き(云いわけ)はこの程度で良いだろう。それでは、以下、ご笑覧ください。

 

「デス博士の島その他の物語」の冒頭について

 Winter comes to water as well as land, through there are no leaves to fall. The waves that were a bright, hard blue yesterday under a fading sky today are green, opaque, and cold. If you are a boy not wanted in the house you walk the beach for hours, feeling the winter that has come in the night; sand blowing across your shoes, spray wetting the legs of your corduroys. You turn your back to the sea, and with the sharp end of a stick found half buried write in the wet sand Tackman Babcock.

 Then you go home, knowing that behind you the Atlantic is destroying your work.

――The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories*2

 落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい銅青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜にして訪れた冬景色の中を何時間も歩き回るだけだ。砂つぶが靴の上を飛び、しぶきがコーデュロイの裾を濡らす。きみは海に背を向ける。半分埋まっていた棒をひろい、そのとがった先っぽで湿った砂の上に名前を書く。タックマン、バブコック、と。

 それから、きみは家に帰る。うしろで大西洋が、きみの作品をこわしているのを知りながら。 

――「デス博士の島その他の物語」(伊藤典夫=訳)*3

 一見してわかるのは、本作「デス博士の島その他の物語」(以下、「本作」)は二人称現在という特殊な語りの形式を採用していることだ。若島正は『「デス博士の島その他の物語」ノート』の中で、この形式の効果を、虚構内虚構(作中作)の存在する本作において作品自体と作中作のレベルの相違をわかりやすくし、また現在形を用いて先の展開の不安定さを生み、ひいては一人称と三人称の視点を融合させることで「タッキーが眺めた世界」と「タッキーが知り得ない世界」とを区別している、と指摘する。だが、冒頭に限っては、この語りはまた別の効果も持つ。というのもここにおいて、二人称現在の上に加えてもう一つ、仮定法という技巧が使われているからだ。

 まず書き出しは「落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい銅青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。」という人称の定かでない二文だ。しかし次に続く一文では「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜にして訪れた冬景色の中を何時間も歩き回るだけだ。」と、二人称であることが明かされ、何者かが「きみ」に語り掛けている構図が出来上がる。

 ここで注目してもらいたいのは「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら」という部分。この「もし」とは何だろうか。作中での「きみ」は、読み進めていけばタックマン・バブコックという少年だと判明する。だのに「もし」と仮定しているのは、読み手に「「きみ」がタックマン・バブコック(その時点で名前は知らされていないので、ここではすなわち物語の中の特定の登場人物のこと)ではない可能性がある」ことを示すために他ならない。

 そもそも、読み手は物語のモノローグでいきなり「きみ」と呼びかけられれば、それが物語であることを束の間忘れ、あたかも自分に宛てられた手紙のように「きみ=読み手自身」と錯覚する。「きみ」と呼びかけられる対象と読み手自身を重ねることで臨場感・親近感を増させるのは語りの技術のひとつだ。

 もちろん、本作は書き出しの(読み手にとっては全く知らない)風景の描写によって、これが読み手への手紙などではないことを予め示しているのだが、まだ読み始めたばかりの読み手の脳はそれでも簡単に錯覚する。そののちすぐそれは錯覚だと、再び読み手にとっては未知の描写を重ねることで明らかにするものの、たった一瞬だけでも読み手を錯覚させるすなわち読み手が錯覚する、それだけでこの「もし」の役割は充分と云えよう。そのたった一瞬のうちに読み手は本作に自らをずれこませる。それは物語という虚構と、読み手という現実との距離がゼロとなり、重なる瞬間である。この一瞬に覚えさせる錯覚が、のちに展開される、タッキーが作中作にのめり込み逃避するという構図への伏線となる。さらには、結末における「デス博士の島―それを読みながら現実で体験するタッキー―それらを読む読み手」というある意味当たり前な三重構造を物語の仕掛けとして読み手に強く意識させる布石まで打たれているのだ。

 本作の収録された短篇集一冊をとっても、あるいは代表作たる『ケルベロス第五の首』を見てもわかることだが、ジーン・ウルフは物語を物語るという行為それ自体に仕掛けを施し、テーマを込める。本作の冒頭にさり気なく挟まれた「もし」「If」という一単語には、そんな彼の卓越した技巧と、作家としての姿勢が端的に表れている。

