鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

でも、じゃあ、どうやって?

 駄目になっていた。ひとと話すときはいつもの調子に戻るのだが、ひとりになると駄目になってしまう。ただ、用事がない限り出席しようとしていた読書会を、駄目になっているうちに無断欠席してしまった(スマホもまったく見ていなかった)ことをうけて、流石に駄目になっている場合ではない、と思った。文体の舵を取ることもできていない。たぶんこのままだと次も参加できない。そのままぐずぐずと自然消滅してしまいそうな気がして怖い。

 駄目になっていた理由と考えられることは幾つもある。

  • 実家の引越し、およびそれに伴う断捨離
    • 以前の日記にも書いたとおり実家が年内に引越すと云うことで、自室の本を整理した。
    • 実家がなくなる、と云うことがここまで精神的につらいことだとは思わなかった。犬はひとに懐き、猫は場所に懐くと云うけれど、ならばぼくは猫なのだろう。
  • 就活が現実的になってきた
    • 公務員試験は思っていたよりも厳しいものではないのかも知れない、とわかってきて2月初めは気楽に構えていたのだが、人物試験対策講座なるものを一度受けてみて、まあ、これは就活全般に云えることだと思う、つまりはエントリーシートに書くための「人生で何を体験し、どう成長したか」エピソードの作製や、面接のお作法などを、断片的にであれ教えられ、自分でも想像以上に精神的な苦痛を覚えた。気持ちが悪いと思った。
    • もうすぐモラトリアムの日々も終わってしまうのだ、と云う自覚も手伝って、心が軋みを上げている。
  • 休学期間が終わる
    • 休学に至るまでの相談に乗ってくれた教授に、進学をやめて就活を考えていることを相談しなければならない
    • この半年間なにをやってきたんだ?と云う虚無感に苛まれている。
  • 先輩たちの卒業
    • 置いて行かないでほしい。
  • 創作がうまくいかない
    • 本当はこの半年間でバリバリ創作に励むつもりだったが、書けたものと云えば短篇「返却期限日」くらいである。
    • ミステリーズ新人賞に向けて短篇小説をひとつ、2月上旬に書き上げたものの、自分でも納得のいく出来とは云い難く、ひとに見せてもいままでの評判を越えるものではない。書くことによってひとつの経験にはなっても、コンテストに送ることができる代物ではなかった、と云うことだろう。
    • 当該原稿を読んでもらった先輩から云われた「驚かせるためにやっているわけではない、と云うのはスタンスとして潔いが、もっと驚かせても良いのではないか」と云う言葉はかなりアイデンティティクライシスをもたらした、と云うか、そもそもぼくは何が面白いと思って書いていたんだっけ、何が書きたかったんだっけ、それは正当なものなんだっけ、と云った諸々がわからなくなった。
    • なんで書いてるんだっけ。
    • 明言しておくけれども、アドバイス自体はしごく真っ当なものであって、その真っ当な意見にショックを受ける程度に、自分が駄目だった、と云うことです。その先輩には感謝しています。いつか指摘されるべきことだった。
    • 同じ頃、鮎川哲也賞に向けて書きはじめていた連作中篇も、2万字時点で見切りをつけて没にしてしまった。自分の文体を捨てようとしながら手癖に頼った、腐臭のする文体が、本当に気色悪い。
    • どんどん小説が下手になる。
    • と云うわけで、ミステリーズ用に書いた3万字ほどの短篇と合わせて、2月の前半を費やした5万字を棄てることにした。
    • かなり精神的にダメージを負っている。小説を書くのを止めようと、日中、何度も考える。
    • これは良い、次こそは良いものが書ける、と思ったアイディアを転がして一時間後には駄目だこれは、と棄てている。そう云うことを繰り返して時間を浪費している。無駄。無駄。無駄。無。無。無。
    • 何かを読んで蓄積することもできていない。
    • この半年間、いやこの一年間で、小説の書き方を身につけようと思って、結局、わからないことの方が増えた。あらかじめプロットを考えようとすると書いているうちに土台や骨組みが腐りはじめ、考えながら書いているとろくに家が建たない。
    • そもそもこの四年間はずっと無駄なことをしていたのではないか、とも思う。
    • しょうもない恰好ツケに費やしてしまったのではないか、と云う恐怖がある。
    • 「驚かせるためにやっているわけではない、と云うのはスタンスとして潔いが、もっと驚かせても良いのではないか」
    • それは本当にその通りだ。でも、じゃあ、どうやって?
    • 「自分が面白いと思うものを書けば良い」
    • それもまた真だ。でも、じゃあ?
    • どうやって?
    • ぼくは何を書いてるんだっけ?
    • ぼくは何を書きたいんだっけ?

