鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/12/25~12/29

 たぶん今年最後の読書日記。年間ベスト記事を年内に書けるだろうか。

ジョン・ディクスン・カー『四つの凶器』(創元推理文庫

「見事ではありませんか? 逆蛍の老いぼれバンコランはたとえて言えば脱帽し、ゆがんだ道筋をたどるゆがんだ天の摂理に敬意を表しますよ。(…)」

 怪奇要素はまったくないけれど、つい〝複雑怪奇〟と云う形容をしたくなる作品。中盤あたりは、もう、何が何やら。本書はぼくが最近読んだカーである『白い僧院の殺人』や『緑のカプセルの謎』と同様、複数の人間の意図と行動が交錯した結果として謎が出現する話なのだけれど、『僧院』『カプセル』が〝雪密室〟や〝衆人環視〟などひとつのシンプルなシチュエーション――もちろんそこに、意外なほどの奥行きを作り出すわけだ――を提示していたのに対し、本書では〝四つの凶器〟と云うまず表面からして複雑な事態が呈される。事件現場に発見されたのは剃刀と銃と薬、そして短剣。どの凶器が用いられたのか? 使われなかった凶器は、ならばなぜ現場にあるのか? 事件はさらに、なりすましやスパイ疑惑などによって過剰なまでに複雑化している。一応、凶器をめぐっては(図式だけ見れば)鮮やかなアイディアが中核をなしているのだけれど、これは複雑な事態を解決するどころかいっそう複雑な印象を与えるだろう。そのアイディアが作品内で実現されるにあたって絡み合った意図と偶然の相互作用は気が遠くなるほどだ。しかも(!)、そのアイディアは本書の中盤で明かされてしまうのである。後半はいささか唐突な感もある賭博もの風の展開を経て、犯人をめぐって余計に複雑な構図が示される。自分は解決篇を読みながら、しばらく何が起きているのか把握できなかった。各々の意図と行動が絡み合い、支え合い、しかし根本的にすれ違い、途方もない偶然がその交錯を加速する。とりわけ最終的に明らかとなる犯人の目的については、いっそ不条理ですらある。山口雅也は『貴婦人として死す』解説で、本書における偶然の扱いについて〝神の領域〟と評しており、作中でも探偵役のバンコランが〝天の摂理〟に敬意を表する。本書の〝事件〟は人間の企図なんて超えているのだ。
 構図が偶然を〝運命〟にすると云うならば、本書では構図をさらに複雑にすることで〝運命〟さえも解体し、神の気まぐれのような不条理感を残す。その印象を踏まえれば、読んでいるうちは余計に思えて斜め読みしていた後半の賭博シーンにも含蓄が見出されると云うものだ。こうして感想を書きながら段々と評価が上がってきた、一読しての感想を書くのが――核となるアイディアを指定しづらいこともあって――難しい作品。
 それはそれとして今回も細部のアイディアが冴えている。事件現場の時計や、剃刀のロジックは膝を打った。全体が複雑だからこそ余計に、冴えたディテールが印象に残るのかも知れない。

 

滝口悠生『死んでいない者』(文春文庫)

 毎日毎日代わり映えのしない客の代わり映えのしない会話もまた、そこには必ず捨て置けない差異があり、その差異とともにこの店のささやかな時間が蓄積し歴史となる。彼女の趣味と意向で、店内の壁にはほとんど装飾がなされていないが、開店十周年を祝って常連たちが寄せ書きをした色紙がカウンターから正面の壁に飾ってある。カラフルなマジックで記された十名ほどの名前とメッセージのなかには、今日のこの四人のものもちゃんとある。その色紙がもう十年近く前のものになる。
 同じようでいて同じ会話は二度とない。

(「夜曲」)

 芥川賞受賞の表題作に「夜曲」を併録。「夜曲」は表題作を人数もシチュエーションも絞って再構成したような趣で、解説で津村記久子が本書のテーマを「夜曲」の一節〝同じようでいて同じ会話は二度とない。〟から見出しているように、表題作の種明かしと云う感もある。そして表題作は、素晴らしかった。ちょっとあざとい気もするけれど、終盤の途方もない美しさは忘れ難い。
 表題作の舞台はある老人の通夜。一堂に会した親戚たち(とは云えそこには、故人の友人なども出席しているのだけれど)のそれぞれの一夜をPOVがたゆたってゆく。この語りがなんともユニークで、三人称多視点のようなカメラの切り替えや神の視点のような俯瞰ではなく、幽霊のようにその場にいる者の視点に取り憑いては移ろう。それは記憶や思考、さらには時間を超越することもあり、果てはその場に存在しない、生きているかも定かではない音信不通の親戚にまで視点が広がってゆく。以前『同志少女よ、敵を撃て』について視点の不安定さが登場人物の身体・思考を空疎にしていると指摘した気がするけれど(ボイスチャットか何かの会話だったかも)、本書ではその不安定さを技巧として使いこなし、ひとつひとつの出来事、身体の身振り、それぞれの思考、喚起される記憶の数々、そして交わされる会話をかけがえのないものにする。マクロな歴史をミクロなひとりひとりにぎゅっと押し込んでしまうのではなく、ささやかなひとりひとり――もう死んで居ない者とまだ死んでいない者たち――の積み重ねとして歴史を起ち上げるのだ。急速に釣り上がる視点から語られる、聴き取ることのできない音までも記憶するラストシーンは、繰り返しになるけれど、途方もなく美しい。
 ただ、家族、と云うより「イエ」を前提にしたような話であり、個々人を縛るものであると同時に極言すれば他人同士の個々人を結びつけて居場所としてしまう家族なるものの両面性を自分は面白く読んだけれど、いまとなっては拒絶感を覚えるひとが多そうな前提ではある。顔も知らない親戚の葬儀で顔も知らない親戚と食事をした経験があるかどうかでも読み心地は変わってくるだろう(経験していなくともありありと想像させる作品ではあるけれど、自分の経験を想起することは本書の読書体験に強く関わってくる(まあ、どんな小説でもそれは同じか))。加えて、どの人物もいかにも「文学的」な内省をしたり、かと思えば少年少女に次々と酒を飲ませたりするのは、書こうとしていることはわからないではないとは云え――身体と思考の関係が云々――読んでいて気になった。これもたぶん、どう云う場を経験してきたかによって変わってくる読み心地に違いない。

 

小森収・編『短編ミステリの二百年〈6〉』(創元推理文庫

 エドガー・アラン・ポオが「モルグ街の殺人」を書いて、もうすぐ二百年です。短編ミステリに未来があるとするなら、それは「ジェミニー・クリケット事件」を目指すのではなく、?としか形容できないミステリを目指すところにあるのだと、私は思います。

 やってくれたな、小森収(敬称略)!