  しかし、本作の冒頭に仕掛けられた技巧はそれだけではない。最前は流した描写、この映像的な文章も、見逃せないウルフの特長である。文章による描写をカメラワークのように喩えるならば、本作のカメラがまずとらえるのはセトラーズ島から見える海であり、そこに訪れ、そしてセトラーズ島へも訪れる冬だ。銅青色から緑色に移ろう海の色は、当然のことだが近くから見れば大した違いは無いはずであり、この色の違いを示すことで、読み手の視点を浜辺から、海の遠くまで見渡す大きな景色へと向ける。そこから少年がひとり浜辺を歩き回る姿へと焦点を移すことで、単に「家でかまってもらえない」という言葉だけでは伝えられない少年の孤独と寂しさが巧みにこの壮大な景色の一点へと描き出されている。

 而して、カメラは次に少年の靴という小さな対象へと視線を向ける。その直前で、読み手と「きみ」との距離が縮まっていることを思い出してほしい。カメラは「きみ」であるところの少年の視点と一致している。そこでの、この「靴」の、「コーデュロイ」の描写なのだ。少年の視線はすぐそこの雄大な(けれども寂しい)景色から、下へと向き、彼の眼は伏せられた。ここにも少年の寂しい気持ちが読み取れるのである。

 もちろん、そこまで考えながら読み手は本作を読みはしないだろう。だが、この冒頭を読みながら確実にその頭の中で、大きな景色を歩き回る孤独で伏し目がちな少年を想像するに違いない。映像的でありながら、同時に、映像によってすべてを描くのとは違う、「想像すること」の面白味も含ませて、ウルフはたったひと段落で少年のどうしようもない孤独に読み手を共感させてしまったのだ。

 さて次に、少年は海に背を向ける。ここでも詳しく書かれていないものの、彼が家へ帰るないし海を離れようとしているのは明らかだ。壮大な景色に背を向ける彼の背中はやはり寂しい。

 ところが、彼はすぐには海を離れず、手近な棒切れを拾う。この棒の描写も巧い。広がる浜辺で一本刺さっている棒は、少年と同様に寂し気である。引き抜いたその先端は水に濡れている。飛沫の散るあたりを歩いているのだから砂が濡れているのは当然であるが、ここで少年の歩く浜辺が、刺した棒が濡れるほどに水気があることを、読み手にはっきりと明かす、そうすることで、彼の一歩一歩が濡れた重い砂に踏みしめられるその様を想像させるのだ。これは想像の行き過ぎだろうか? だが、ウルフの描写にはそこまでイマジネーションを喚起させるだけの力がある。

 拾った棒で少年が砂浜に書くのは自分の名前だ(ここで前段落において指摘した、砂が濡れているという事実がしっかりと描かれているのを見逃してはいけない)。そこではじめて少年の名前が明かされる。注意したいのは、伊藤典夫訳では「名前」と書いているものの、原文では彼の書くのが「名前」であるとは明言していないことだろう。しかしそれが名前であることは明らかなわけで、無駄な言葉を限りなく削いでいるウルフの描写の姿勢がここにもよく表れている。

 そう、ウルフは無駄な言葉を用いない。逆に云えば、書かれた言葉には何かしらの意味が込められているのであり、全てが読み手の想像を刺激する。それは右のように精読してきた通りだ。

 もっと云えば、ジーン・ウルフは読み手に全幅の信頼を置いているのだ。それは決して書き手としての怠慢ではない。ここまで書けば読み手は自分で想像し補完してくれるだろうというその信頼が、無駄のないシャープな文体と、映像的な描写を可能にしている。

機会があるならば、ウルフ作品の中でも屈指の書き出しで始まる短篇「風来」*4、あるいは言葉一つ一つに神経を注いだ美しき掌篇「列車に乗って」*5とも読み比べてみてほしい。最低限の描写で広い奥行きを生み出す、しかも本作とは異なった文体でそれをおこなってしまう卓越した手腕をわかっていただけると思う。

 さて、最後に、「きみ」すなわち少年タックマン・バブコックは、家路につく。この一段落が憎らしいほど巧みで、思わず情緒を揺さぶられる。浜辺に名前を書くというひとり遊びは彼を慰めてくれなかった。大西洋の波が自分の名前(すなわちそれは無意識下ではあれど自分自身の分身でもあるのだろう)が壊している。けれど彼は、顧みることなく、誰も自分をかまってくれない家へと帰る。少年は家を捨てることは出来ない、帰ることしか出来ないのだ。哀しい現実からは逃れられない、それは本作のテーマのひとつでもある。

 家路を往く彼の孤独な姿、その行方を追うためには、我々もここに留まるのではなく、ページをめくって物語を読み進めなければならない。結末へと足を踏み出すしかないのだ。

(了)

 