 変わらなければならない。
 でも、じゃあ、どうやって?

文体の舵を取れ:練習問題⑦視点(POV)問四

400〜700文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。
 出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。
 ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる【三文字傍点】必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。
問四:潜入型の作者
 潜入型の作者のPOVを用いて、同じ物語か新しい物語を綴ること。
 問四では、全体を二〜三ページ(2000文字ほど)に引き延ばせるものを見つけ、そのあとを続けないといけなくなる場合もあるだろう。文脈を作って、引きのばせるものを見つけ、そのあとを続けないといけなくなる場合もあるだろう。遠隔型の作者は最小限の量に抑えてられても、潜入型の作者には、なかを動き回るだけの時間と空間がかなり必要になってくる。
 元の物語のままではその声に不向きである場合、感情面・道徳面でも入り込める語りたい物語を見つけることだ。事実に基づいた真実でなければならない、ということではない(事実なら、わざわざ自伝の様式から出た上で、仮構の様式である潜入型作者の声に入り込むことになってしまう)。また、自分の物語を用いて、くどくどと語れということでもない。真意としては、自分の惹かれるものについての物語であるべきだ、ということである。

 前回、前々回の続き。

washibane.hatenablog.com

washibane.hatenablog.com

提出作品

 こんな繰り返しを想像してくれ。正方形と正方形が頂点をつなぎ合わせてグリッドをなし、秩序立てられた景色が果てしない。規則正しいその格子柄を目印にして、立方体が幾つも接着した多様な形状のピースを布の上に散りばめてゆく。――これは駅。これは広場。これは大学。置いてゆくうちに布がぴったりとついているテーブルの天板の微妙な凹凸がわかってくる。ないように思われた果てもテーブルの縁から滝のように垂れ落ちる切れ端として存在すると知れる。――これは部室棟。これはその西館。そうして段々、身近になって、彼らはそのなかにいるのだと想像してほしい。現実はどうであれ構わない。彼らにとっていまこの瞬間、部室の外なんてテーブルの上のウボンゴの並びと大差ない。問題は部室のなかだった。中心は、テーブルの上のウボンゴだった。
「三番」
 彼らのひとりの気怠げな声が部室に響いて埃っぽい大気に消える。
 室内は六畳あろうかと云う正方形。四方の壁はところどころに罅の走ったコンクリートの表面を剥き出しにして、天井近くに細長く取られた明かり窓から差し込む午後の陽が北側の壁一面に貼られたポスターと歴代会員の名簿と誰のものとも知れない署名の落書きを菱形にかたどっている。反対に明かり窓の真下の暗い陰で壁を埋めるのは古びて撓んで崩れかけた木製の書架だ。棚が本を収めているのか、本が棚を支えているのかわからない。最前に番号を唱えて手許の砂時計をひっくり返した彼女は名を桐島と云って、その本棚を背に坐っていた。彼女の眼前のテーブルで、ウボンゴは佳境を迎えている。
「三番」
 そう繰り返してピースを手に取った三人のウボンガーは桐島と合わせて四角いテーブルを取り囲み、桐島から見て左手が嘉山、そのまま時計回りに植野、嘉山と云う。各々のスタンスはまるで違った。谷中はピースをあらかじめ身につけた手順通りに組み合わせ――パターンなんだよ、パターン――反対に彼の正面、嘉山は闇雲にピースをぶつけ続ける。――こうか、あれか、そうか、そうだ! 分厚く光沢のないクロスの上で蠢く六つの手。着実ゆえに迅速な谷中と拙速ゆえに緩慢な嘉山に挟まれて、桐島の対面、植野はピースのかたちをひとつひとつ確かめるばかりで組む様子もなく、挙句にはピースから手を離す。
「ねえ、植野ってば大丈夫」
 たまらず桐島は声をかける。それを聞いて谷中は胸を焦がす――先輩じゃなくてぼくを見てください、桐島さん。けれども谷中のウボンゴは完成しない。当然だ。彼はピースを取り間違えている。それに気づいて慌てはじめてももう遅い。植野は瞼を押し上げてピースを持ち上げ、解答を知っているかのように滑らかに、コの字の立体を組み上げた。
「ウボンゴ」
 喘ぎながら谷中は頭を掻く。黙々と組んでいた嘉山が彼の絶望も知らないまま彼を追い抜く。砂時計が無慈悲に時を刻む。滑り落ち続ける砂を陽が照らし、容器のプラスチックに反射する。ゲームは終わろうとしている。植野は対照的な両脇のふたりを見やって肩を竦める。桐島が植野に頬笑む。その頬笑みを植野は何度も見てきた。これまでも。おそらくはこれからも。そうしてゲームは繰り返される。植野の両の掌に包まれる、部室棟と似た立体の、そのなかの部屋の、そのなかのテーブルで。植野は思う。
 ――そんな繰り返しを想像してくれ。