 アンソロジーとしての打率は相変わらず高く、とくにルース・レンデル「しがみつく女」やパトリシア・ハイスミス「またあの夜明けがくる」、ローレンス・ブロック「アッカーマン狩り」あたりは面白く読んだけれど、何より本書の目玉はクリスチアナ・ブランド「ジェミニー・クリケット事件」の英米両バージョン――この希有な作品は面白いことに、読み心地のかなり違う、優劣つけられないふたつのバージョンが存在するのだ――と、巻末の解説「誰が謎を解いたのか」だろう。と云うか、このアンソロジーの眼目こそがこれであり、この結末のためにこのアンソロジーは編まれていたと云って過言ではない。
 小森は「ジェミニー・クリケット事件」を20世紀最高の短篇ミステリと評し、これまでの収録作やエッセイで触れてきた短篇ミステリの美点がこの一篇に詰まっていると云うけれど、真相は逆ではないかと思う。つまり、「ジェミニー・クリケット事件」を20世紀最高の短篇ミステリとして位置づけるために、全6巻かけて小森収は、短篇ミステリ史を編み直し、短篇ミステリの美点を文脈づけたのだ。思わず「あなたが――蜘蛛だったのですね」などと云いたくなる。しかしそれでもなぜか、いや、だからこそ、小森が蜘蛛なのではなく、蜘蛛は「ジェミニー・クリケット事件」である。読むものに強烈な印象を与えながらその正体を捉えがたいこの短篇は、小森の解説で論じられている通り、謎解きに重点を置いた安楽椅子探偵もののパズル・ストーリーであると同時に緊迫感漲る進行形のクライム・ストーリーであり、なおかつ、そのどちらでもない。それでいて奇妙な味と評して躱すにはあまりにパズルに徹していると同時にサスペンスフルだ。そんな変幻自在の蜘蛛を、小森は全6巻分のアンソロジーで取り囲むことにより〝20世紀最高の短篇ミステリ〟として確保しようとする。しかし全巻を通して読み終えたとき残る印象は、むしろなおさら底知れなくなった「ジェミニー・クリケット事件」から、ほかの作品へと蜘蛛の糸がわたされてゆく感覚ではないだろうか。これまでこのシリーズを読んできたなかで作品間に感じてきた繋がりや共鳴――真実を相対化したり、謎解きに多様な役割を持たせたり、場合によっては謎解きを排除してもなおミステリとして成立させる文体やサスペンスの技巧であったり――の奥、そうして張りめぐらされた巣の真ん中に「ジェミニー・クリケット事件」が待っていたわけだ。
 小森は短篇ミステリの未来として、だからこそ「ジェミニー・クリケット事件」の真似ではなく、新たな「ジェミニー・クリケット事件」となり得るような――「?」としか表現できないものを求める(近年の、とくに21世紀に入ってからのエドガー賞などはあまりお気に召さないようだ)。悪い意味で「?」がしばしばくっつく解説は相変わらず良質とは云えないものの、すべての根本に、「ジェミニー・クリケット事件」を通して示したような態度があるならば、こちらとしても納得できないではない。エリスン評でゼロになった信頼を、ちょっとだけ見直してやらないこともないなと思った。
 最後は何様なんだと云う感じですが、ま、それが偽らざる本音でございます。ナニサマになれるのは若者の特権と云うことで、ここはひとつ。

 

 それでは、良いお年を。

読書日記:2021/12/21~12/24

 クリスマス・イヴはラファティを読んでAKIRAを観てランジャタイで笑っていました。これはこれで充実している。
 感想はミステリ研のDiscordサーバーに投稿したものを転載した。ひとに読んでもらうことを前提としているので、感想と云うより書評に近い文体を取ることがあって悩ましい。

ジョン・ディクスン・カー『緑のカプセルの謎【新訳版】』(創元推理文庫

「信じないぞ」フェル博士は言う。「絶対に信じん。どうしても信じん。自分の目を信じてどれだけ混乱したか考えてみい。わしたちは錯覚の家やトリックの箱のなかを、特別に奇っ怪な幽霊列車のなかを移動しておるんだ。(…)マーカスがあのぐらい創意工夫に富んだものを考えだすのなら、ほかのトリックだっていいものを――いやさらにいいものを考えてもおかしくない。わしは見たものを信じんぞ。誓って、信じたりせん」

 心理学的な実験の最中、衆人環視に加えてカメラによって撮影されるなかで毒殺された男。目撃者の間で証言は食い違い、カメラの映像もあまり当てにならない。しかしその映像には、一発で犯人を見抜くある矛盾が隠されていた――。
 解決篇を目前に一席ぶたれる〝毒殺講義〟と、何よりタイトルに印象が引き摺られそうになるけれど、作品の眼目はまさしく〝眼目〟――すなわち〝見ること/見られること〟にある。視覚とメディアの探偵小説と云うわけだ。ミステリはそもそも見る/見られる/見えないと云うことに敏感なジャンルではあるけれど、あくまで手堅い謎解き小説として終始した上でここまでそのテーマを追究することに成功した作品はないのではなかろうか(そう云えば同時代のクイーンやクリスティーってあまりカメラをミステリのネタとして織りこんでいる印象がない。どうしてだろう)。見ると云うことは決して自明な行為ではなく、見えているものも見えているままとは限らない。そこには錯覚があり、見落としがあり、視点の違いがあり、先入の見がある。そう云った〝見る〟をとりまく陥穽に、本作は幾つものアイディアを仕込んでいる。もちろん作品内のトリックだけでなく、演出や叙述のレベルでも、たとえばプロローグ的な冒頭でのPOVなどは仕掛け(ミステリ的な意味ではない)としてとても面白いし、終盤で等身大に投影される映像の驚異なども素朴ゆえに新鮮に感じる〝映像体験〟描写だ。アイディアのシンプルさ、現象の鮮やかさに反して背景が複雑すぎないかと思いはするものの、本書も細部のアイディアやロジックがとても冴えていて――〝毒入りチョコレート事件〟の犯人の条件や、映像がヌケヌケと示していた矛盾など――、後半は楽しく読んでいた。ただ、最後の事件だけは流石に蛇足だろうと思う。
 あともうひとつ印象に残ったのは、フェル博士がかなりちゃんとしたひとだったこと。揺るがない倫理や常識のラインを弁えている大人が、しかし親しみやすいおじさんを演じているようで、ほかでもそうなのかはわからないけれど、ヒリつく状況を巧みに制御するので読んでいて安心できる。ヘンリ・メリヴェール卿の無茶苦茶さも見ているぶんには愉快だけれど。