 以上、お粗末様でした。

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

 
The Best of Gene Wolfe: A Definitive Retrospective of His Finest Short Fiction

The Best of Gene Wolfe: A Definitive Retrospective of His Finest Short Fiction

 
S-Fマガジン 2010年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2010年 01月号 [雑誌]

 
ベスト・ストーリーズII 蛇の靴

ベスト・ストーリーズII 蛇の靴

 

*1:殺された神と、過ぎ去りゆくもの――天城一「高天原の犯罪」 - 鷲はいまどこを飛ぶか

*2:The Best of Gene Wolfe: A Definitive Retrospective of His Finest Short Fiction (Tor Books)収録

*3:『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)収録

*4:『〈S‐Fマガジン〉2010年1月号』(早川書房)収録

*5:若島正=編『ベスト・ストーリーズⅡ』(早川書房)収録

殺された神と、過ぎ去りゆくもの:天城一「高天原の犯罪」

 

 (以下、天城一高天原の犯罪」の真相に触れています)

 

「わかってないのさ。君は、わかってないのか、忘れようとしているのさ。大戦争をボッ始めた張本人の一味だとゆうことを、物見事にゴマ化そうとしているんだよ。南京とマニラの虐殺の責任をチョロまかそうとしているんだよ。三年前には『神国』に住んでいたくせに千万年も前から『民主国』に住んでいたような顔をしようとゆうのさ。戦争と虐殺の一切の責任を、うまいこと巣鴨の連中に転嫁して、この俺の手だけは清潔だといいたいのさ。(…)」

――「高天原の犯罪」284頁*1

 「高天原の犯罪」が密室ミステリの古典にして傑作であることはかなりの賛同を得られるだろうが、これにもしケチを付けるとすれば、犯人の降り方についてだろう。現人神たる教祖は誰にも見られることがない――見ることが許されない――から、神を畏れずその後ろをついて行けば、神と同じく誰にも見られることなく拝殿へ登ることが出来る。そこまでは良い。だが、神を殺した後、犯人はどうやって誰にも見られることなく降りたのか? 作中で名探偵・摩耶正は、犯人たる巫女が詔を持って降りることで、神と等しい存在となったのだと説明している。理屈は成立していなくもないが、登り方の鮮烈な発想に比べれば、あるいは、巫女と云う立場を利用した「ユダの告発」の巧みな計画に比べれば、片手落ちをなんとかごまかしたと云う印象が否めない。竜頭蛇尾だ。画竜点睛を欠く、とも云えるか。

 この欠点はどうしようもないと云う考えもあるだろう。上ったからには降りなければならないが、上ったときの手段はもう使えない。以下に策を弄して降りようとも、登り方を超えられるとは思われない。そんな些事などどうでもいい、この上り方の提示を以て、「高天原の犯罪」は歴史に残るべきなのだ、と。

 本当に?

 考えてみよう。上ったからには降りなければならないが上ったときの手段がもう使えないのは、見えない――見てはならない――存在である神がもういないからである。なんの細工も要らずに誰にも見られることなく自由に移動できるのは神だけだ。降り方の問題はここに起因する。ならば、解決策は一つしかない。神が殺せば良い。

 実を云うと、見てはならないから誰にも見られなかった、と云うトリックは「高天原の犯罪」以後も流用されている*2。これら「高天原」以後と、「高天原の犯罪」との違いは、神が殺しているのか、神が殺されているのか、の違いだ。神が殺せば、現場への出入りはまったく自由だ。わざわざ詔などを持ち出す必要はない。容疑者として登場させづらくなることは間違いないが、主眼は見てはならないから見えないと云うロジックなのだから、やりようはいくらでもある。

 天城一がこれに気付いていたかどうかは分からない。しかし、神は見てはならないと云う論理から始まり、他の摩耶正シリーズのように、謎と解明以外の全てを削り落としたかのような構成をもって「高天原の犯罪」を書こうとすれば、神が殺せば良いと云うことには思い至りそうなものだ。

 だからここでは、天城一は(自覚的であったにせよそうでないにせよ)あえてそうしなかったと考えてみたい。「高天原の犯罪」では、神は殺人者でなく、被害者でなければならなかったのだと。

 「高天原の犯罪」における、神は見てはならない、と云う論理がミステリのトリックたり得るのは、それを読む者たちにとってこの論理は忘れられたものだからだ。かつて、人間にして神である者が実在していた時代であれば、これはトリックではなかった――つまり、読者にとっては決して思い至らない論理と云うわけではなかっただろう。少なくとも、これがトリックになると考えられた背景には、天皇が神であった時代の終りがある。それは、この文章の冒頭で掲げた摩耶正の台詞を見れば明らかだと思う。