コメント
  • 「ウボンガー」は存在する単語です、本当です。
  • 部室の描写が凝りすぎてよくわからない感じになっている。
  • 最初と最後の台詞が微妙に違っているのは意図してのことで、無限に階層が続く入れ子構造と解釈してもらっても良いし、神の視点と植野の視点が一致した一瞬と解釈してもらっても良い。そもそもうまく宙づりにできているだろうか。

読書日記:2022/01/18~2022/01/21

 ミステリーズ新人賞に送るための短篇小説の構想が、いつまで経ってもまとまらない。早いうちに目処を立てて、鮎川哲也賞に送る長篇に取りかかりたいのだけれど。
 有栖川有栖の中短篇集を読んで、〝名探偵〟が登場して腰を据えた捜査をする作品は短くとも中篇の分量が必要だとあらためて実感した。短すぎると性急な感が否めないし、何よりそれはぼくが読みたい=書きたいミステリ小説ではない。
 また、ひとつの着想からロジックを組み立てるような作品も、短篇に向かないし、そんなふうに作られた短篇を読みたい=書きたいとは思わない。この半月ほど、ずっとロジックにこだわっていて、だから構想がまとまらなかったのだろうと思う。
 自分が何を面白いと思い、何を読みたいと思うのか。それを見定めた上で短篇を書きたい。そう考えているうちに、ミルハウザー作品のようなミステリ、と云うイメージがまた自分のなかに膨らんできた。ミステリにならないと思って(少なくとも、ミステリの新人賞に送るよりも創元SF短編賞に送るべきだろう、と云うものしかできない)、いままで一再ではなく棄却してきたそのイメージを、なんとかものにできたなら、自信を持ってミステリーズに送ることができるだろう。
 ……しかし、どうやって?

 本の感想はミステリ研のdiscordサーバーに投稿したものを転載した。

有栖川有栖『絶叫城殺人事件』(新潮文庫)・『暗い宿』(角川文庫)