 

ダニエル・リー『SS将校のアームチェア』(みすず書房

わたしはグリージンガーの写真を調べた。どの写真でも、薄い色のスーツを着ていた。つまり、民間人の服装だ。彼はハンサムで、髪を後ろになでつけ、しっかりした特徴的な顔をしていた。左頬の傷はどうしたのだろうか。隠されていた書類が慎重に選ばれたことは明らかだった。戦時中に発行された複数のパスポート、戦時債券、現金化されていない電信会社の株式の受取書、そして、法学で博士号を取得した二年後の一九三三年の日付がある、上級国家公務員二次試験の合格証明書があった。これらは明らかに、彼が所有するなかで最も貴重な書類だった。彼の身元と存在を完全に証明するものであり、とくに戦時下ともなれば、こうした書類がなければどうにもならないだろう。一方で、こうした書類が、その持ち主がどんな人物かをほとんど明かしていないことに、わたしは衝撃を受けた。わたしが手にしたグリージンガーの書類は、すべてを語っていながら何も語っていなかった。

 小説ではないのだけれど、じゃあ歴史書やノンフィクションの類いかと云うと微妙なところで、著者ダニエル・リーの主観や個人的経験が強く入りこんでいる。しかもそれを一見抑えて学術的態度に徹しており、おおむね成功しているのだけれど、ハードボイルド小説とくにロス・マクドナルドのそれのように粛々とした記述のなかに伏流していたエモーションが顔を覗かせる瞬間が随所にあって油断ならない。しかしその点こそ、本書を面白い読みものにしている。長文エッセイと捉えるのが収まりが良いかも知れない。そもそもヨーロッパの人間が自分の家族や街の来し方をたどっていけば第二次世界大戦にぶつかるのは珍しいことではなく、ゆえに本書の調査行において、グリージンガーと云う一見著者と関係ない人間の人生を再構築するうちに、著者は自身のルーツや家族にも触れることになる。そうして浮かび上がってくるのは、歴史のなかに位置付けられる個人/個人から浮かび上がる歴史と云う双方向的な過去についての記述であり、記憶と忘却の鬩ぎ合いだ。本書は断片的な記憶や記録を結びつけながらひとりのナチ将校の人生と彼をとりまくもの――同僚、家族、組織、文化、民族、思想、歴史――を再構築してゆく一方で、記憶の忘却や記録の消滅による断絶も、テーマとして問いかける。その旅のほぼ終着点と云って良い、グリージンガーの墓にたどり着く場面は出来すぎなまでに見事だ。記憶と記録が互いに互いの誤りを暴きながらも補い合って、忘却のうちにあるひとつの墓と、しかし忘却に抗うようなふたつのキャンドルにまで著者を導いてゆく。しかもその後も、グリージンガーの人生とそれを探る旅は終わっても、残された者たちの人生は続いてゆくのだ。ここにはたくさんの死者があり、ある意味ではそれとまったく同じ意味において、たくさんの人生がある。遺された家族にも。グリージンガーの隣家にも。グリージンガーの家にいま住んでいる家族にも。調査の発端となった椅子の持ち主にも。そして著者のダニエル・リーにも。
 傑作。

 

R・A・ラファティ『町かどの穴――ラファティ・ベスト・コレクション1』(ハヤカワ文庫)

「いや、信じてくれたまえ、スミルノフ。あれはそれ以上のものだ。ちがった目で見た世界は、もうおなじ世界ですらないかもしれんぞ。ぼくはこう考えている。われわれが一つと見なしているものは、実は数十億のちがった宇宙で、どれもたった一人の目に合わせて作られているのかもしれない、とね」

(「他人の目」)

 宇宙最強のSF作家、ラファティのベスト盤。今回は〝アヤシイ篇〟とのことで、ラファティのなかでも奇妙な作品、世界が奇妙であるような作品が集められているようだ。それはつまりある意味でベスト・オブ・ラファティとも云えるわけで、ある意味で初心者に相応しく、ある意味で初心者に向かないかも知れない。ただ、一読すればラファティがいかに誰にも似ていない作家なのか、評するにあたって〝ある意味で〟と何度も繰り返してしまう計り知れない作家であるのか、〝宇宙最強〟なんて過大な言葉をついぼくが使ってしまうのかを察することが出来るだろうと思う。なお、個人的に偏愛している「素顔のユリーマ」や「レインバード」は第2巻『ファニーフィンガーズ』収録。こちらは〝カワイイ篇〟だと云う。
 ここまで知った顔で書いてきたけれど、ぼくはラファティのあまり良い読者ではない。書誌情報によれば2/3くらい既読のはずだけれど――ハヤカワ文庫から出ている短篇集3冊は全部読んだはずなので――内容がさっぱり思い出せなかった。読んだのがかなり前で、しかも当時はよくわからなかったと云うこともあるものの、何よりラファティの内容をきっちり覚えることはぼくにとってはかなり難しい。読んでからまだ間もないいまも記憶が滑り落ちてゆくような感覚がある。荒唐無稽なら荒唐無稽だとして印象に残るのだけれど、ラファティは無茶苦茶なことはあれど荒唐無稽ではない。そこには何かしらロジックがあるのだ。と云うか、実はそんなにオカシなことはないはずなのに、ほら話と評される文体で、何かオカシナものをみた気分にさせられるのかも知れない。本書収録作では自分の分身が出現する「クロコダイルにアリゲーターよ、クレム」や、蝶番がひっくり返ることで正反対の人間が出現する「世界の蝶番はうめく」あたりが例としてわかりやすいだろうか。設定だけ聞けば奇想と括れそうなものを、ふざけたおすでもなく、思弁に耽るでもなく、しかし物語のなかでのロジックを通す。その読書体験はさながら度の強い眼鏡で世界を見るかのようだ。それを常用する人間にはそのように世界が見える。本書収録の「他人の目」なんてまさしくそんな物語だ。眼鏡を外せばどのように見えていたのか急速に忘れていってしまう自分はやはりラファティの善き読者ではないのかも知れないけれど、自分もまた度の強い眼鏡をかけた人間であることを知ると云う点において、ラファティは昔読んだときから、自分にとってSF体験の重要な位置を占めている。今回の再読ではやはり凄い作家だと認識を確かめるだけでなく、可笑しさや恐ろしさを貫くにあたってふるわれる文体の外連味や語りのクールさを知ることが出来た。「クロコダイル~」の結末の語りなんて痺れるほどだ。あるいは、「その町の名は?」の、滑稽なまでに奇妙な状況のなかで失われてしまったものの大きさ、そしてそれを誰も憶えておくことができないと云う哀しさ、その哀しささえも誰も留めおけない切なさと云ったエモーションも忘れ難い。こちらは「レインバード」に通じる、ぼくの好きなラファティと云う感じがする。