 逆に云えば、「高天原の犯罪」のトリックは、神亡き時代に対して向けられたものだった*3。この神亡き時代をミステリのトリックとして描くならば、殺されるのは神でなければならなかっただろう。神がいる世界で神が殺人を犯すのではなく、神がいない世界で神がいた世界から神がいなくなる世界への変貌を語る物語でなくては、それを皆が忘れている物語でなくてはならなかっただろう。そしてまた、神を殺すのは、過ぎ去りゆく神の背後にピタリと張り付いた、神ならざるものでなければならなかっただろう。

 神の背後に張り付いた殺人者を歴史の解釈と結びつけるのは容易い。神の言葉を伝える者としてひとびとを操り、果てには神を殺してしまった存在――。戦争そのものを問うことはこの文章の目的ではないが、そうした解釈をなす上で浮かび上がる、なぜ戦争が起きたのか、誰が戦争を起こしたのか、戦争とは何だったのか、戦後とはどんな時代だったのか、――これらは「高天原の犯罪」に限らず、天城一作品全体で投げかけられている問いだ。

 『風の時/狼の時』では、戦争に向かう時代の中で起こったある殺人の真相を通して、なぜ戦争が起こったのか、どうすれば戦争を止められたのか、と云う問いが投げかけられる。だが、個人が立ち向かうにはあまりにも巨大な問いと真実に、彼らは立ち尽くすしかない。

 『宿命は待つことができる』は、敗戦後すぐ、占領下の日本で、黒い霧の中をもがいたひとびとの物語だった。それから長い時を経て、あの時代の勝者と敗者が問い直され、解釈し直される。《バロネス・ベルとの戦いは、他の手段によるあの戦争の継続だったのだ》*4

 そして『沈める濤』*5だ。物語としての完成度は上の2作品にいささか劣る。だが、中盤においてなされる語りの断絶と引き継ぎは、時代を語ることの困難さと、それでも語らなければならないと云う物語の意志を感じさせる。

 この3例は長篇だが、短篇であっても、物語が戦後を意識しているのは変わらない。その鋭く切り詰められた文体で描き出されるのは、神亡き時代の風景と、神がいた時代の追想だ。それを最もミステリのトリックとして描いて見せた作品こそ「高天原の犯罪」だった。神が殺されたことを、それから大きく変貌してゆく時代を、忘れてしまったかのように、見えないかのように生きることへの告発だとも云える。

 神が目の前を通り過ぎる。ひとびとはそれを見ることができない。その後ろに神ならざる神の代弁者が張り付いていることを、それによって神が殺されたことに気付かない。天から降りてきた、神の言葉を持つと称する殺人者が神に成り代わっていることが分からない。いや、ひとびとは、分かってはならないのだ。

 そしてこれは決して、過去の物語などではない。

 あの時から半世紀近くが過ぎ去っていますが、私は恐れています、今なおかの時と同じように、人々の目の前を、明らかなるがゆえに見えないものが通り過ぎ去って行くのを、見逃してはいないでしょうか。

――『密室犯罪学教程』206頁*6

   いくら目をこらそうと、《明らかなるがゆえに見えないもの》は見えない。せわしなく移ろう時代の中で、それは目の前を通り過ぎてゆく。それが見えなかったことも、それが存在していたことも忘れられてゆくのではないか。問いは過去に取り残され、取りに行く者など誰もいない。天城一の一連の作品は、置き去りにされた過去を、ひとびとを、問いを、取りに戻ろうとしているように思える。

 「高天原の犯罪」は、敗戦から3年で書かれた。この物語が今もなおすさまじい迫力をもっているのは、単なる発想の鮮やかさや、鮮烈な文体ゆえに留まらないだろう。優れたフィクションは往々にして現実を射貫く。では、神を殺した物語が射貫くのは、何なのだろうか?

 いい加減、問いを取りに戻っても良い頃だ。

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 
島崎警部のアリバイ事件簿 (天城一傑作集 (2))

島崎警部のアリバイ事件簿 (天城一傑作集 (2))

 
宿命は待つことができる (天城一傑作集 (3))

宿命は待つことができる (天城一傑作集 (3))

 
風の時/狼の時 (天城一傑作集 4)

風の時/狼の時 (天城一傑作集 4)

 

 

*1:天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)収録

*2:少なくとも自分が知っているのは、国内に2例

*3:『密室犯罪学教程』でも同様のことが語られている

*4:天城一『宿命は待つことができる』(日本評論社)、15頁

*5:天城一『風の時/狼の時』(日本評論社)収録

*6:天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)収録