 続けて読んだのは単に手近にあったからだけれど、後者の解説によればほぼ同時期に発売された2冊らしい。運命的なものを感じる。思えばどちらも〝建物〟と〝夜〟で緩やかに接続された短篇集だ。せっかくなので2冊合わせて感想をば。
 火村シリーズは講談社以外で読め!と云う先輩の助言に従って良かったと思う、棄てるところのひとつもない粒揃い(いままで読んだ国名短篇集は、ファンサービスみたいな作品があったからね……)。個人的な好みはあるとは云え、これだけモチーフを縛りながら、手を替え品を替え楽しませてくるあたり、作者の高い技量と手数の多さをうかがわせる。それはしばしばあざとい程だけれど、一種の〝お勉強〟として読んでいる身からすると感服すること頻りだった。とくに巧いのは『絶叫城』収録の「黒鳥亭殺人事件」。スムーズな導入から徐々に闇を深めてゆく展開、その闇のなかにつかの間浮かび上がる白さがかえって不穏に映る幕切れまで完成された一篇。下手をするとノイズ、あるいは過積載になりかねない〝二十の扉〟クイズの趣向が、かえってサスペンスを高めることになっている。全てを明かしきらずに肝心な箇所を暗がりのなかに留めておくことで、内容も分量も膨らみすぎないよう調節しているあたりも実に巧い。そして〝あざとい〟。逆に技巧の存在を一見感じさせない「ホテル・ラフレシア(『暗い宿』所収)も――曖昧模糊としているからこそ、逆説的に――印象的だ。犯人当てゲームに興じる南国の夜を舞台として、事件らしい事件が最後まで起こらず、どんでん返しがあるわけでもなく、ただ漠然とした高揚感と、そこはかとない昏さを湛えて、物語は幕を閉じる。ラフレシアの華々しいまでの毒々しさを思わせる一篇。
 全10篇を通して思うのは、去年『カナダ金貨』を読んだときにも思ったことだけれど、総じて着想の後処理が抜かりないこと。アイディアを一篇の小説として仕立てるにあたって欠点になりそうな箇所を、逆手に取って作品の主題にまで落とし込んでしまう。たとえば密室殺人に真正面から取り組んだ「壺中庵殺人事件」(絶叫城)は、手間暇かけて実行するには合理性に欠けていると云うトリックの欠点を、わざわざ策を弄して策に溺れる犯人像にまで落とし込み、むしろ探偵側の〝とどめの一撃〟として持ってくるのだから巧妙。トリックのためのトリックと云う点では「201号室の災厄」(宿)もそうだけれど、もうひとつの趣向がそれを無理あるものにさせていない。「雪華楼殺人事件」(絶叫城)の雪密室トリックもまた無理があるが、その無理が通ってしまったことを、物語の哀切な真相に組み込んでいる。掴み所のない事件に素朴なアイディアを仕込んだ「紅雨荘殺人事件」(絶叫城)では、そのアイディアを料理するに当たって、いたずらに複雑化させたり、単純に〝アリバイ〟の問題で終始させたりすることなく、アイディアの骨組みを覆う肉付けを通して、登場人物それぞれの〝場所〟と云うテーマへの思いの違いを浮かび上がらせ、かえって物語の美点にしてみせている。逆に、トリックの難点を処理しきれなかった「異形の客」(宿)などは、いくらアイディアが面白くとも収録作中では評価が一段落ちるか(あそこで、犯人が巧いことやった、と云う以上の説明が欲しかった)。 

 

連城三紀彦『運命の八分休符』(創元推理文庫

 冴えないどころか不潔なのに、妙に美女と縁があって惚れられ続ける男――と紹介すると酷い人物造形だけれど、これを愛嬌ある人物として仕立てられるのも文体のマジックか。そんな軍平青年を主人公とした、良い意味で連城らしさのない軽やかな文体が光る連作短篇。ただし、その結構は申し分なく連城ミステリである。「紙の鳥は青ざめて」のみ創元推理文庫の傑作選で既読。
 連城短篇は個人的に、どうしても〝あ、いまひっくり返ったな〟と云うパフォーマンスが強すぎてかえって短篇として印象に残らないことが多く、幾つか読んでいるわりにろくにタイトルを挙げられないのだけれど、本書収録作はいずれも〝名探偵〟が据えられていることで反転の基準点のようなものがあり、彼の解決を介することで、強いひねりを加えながらも物語自体は動くことなく、要するにちゃぶ台返し的な印象を与えない。各話、事件の真相だけでなく軍平青年の恋の行方と云うもうひとつの軸が据えられていることも大きいだろう。
 表題作は素朴なアリバイトリックを見事な演出と装飾によって魅せる。一見謎めいたタイトルに込められた複数の意味が面白い。「邪悪な羊」は巻末の「濡れた衣装」もそうなのだけれど、発想が非常に面白いだけに分量に対して複雑すぎるのが難点。逆に云えば、軍平青年の恋愛と捜査を同時並行に進めながらこれだけ複雑な真相を展開できるのは技巧の顕れとも云える。そんな複雑さと演出の妙が最も鮮やかに出た「観客はただ一人」がベスト。俳優が自身の人生を舞台にした、その演目の幕切れで命を落とすと云うシチュエーションからして素晴らしい。劇場と云う密室を〝舞台〟としたハウダニットとフーダニットをかき分けて、ホワイダニットから鮮烈な一枚画を浮かび上がらせる。〝マドンナ〟役である宵子も、ほかの作品の〝マドンナ〟のための〝マドンナ〟のような女性とは異なって、男勝りで軍平青年とも比較的対等な付き合いをしており、しかしだからこそ女性であると云うことを(物語のテーマや事件の真相と共鳴させながら)読み手に意識させる忘れ難いキャラクター。いままで読んできた連城短篇でも上位に来る作品です。 