 

 そろそろ年間ベスト記事も書かないと。

読書日記:2021/12/17~12/20+α

クリスファー・プリースト『魔法』(ハヤカワ文庫)

そう、おそらく話の発端はそこにある。この話は、それから後の話なのだ。いまのところ、わたしはただの〝わたし〟だが、やがて名前をもつようになるだろう。この話は、さまざまな声で語られた、わたし自身の物語なのだ。

 テロに巻き込まれ、記憶を失ったグレイ。彼の恋人だったと云うスーザン。ふたりが別れるきっかけになった、スーザンの元恋人ナイオール。彼らの三角関係をめぐる物語が、あるSF設定、そして語り/騙りの仕掛けによってねじくれていく。その設定がなんなのか、どんな仕掛けがあるのかが中盤以降にならなければ見えてこないので、かなり説明がしづらい。グレイとスーザンのそれぞれ食い違う語り、姿を見せないのに存在感を放つナイオールの謎、その背後にあるアイディアと仕掛けは言葉で説明すれば陳腐なものなのだけれど、ひととひと、記述と記述のあいだを滑り落ちてゆくような物語のなかで、アイディアと仕掛けは鮮やかに接続され、ひねり上げられる。とくに後半のめくるめく展開は圧巻で、最後に示された答えのようなものさえも語り/騙りのなかへと呑み込んでしまう。あとに残る印象は、微妙に角度をつけたまま向かい合わせに置かれた、複雑に像を反射する果てに深遠があらわれてくる合わせ鏡だ。
 それにしても法月さんの解説は、ネタを知っているひとからすれば危ういほどに核心へ触れながら、未読者にはそうとわからせず、本書がどのような小説か示すと云うとんでもない仕事をやってのけている。しかもこの解説がのちに評論集にまとめられた際についたタイトルがあれでしょう? 大胆不敵すぎる…… 

 

カーター・ディクスン『白い僧院の殺人』(創元推理文庫

「ぎりぎり最後の説明がこの込み入った事件にどうやったら当てはまるんじゃ? 偶然とな? 人が雪に足跡を残さないどんな偶然がある?」

 カーを読んでいこうカー、と思って手に取ったが、カーター・ディクスン名義でしたね、これ。いままで読んできたカー長篇はすべてこの名義だったわけで(『ユダの窓』『貴婦人として死す』)、つまり、カー長篇はまだ読めていないことになる。しかも法廷ものとして終始する『ユダ』や事件の静けさと戦争の暗がりが印象深い『貴婦人』は云わば変則的な作品だったわけで、これがほぼカー/ディクスン長篇の初体験と云うことに。遠ざけていた理由として持っていた過剰性やドタバタと云った印象はやっぱり偏見ではなく、本作もかなり読みづらかったけれど、それを補って余りある――と云うか、それらがあるからこそ完成された美点があったように思う。
 過剰性とはつまりサービス精神、本作で云えばほぼ章ごとに用意されている〝引き〟であったり、把握しきれない人物相関図であったり、〝毒入りチョコレート事件〟を初めとする過積載気味の謎の数々とその複雑な構図――犯人もしっかり意外であり、意外にするために事件がさらに複雑化している――であったりのことだけれど、それらが過剰に見えるのは、雪に囲まれた館に足跡が一本だけ伸びていると云う極めてシンプルかつ画として美しい密室状況が謎の中心にあるから。そしてこの謎はこれまたシンプルな発想で解き明かされるのだけれど、この発想が〝誰がやったか?〟〝どうやったか?〟〝なぜやったか?〟ではなく〝何が起こったか?〟を導くものであるのがミソで、発想の逆転と云って過言でないこのアイディアを震源として波状的に、〈白い僧院〉の周辺にあった複雑な事件はむしろこの事態を引き起こすものとして組み直され、足跡のない雪の風景は事件の核ではなくむしろ一連の出来事の周縁へと裏返ってゆく。それでもやっぱりごちゃごちゃしすぎているきらいはあるものの、謎が解かれて雪が溶けるどころか、一夜にして起こった数奇な出来事を覆う白い景色は読了後、いっそう美しいものとして映った。犬の鳴声や容疑者消去の論理――とくに現場へ侵入できた犯人の絞り方――と云った細かなアイディアも冴えている。

 

『カモガワGブックス Vol.3 〈未来の文学〉完結記念号』(カモガワ編集室)

過去から未来へ連なりゆく系譜の中で、我々の地点こそが、すなわち〈未来〉である。〈未来〉を名乗ったそれらが示した未来は、〈今ここ〉であったことを、きっとあなたは知るだろう。

(序文より)