読書日記:2022/01/11~01/15

 ミステリ研にいたこの4年間、ミステリを相対化するばかりで、〝本格ミステリ〟なるものと四つに組むことを避けてきたように思う。

大山誠一郎『記憶の中の誘拐 赤い博物館』(文春文庫)

 しかしそれは、警察官の問うことではなかった。

 一篇ごとの分量が『赤い博物館』無印に較べると落ちており、これを手軽になったと云うべきか読み応えがなくなったと云うべきかは好みのわかれるところだろう。無印の腰を据えた中篇の方が自分の好みではあるけれど、大山さんの文章は良くも悪くも情報を素のまま出してしまう、文体そのもので読み手を牽引しない淡泊なもので、長い話だとだれることもあり(たとえば「復讐日記」は偏愛している作品だけれど、けっこう長い序盤の手記パートがつらい)、今回のように最低限の記述に抑えられた分量の方が、解決まで急転直下と云う印象が強まってインパクトがある。表題作「記憶の中の誘拐」の、緋色冴子が捜査を引き受けてから解決するまでのスピード感を見よ。
 ただ、このシリーズの形式がいわゆる〝回想の殺人〟であることを踏まえると、その形式が要請するような時間の重みや人間の厚みが、この短さでは物足りない。ただその印象も、本書のもうひとつの読みどころである動機・心理面での驚き――5篇すべて〝愛〟と括ることができると思う――によってカバーされているし、ある程度の空疎さがかえって、その心理面を突出させているとも云えるだろう。ただやっぱり、もう一度「復讐日記」のような重たい斧で撲られるように切られる衝撃を、と無責任な読者としては期待したくなる。
 全体の印象としてはそんな感じ。サクッと濃いめのミステリ的快楽を得るにはうってつけ。
 個々の作品で云うと「夕暮れの屋上で」が犯人当てとしてのソリッドな作りに好感を持った。すれっからしの読者ならわかりそうなアイディアだけれど、そのアイディアのために状況を丁寧に整えることで反転の衝撃が波状に広がるような造りになっているので、当てても当てられなくても楽しい一篇。何より、この作品ならではの限定条件が良い。こう云う、ユニークな条件が出てくると犯人当ての読み手として喜んでしまう。そのほか、「連火」は流石にあからさますぎると思うけれど(ぼくでも冒頭で何をやりたいのかわかったので)、擦り倒された「八百屋お七」の趣向を最初から明かしてしまい、〝火事によって誰と会いたいのか?〟と云うこと自体を謎に持ってくる発想には膝を打ったし、意外な犯人を持ってきてやろうと云う気概を感じる。バラバラ殺人ものの「死を十で割る」は、死体を解体するユニークな理由より、そのアイディアから逆算されたのであろう、途方もない偶然と歪な行動が印象深い。死をめぐる、運命と人間との切り結びだ。「孤独な容疑者」「記憶の中の誘拐」は、真相に驚きはするものの、反転にこだわるあまり、その反転が作品内で空転してしまっているように思う。前者は、とってつけたような推理と、なにで読者を驚かせたいのかわかる前に結末まで一気に転がってしまうのが残念。後者は、スピーディではあるものの、スピーディすぎて厚みがなく、犯人の〝愛〟やその歪さが、ほかの作品に較べると空疎だ。前述した本書の短所が出てしまった二篇。

 