 トリビュートとレビューで参加しました。トリビュート作品の感想は後述。

未来の文学〉を手に取った経緯はいまでも憶えている。時期こそあやふやで15、6の頃だったけれど、はじまりは中村融編『街角の書店』を読んだとき、ジャック・ヴァンス「アルフレッドの方舟」の作者紹介文に興味を惹かれたことだった(もちろん「アルフレッドの方舟」そのものも、忘れ難い印象を残す佳品だった)。いまでこそ名の知れた作者揃いのこのアンソロジーも当時のぼくにとっては知らない作家・作品だらけのさながら新しい世界への扉のように映り、それはある意味で比喩ではなく、扉裏のヴァンスの紹介を目にしたぼくは『奇跡なす者たち』と云う本を、そして〈未来の文学〉と云う叢書を知った。思い出せる。ぼくは図書室の自習スペースで衝立に隠れながらスマートフォンを操作していた。とても高くて手が出せないと一度は諦めたけれどそんなとき助けになるのが図書室のリクエスト制度だ。一年も経つ頃、図書室の書架にはヴァンスをはじめとしてウルフの諸作品が揃っていた。それはぼくにとってはじめてSFをジャンルとして意識したきっかけでもあり、何が何だかわからないが凄いものを読んだと云う一連の読書体験は、以前にはミステリしか読んでいなかったぼくにジャンルを相対化させることにもなった。ぼくはSFプロパーとはとても云えないけれど、しばしば指摘されるような――自分ではあまり意識していないのだけれど――ミステリ読者としては独特な観点・立場を取っているいまの自分は、あの出会いから始まったのだと云って良いだろう。母校の図書室はいま、校舎が建て替えられるに伴ってすっかり様変わりしてしまったけれど、あの当時ぼくが学校に買わせていた〈未来の文学〉の数々は、いまも本棚の隅に置かれているはずだ。そこで誰かにふたたび手に取られるのを待っている。
 以上がぼくなりの「〈未来の文学〉とわたし」となる話。トリビュートの感想までスクロールしたひとは読み逃した。

 以下、トリビュートについて簡単な感想を。

  • 茂木英世「世界の穴は世界で」:読みながら「すげえ、ラファティだ!」と舌を巻いていた。ラファティの要素やアイテムを引用するだけではなくスタイルまで取り入れつつかと云って単なる真似に留まらない独自性もあり、トリビュートとして正道を突っ切って成功を収めていると思う。ぼくはラファティの良い読者ではないものの、ただ荒唐無稽なのではなくなんらかの欠落もなんらかの論理は通っていて(たとえ無茶苦茶に見えたとしても)、そのバランスが壮大なヴィジョンと同時に一種の切実さを帯びてくるあたりに、とくにラファティを感じた。世界をそのように〝つくる〟のではなく、世界をそのように〝語る〟ことの面白さ、切実さ、格好良さ。
  • 鷲羽巧「返却期限日」:種明かしを幾つか。ブーク氏は「Booke」と綴るつもりで書いた(英語が堪能でないのでこの綴りでこう読むのかは知らない)。すなわち「本」に「発音しない〈e〉」がくっついている。そして作中で一度もフルネームで表記されない「ゲイル・ブーク」とは、ゲイルブーク、ゲイブルク、ゲイブリエク、ゲイブリエル、……ガブリエル。そう云えばウルフには「ガブリエル卿」と云う掌篇がありましたね。
  • 呉衣悠介「イルカと老人」:二重の意味で怖い。作品の内容も、これをこのご時世にディッシュ・トリビュートとして書いてのけたことも。ただの哄笑・嘲笑・冷笑に陥ることなくアイディアを推し進めることによる凄みがあった。ラストシーンはたぶん「降りる」からの引用だと思うのだけれど、あの作品の引き返せない場所まで深く潜ってゆくことの冴え冴えとした恐怖が思い出されて結末の境地がいっそう印象深い。蔵書の背表紙を焼く図書館と云う表現など、細かな点も含めて、良い意味でとことん意地悪。
  • 巨大建造「ピンチベック」:「スター・ピット」は宇宙に出すぎると発狂する話と云う記憶しかなく、数々のパロディなどもあわせてろくにネタを拾えた自信がないけれど、一見してふざけ散らかしたような文章を貫いて組み立てる鋼のように強(こわ)い文体が読ませる。笑わされながらもふとしたシーンや語りが切実であったり爽快であったり壮大であったりで息を呑んだ。何だかよくわからないが凄い――作者に対していささか失礼な感もあるこの感想は、しかし、〈未来の文学〉の作品群がまず与える印象でもある。
  • 坂永雄一「衣装箪笥(ワードローブ)の果てへの短い旅」:ほかの収録作品も素晴らしいのだけれど、本作については個人的に白旗を振って許しを乞わざるを得ない。ウルフが『オズの魔法使い』を題材に「眼閃の奇蹟」を書いたように、坂永雄一は『ナルニア国ものがたり』を題材に本作と云う傑作をものした。それはぼくが「返却期限日」を書くにあたって真っ先に逃げた挑戦である。お見事です。思えばSFに限ったことではないものの、SFとは未来と過去のジャンルであると同時に、内側と外側のジャンルだった。理屈を組み立てて外側を目指していたつもりがいつの間にか内側へ向けて膨張し(伊藤典夫が〈未来の文学〉に寄せた言葉を思い出しても良い)、一方で内側に、外側をも凌ぐ宇宙を見る。もちろんこんなものはジャンルの文脈を意識しすぎた読みのひとつに過ぎず、本作は内外の様々な読みが可能だ。それだけ豊潤にして芳醇である。ともすると今年呼んだ国内短篇小説のなかでは、同じく坂永雄一「無脊椎動物の想像力と創造性について」と双璧をなすかも知れない。坂永雄一短篇集が一日でも早く刊行されることを心待ちにしています。