麻耶雄嵩『螢』(幻冬舎文庫

 それからしばらくは、二人ともぼんやりと雨音に耳を傾けていた。弔いの館に降り続ける雨。由来を知った今では涙雨に思えてくる。この涙雨が永遠に降り続き、建物を侵蝕し全てを無に帰してしまう。そんな錯覚さえ覚える。自分たちは一生ここから出られず、加賀の創った螢の想念の中に閉じこめられ死んでいくのではないのか。あるいは『夜奏曲』のレコードのように、それを聴いた加賀螢司のように、死さえ繰り返しを迫られ発狂して終わってしまうのか。

 実は読んでなかった枠。しばらくこの枠が続きます。
 離して見るとごくごく素朴なフーダニットin嵐の山荘なのに、近づいてみるとどうも細部の構図が、筆致が、技巧が歪んでいる。解説でも云われている通り、地味であることが異形、と云う不思議な読み味。何が凄いのかわかりづらい系麻耶雄嵩。ただ、高校生~大学1回生の頃くらいに読んどきゃ良かったな、と後悔した。もっと素直に面白がれただろう。
 そもそも私的に偏愛している麻耶作品は「禁区」をはじめとして「答えのない絵本」や「加速度円舞曲」、『隻眼の少女』であり、要するに自分はアイディアのインパクトよりは構築された論理の造形美を求めているきらいがあるので、本書は犯人特定のあの箇所を除いていまひとつ面白がれなかった。逆に云えば、あの奇妙な限定条件ひとつだけでお釣りが来る作品ではある。しかしそうやって評してしまう時点で良き読者ではなかったんだろう。
 そのアイディアについても、作者本人がのちにいろいろな形でセルフリメイクしているものなので、強い衝撃を受けたわけではない。どちらかと云えば、それを犯人当ての限定条件に活かすかたちで書いてあることに面白さを感じた。ただ、仕掛けのための仕掛けと云う感は少なくとも一読した限りでは拭えず、ヌケヌケ具合ではのちのアレの方が好み。もちろん、本書のこの少々長い、悪く云えばいささか冗長な、良く云えばがっしりと重い物語にあってこそ輝くものではあり、本書独自の面白さを獲得してはいる。だからやっぱり、こちら側の読む順番や時期の問題だったのではないかと思う。
 鍾乳洞とか屍蝋とかはそこまでやるのかと云う驚きがあった。本書の奇妙な読み味は、むしろそのあたりから生まれているのではないかと思う。あのアイディアを成立させるだけならシンプル&ソリッド&オーソドックスな短めの長篇として仕立てても良かったはずで、しかしそうはせずにいっそ蛇足とも映りそうなレベルで物語を(あくまで館のなかで)膨らませた、しかしその膨らませ方自体は決して異形なわけではない、と云う微妙なラインに、最初に書いたような、遠くから見ると普通でも近づくと異形、と云う印象が由来している。
 本気なのかパロディなのか、直球なのか変化球なのか、人工的なのか天然なのか、開いているのか閉じているのか。裏の裏は果たして表とすっかり同じなのか。その、逸脱と遵守が一緒くたになってしまったようなつかみどころのなさがミステリの技巧としてあらわれたとき、あのアイディアとして結晶している。

追記。あるいは、このつかみどころのなさ、パロディなのか本気なのかいまひとつわからない理由は、本書が綾辻行人の《館》シリーズへのトリビュートだからではないか、とか思ったり。 

 

綾辻行人『霧越邸殺人事件〈完全改訂版〉』(角川文庫)