hanfpen.booth.pm

文章練習:2021/12/18

説明
  1. 動画に何が映っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 エントランスにあるモノクロームの写真が何枚も額縁に入れられ、チェストの上に立てかけられている。すべて屋敷の主人を写していた。フェンスに囲われた砂漠の一角で軍服姿の男たちとともに撮ったもの。フェンスには〝立ち入り禁止〟とある。しかしフェンスの向こうの砂漠にはなにもない。隣にあるのは飛行場のような整備された平らな場所で男たちが並んでいる記念写真。同い年の白人の紳士たちが寄り添って親しげだ。隅には手書きのメモがあった。〝わたしたちの生み出したものを忘れない。それは希望だった〟。写真のなかの彼より白髪の増えた彼はチェストには目もくれず、エントランスのもう一方の一角、電話の横に置かれた郵便を取り上げた。どこからの封筒か素早く確認していく。百貨店の請求書が二通。同窓会の通知。エジンバラの友人からの返信。しかし最後の茶色い封筒には宛先の住所がタイプ打ちされているだけで、差出人の名前がなかった。彼はその一回り大きな封筒に眼を留め、ペーパーナイフを手に取った。彼の背後の階段を彼の娘が昇ってゆく。彼女は抱いている赤ん坊に声をかけた。「おじいちゃんよ」。彼は振り向く。足を止めた彼女を見上げ、赤ん坊に、おやすみボビー、と笑って云った。赤ん坊は何も返さず、彼のことを見つめるばかりで、彼の娘にそのまま二階へ運ばれていった。彼は笑顔を消した。ふたたび封筒に眼を落とし、開封して、中身を取り出した。三つ折りにされた真新しい印刷用紙にはひと言だけタイプ打ちされてあった。〝ひとごろし〟。(635字)

削る

 エントランスには額縁に収められた写真が何枚かチェストの上に立てかけられている。フェンスの前で腕を組む軍服姿の男たち。〝立ち入り禁止〟とあるフェンスの向こうはひたすら砂漠が続いて何もなかった。隣の写真では飛行場の滑走路に男たちが親しげに寄り添って並んでいた。写真の隅にはメモ――〝わたしたちの生み出したものを忘れない〟。すべての写真に彼が映っていた。写真より白髪の増えた彼はエントランスのわきで電話台から封筒の山を取り上げた。なんの郵便か素早く確認してゆき、最後の茶色い一通に眼を留める。宛先がタイプ打ちされているだけで、差出人の名がなかった。背後の階段をのぼる彼の娘が、胸に抱いた赤ん坊に囁く。おじいちゃんよ。彼は振り向いて、おやすみボビー、と声をかけた。赤ん坊は何も返さず、彼のことを見つめるまま、二階へ運ばれていった。彼は微笑を消した。封筒に眼を戻す。丁寧に開封し、取り出した中身は、三つ折りにされた印刷用紙にタイプでひと言だけ書かれていた。〝ひとごろし〟。(431字)

反省
  • いい加減実践に移るべきでは、と思ってきた。
  • と云うかそろそろ実作に手をつけなければ間に合わない。
出典

『新米刑事モース――オックスフォード事件簿』第2話より。

読書日記:2021/12/10~2021/12/15

 過去最高に創作意欲が盛り上がっている。何か書けると良いですね。
 感想は例によって例のごとく、ミステリ研のDiscordサーバーに投稿したものを転載した。

ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮クレスト・ブックス)

「冬のマヨルカ五日間の旅」に出かけるのでも、そこまでする。ならば人生の終わりに近づき、車で静々と火葬場のカーテンをくぐる最後の旅が始まろうとしているとき、同様のことをもっと大きな規模でやろうとしても不思議はなかろう。私を悪く思わないでほしい。いい人だったと思い出してほしい。私を好きだった、愛していたと、みなに言ってほしい。仮に事実ではないとしても、悪い人間ではなかったと思ってほしい。頼む……。

 つらい話だ。分量は短いが、物語はずっしりと重い。読後感の印象が近いのは『春にして君を離れ』で、本作もまた、過去を思い返しながら自分がいかに何も見ていなかったかを思い知らされるミステリである。と云うか、意識していないわけがないだろう。
 語り手のトニーは、自分ではそれなりに平凡で平穏な人生を送ってきたと思っているインテリ老人の男。前半では、彼の高校時代の友人エイドリアンおよび大学時代の恋人ベロニカについて回想され、やがてエイドリアンとベロニカが付き合うようになったことでふたりと疎遠になってしまい、それからエイドリアンが奇妙な自殺を遂げるまでが語られる。物語が動き始めるのは後半、トニーのもとに手紙が届いたところからだ。一度会ったことがあるだけのベロニカの母が亡くなったのだが、彼女はトニーにそれなりの金とエイドリアンの手帳を遺したと云う。なぜ彼女がエイドリアンの手帳を? 旧友の死の真相を知りたいと思うトニーは手帳を貰おうとするが、ベロニカがそれを拒む。それもまた、なぜ?
 遠ざけていた過去と再び向き合うことでトニーははじめ、感傷に浸ろうとさえするのだけれど(ベロニカと熱心に復縁しようとさえする)、結末に近づくにつれ、認めたくない過去を突きつけられ、捏造していた記憶を思い知らされ、自分の人生を再考させられる。慌てて取り返そうとしてももう遅い。理解のために歩み寄ろうとしても、かえって自分が何も理解していないことをいっそう晒してしまい、拒絶される。あまりに痛々しい。もちろん独善的だったのはトニーだけではなく、全員が自分の物語だけを生き、ゆえに互いが互いを理解していない。すべてが遅すぎたのだ。最後に至る真実の重みも相俟って、結末に対して抱くのは、もうどうしようもないと云う〝終わりの感覚〟。人生とは何か。それが自らの記憶の積み重ねでしかなく、記憶とはあとから改竄されうるものだとすれば、自らの人生はもはや不確かだ。たぶん年齢を重ねてから読むと更なる重みを感じる一冊だろう。
 本書において記憶は歴史とアナロジーで結ばれる。歴史は勝者の嘘の塊である一方で、敗者の自己欺瞞の塊でもあると云う問答がリフレインされる。自分のやってきたことを都合良く捏造しながら老いてきたトニーの姿に、老いゆく大国イギリスの姿を重ねることもできる――と思ってしまうのは、本書においてはかえって野暮かな。

 

スティーヴン・ミルハウザー『十三の物語』(白水社

セトーカスのカヌーや十九世紀の縄編み場も細心の注意をもって陳列するし、図書館に収めるべく町の創設期の文書、インディアン戦争に関する歴史書、農場や工場の生産記録も購入を継続するけれども、私たちの心は〈新過去〉によって何より深く揺さぶられる――開け放たれ陽がさんさんと注ぎ込むガレージに置かれた缶に垂れた赤いペンキに、白い板張りの家の壁めがけて投げられその壁に青っぽい影が見えもするゴムボールの描く弧に、濡れて光る自動車のボディに向けられたホースの水の中で震えている薄暗い虹に。

(「ここ歴史協会で」)

 第六作品集。名匠の手になるものだとしても、流石に飽きてきた。ミルハウザーは一気読みするものではないな。
 細かな記述が生み出す驚異、過剰なまでに発達した技芸については『ナイフ投げ師』でひとつの極地を示したわけで、穿ちすぎた読みかも知れないけれど、本書ではその先を模索する様子がうかがえる。驚異自体で勝負するのではなく驚異がもたらす思索を眼目に据えたり、驚異に魅了され、翻弄される人間たちを主題にしたり。ミルハウザーがいままで試みてきたことを再話し、それと同時に今後の展望を思わせる作品が並ぶ本書は、「オープニング漫画」「消滅芸」「ありえない建築」「異端の歴史」と云う四部仕立ての構成もあいまって、さながら〝ミルハウザー博物館〟だ。『トムとジェリー』らしきアニメーションをひたすら、ひたすら、ひたすら文字に起こしていきその野暮なまでの細かさに驚嘆する巻頭作品「猫と鼠」からして、〝一見さんお断り〟的な雰囲気を感じなくもない。
 ある女性の失踪事件が初めはミステリふうに語られ、しかしもちろんそこからすり抜けるような結末へたどり着く「イレーン・コールマンの失踪」や、暗闇のなかでしか会えない少女とのボーイ・ミーツ・ガール「屋根裏部屋」などは、いままでと共通のテーマを感じさせつつこんなこともできるんだぞとあらためて確認させるよう。ただどちらも結末が、そうなるならそうなるだろうな、と云うところで収まってしまっていて、ちょっと食い足りないきらいがある。ある町の隣でその町をそっくり複製している町について語った「もうひとつの町」はこれがさらに発展すると『夜の声』の「場所」へ至るのか、と云う点で面白かった。ミルハウザーバベルの塔伝説「塔」は、天にまで届く塔よりも、塔をとりまく人間たちの動きに焦点を当て、それによってかえって塔を聳え立たせるような一篇。テッド・チャン「バビロンの塔」と読み較べても面白いだろう。ふたりは案外、作家として近いんじゃないかと思うことがある。ちなみに別のアンソロジーで既読だった「ハラド四世の治世に」は、『蒼鴉城 第47号』に書いた全員執筆の元ネタです。
「映画の先駆者」と「ウエストオレンジの魔術師」はどちらも世紀転換期アメリカにおける失われた発明を描く。やっぱりミルハウザーは、あの時代が好きらしい。ぼくも19世紀末~20世紀初頭アメリカの文化には興味惹かれるところがあって、案外これが、ミルハウザーが好きな理由かも知れない。不遜ながら思うけれど、たぶん問題意識が近いのだ。歴史に名を残すものではなく、なんでもないような、しかしかけがえのない過去――《開け放たれ陽がさんさんと注ぎ込むガレージに置かれた缶に垂れた赤いペンキ》とか――を蒐集する組織の意見表明「ここ歴史協会で」を読むと、とくに強くそう感じる。

 

ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)

もつれからまるバラの茂み、壊れたブランコ、濡れた砂場、朝の光に痛々しくむきだしになった赤い家。そんな周囲に目をやって、わたしはあのとき、ここを出ずじまいだったのかもしれない、とスマイリーは思った。この前きたときから、ふたりでずっとここにいるのではないか。

 引退生活から呼び戻された元スパイのスマイリーに託された任務、それは英国情報部その名を〝サーカス〟に潜り込んだソ連の二重スパイをさがすことだった。サーカスの中枢にいると云う裏切り者を追うなかでスマイリーは、いまは亡き上司が関わり、同僚のひとりが撃たれることになったある計画の全容にも迫ってゆく――。
 歯ごたえじゅうぶん。正直、かぶりついてみたものの、味わえたとはとても云えない。濃密で芳醇な香りと舌触りを感じただけだ。数年来の積ん読だったが、買った当時に読んだらさっぱりわからなかったに違いない。あと数年経てば、もう少し味わえるだろうか? それでもとりあえず、いま読んだ感想を書き残しておこう。
 物語の軸にあるのは二重スパイさがしと云う名のフーダニットだけれど、物語はじっくりと進み、なかなか核心にいたらない。細部の情報が順番に明かされ、ようやく何が問題なのか見えてくる。このもどかしいほどの鈍重――と云っても、悪い意味ではない――こそが小説全体の基調だ。群盲象を撫でると云うけれど、細部や断片が見えるばかりで、何が起きたのか、いま彼らが何をしているのかよくわからないまま翻弄される。それはまた、冷戦と云う全貌の見えない怪物のなかで情報をかき集め、ひとつの駒として身を捧げてきたスマイリーたちスパイにも当てはまることだろう。家族、友人、組織、そして国家。何重にもその身を取り囲む糸のなかでプロとして仕事をこなすスマイリーの姿は格好良いと思うか、それとも、痛々しいと映るか。そんな物語のなかでときおり表出する彼らの内面、とりわけ二重スパイ=犯人がわかったときの叫ぶような語りが印象深い。全容がわかったとはとても云えないけれど、模索する暗中にバチッと閃く細部に痺れる。

文章練習:2021/12/16

説明
  1. 動画に何が映っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 雨のなかを自動車が走っている。フォルクスワーゲンのタイプ1。またの名をカブトムシ。木立を突っ切る道は舗装されていない。街灯もない、夜明け前の暗闇をふたつのフロントライトだけが照らす。絶え間なく地面を叩きつける雨粒が跳ねるさまがぼんやりと浮かび上がる。雨粒は車体を濡らし、外殻を、ウインドウを滑ってゆく。
「おはようございます、日曜の午前六時です」カーラジオがニュースを告げる。
 フロントガラスがぐちゃぐちゃに濡れて視界が効かない。ワイパーは空しくガラスの表面を掠めるだけで、かえって邪魔なくらいだ。運転手の男は足許からタオルを掴んでウインドウを拭くけれど、もちろん何の意味もない。ただの気休めだ。男は肩をそびやかせ、肘を曲げ、ぎゅっと握りしめたハンドルに顔を近づける。緊張していた。ただでさえ凸凹の路面は泥になって滑りやすい。
 曇り、潤み、ぼやけたガラスの向こうに、バス停が見えた。緑と茶の風景に赤と白の縞模様をしたポールが目立つ。近くにはひとひとり坐っていられるかどうかと云う木造の粗末な掘っ立て小屋があった。木立の枝葉が被さった片流れ屋根を雨が伝い落ちて、小屋の開かれた一面に滝をつくっている。そのなかに女がいた。
ベトナムで南北の軍が烈しい武力衝突を――」
 男は女を見た。女は濡れるのも構わずに掘っ立て小屋から飛び出す。緑と白の二色で縦にぱっくり二分されたワンピースと、肩までかかる赤毛がびしょ濡れになってぴったりと肌にくっついていた。大柄な女だ。車の通り過ぎざま、彼女は逃げるように飛び出したのですれ違いになって顔は見えなかった。男はサイドミラーを見た。車体のわきから飛び出した銀縁の円い鏡のなかで、道の両側を鬱蒼と繁って挟む木々のなか、女の背中は一瞬何かを探すように僅かにふらつきながら立ち尽くし、すぐにまた小屋へと駆け込んだ。(765字)

削る

 雨のなか、暗い木立を彼はビートルで抜けようとしていた。舗装もされていなければ街灯もない道を、ふたつのライトだけが心許なく照らす。雨粒が土を濡らし、車体を打ち、ウインドウを滑る。
「おはようございます」カーラジオでニュースがはじまった。「日曜の午前六時です」
 フロントガラスが濡れる速さにワイパーが追いつかない。視界を掠めるぶんかえって邪魔だ。彼はタオルを掴んで内側からウインドウを拭いた。ただの気休めだった。凸凹の路面は泥だらけで滑りやすい。彼は緊張し、ハンドルをぎゅっと握りしめた。
 ぼやけたガラスの向こうに赤と白の縞柄のポールが見えた。バス停だ。隣には粗末な木造小屋もある。屋根を雨が伝い落ち、入り口で滝をつくっている。そのなかに女がいた。
ベトナムで南北が烈しい武力衝突を――」
 すれ違いざま、彼は女を見た。女は道路へ飛び出した。緑と白で縦に二分されたワンピースと豊かな赤毛がびしょ濡れになって肌にへばりついた。大柄だった。彼はサイドミラーに目を移す。円い鏡のなかで、彼女の背中はつかの間何かを探すように立ち尽くし、また小屋へと駆け込んだ。ついに顔は見えなかった。(481字)

反省
  • 今回は趣向を変えて動画で。小説の実践にかなり近づいた気がする。
  • 削れば密度が上がると思っていたけれどそうでもないらしい。
  • うーん。文章は巧くなっているのか。
  • ただ、書いた文章をいちから検討し直す練習にはなっている。
出典

『新米刑事モース――オックスフォード事件簿』第1話「新米刑事、最初の事件」より。面白いドラマなのでオススメです。

文章練習:2021/12/15

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 五十年前、バンクーバーはまだ港と蒸気船の街だった。高台からぼくはいつもフォールスの入り江を往来する大小様々な船を日がな一日眺めたものだった。入り江に向かって滑り落ちるようになだらかなすり鉢状になった街に、グランヴィル橋が長く、大きく、力強く架かっている。茶色い船体に白い客室をどんと乗せたフェリーが橋の下をくぐって客を降ろす。こちら側の岸辺には港があって、造船所や倉庫の長いトタン葺きの三角屋根がジグザグと並ぶ。向こう岸は住宅街があって、細々としたカラフルな三角屋根が、土地の傾斜で緩やかなカーブをつくって波打つようだ。高い建物は遠くに頭を出してうずくまる五、六階建てのビルくらいで、その図体は横に長いものだから立方体に近く、摩天楼とはほど遠かった。ひらけた街は夕陽を浴びると複雑に陰影をつくる一方できらきらと輝き、オレンジ色を照り返して暖かだ。街のずっと向こうには万年雪をいただく山嶺が青々と構え、それに較べればこんな街もちっぽけに見える。あの山の向こうは果てしなく厳しい自然が生き残っていた。いまもなお、だ。それは五十年経っても、あるいは街が出来てからずっと、変わらないものだろう。そう信じている。(501字)

削る

 あの頃のバンクーバーは港と蒸気船の街だった。入り江を見下ろす高台から終日船の往来を眺めて過ごしたものだ。入り江に向かってすり鉢状になった両岸を渡す長く力強いグランヴィル橋。造船所や倉庫の上でトタン葺きの長い三角屋根がつくるジグザグ。港の対岸は住宅街で、家々のカラフルな屋根が丘陵に沿って波打つ。高い建物は遠くに見える五、六階建てのビルくらいで、摩天楼なんてほど遠かった。街は夕陽を浴びるときらきら照り返して暖色に染まった。そのずっと向こうには万年雪をいただく山嶺が青々と輝いていた。あの稜線の先には汚れなき自然が残っていると信じていた。五十年経った、いまもなお。(281字)

反省
  • バンクーバーが本当に港と蒸気船の街なのかは知らない。知らないが、Herzogの写真を見ていて最近は行きたくなってきた。はじめての海外旅行はカナダも良いかもね(これのどこが反省なんだ?)
  • 書きながら結構不満が残る。何か違う感じがする。たとえば米澤穂信が〈古典部〉シリーズで舞台の神山市を描写するときどうしていたっけ。こう云うパノラマふうの、しかし大自然の驚異や美しい街の景観とは違う素朴な「見晴らしの良さ」を文章で再現するのは難しい。
  • とは云え、街を俯瞰気味に描写すると云うのは楽しい。
  • 文体の舵を取るために1日休んだとは云えこれで二週間やって来たことになる。折り返し。後半も頑張るぞ~。
出典

Fred Herzog, Westend from Granville Bridge, 1957.