 この家は祈っている。

 実は読んでなかった枠その2。『螢』とは逆に、急いで読むことなく、自分のなかで読む機が熟すのを待っていて良かった作品だと思う。高校生の頃に読んでも、もちろん傑作だけれど、その正体がいまひとつ掴めないままだったに違いない。まあ、今回掴み切れたとも云えないのだけれど。その曖昧模糊とした雰囲気こそが本書の魅力だ。
 お話としては王道も王道、〝閉ざされた雪の館〟の〝連続殺人〟であり、しかも〝見立て〟と来た。終盤には素人探偵による華々しい推理もあり――みんなを集めて「さて」と云う!――全篇に横溢する怪奇的な雰囲気と衒学的なまでの〝名前〟をめぐる考察は、〝本格ミステリ〟であることに過剰なまでに自覚的である。しかし本書の面白いところは、そう云った〝本格ミステリ〟の構造がかえってそれに捉えきれないものを呼び込むことだろう。ミステリと幻想の融合と評されることの多い本書は、どちらかと云えば巻末のインタビューで作者本人が述べているように、ジャンル越境と云うよりミステリとしての要請に応えた結果――ミステリであることに過剰に自覚的になった結果として突き抜けた作品だと思う。すべてが図式に回収されてゆくことの不思議さを浮かび上がらせ、図式に回収してゆくことの危うさへと至り、これ以上はミステリがミステリでなくなるかも知れない臨界点に触れている。探偵の推理とは畢竟、起こった出来事についての解釈に過ぎず、点と点を線で結びつけてゆくその営みは必然的に現実から遊離してゆく。それを踏まえると本書のユニークなところは、そうした探偵の営みはともすると犯人のそれへと近づくことを、いわゆる〝操り〟とは異なるかたちで示している点であり、むしろ探偵と犯人をめぐる構造をすっぽりと覆うように事件があり、館があり、世界がある。ここにクイーンの残響を聴き取ることだって可能だ。巽昌章綾辻作品のなかでもこれだけを色んなところで言及するのも頷ける、蜘蛛の巣のように暗合を張り巡らせた傑作。

文体の舵を取れ:練習問題⑦視点(POV)問二・三

 四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしてもかまわない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街なかのアクシデントにしても、なにかしらが起こる必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。
問二:遠隔型の語り手
 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。

問三:傍観の語り手
 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

 前回はこちら。

washibane.hatenablog.com

問二:遠隔型

 白地に薄黄色の花柄が散りばめられたテーブルクロスの上には立方体を幾つも組み合わせた蛇のような積木がゆうに四十個は並び、赤、青、緑、黄、それぞれの色である程度分けられているその山を、三人分、六つの手が取り囲んでいる。色黒で指が太いふたつは忙しなく指でテーブルを弾き、色素が薄く線が細いふたつはべったりと掌をクロスのマットな表面に押しつけ、毛深いふたつはむかいあわせにして卵を包むように膨らんでいる。テーブルの隅には先週の雑誌と背色の褪せた文庫本と表紙がはずれかかった辞書ともう空っぽになったティッシュペーパーの箱とが積み上げられ、そのてっぺんにある砂時計が第七の手で抓まれるようにしてひっくり返された。三番、とテーブルの上から声が落とされる。六つの手が一斉に動き出す。色黒のふたつは赤い積木を一方に持って、もう一方で黄や青の積木と組み合わせては外していく。その向かいの華奢なふたつは焦る様子もなく赤、黄、緑と積木を組み、隣のふたつは指で積木の形を確かめるようにひとつひとつ取り上げては握りしめていた。砂時計が半分を過ぎる。闇雲に組んでは外してを繰り返していた両手はいつの間にかゆったりとした手つきになって立体物を作りつつある。向かいの両手は最前の落ち着きをなくしている。積木を触っていた手はもはや中空に投げ出されていた。くびれた硝子容器のなかでは山が平らになり、やがてすり鉢状となって時間の経過を示している。色黒の手が震えながらテーブルの中央へ飛んでゆく。向かいの手がつかの間止まる。その空隙のような一瞬に、両者に挟まれた手が積木をコの字の立体へ組み上げている。

問三:傍観者

 ちょうど探偵が推理を話すところだったから、このゲームの参加は見送った。代わりにタイムキーパーを仰せつかって、わたしは右手で開いた文庫本の探偵の推理を拝聴しながらゲームの開始を宣言し、左手で砂時計をひっくり返す。視界の端で谷中と嘉山と植野が一斉に、テーブルのピースを手に取った。かちゃかちゃと鳴る軽い音は素材が木製だからか芯のところに柔らかさがある。三人から少しく離れてその音を聴くのは久しぶりだった。そこにウボンゴがあるならばいつも参加するからだ。わたしはゲームに真剣になれない性分だけれど、ウボンゴは別だった。いや、正確には、真剣にならないことが楽しい唯一のゲームだった。真剣になれば視野が狭くなる。視野は広く、心は気楽に、能うならば、無に。その境地でパーツとパーツは収まるべき場所に収まるのだ。探偵の推理のように。だから推理研に相応しいゲームだ、と云ったのは一回生の頃のあんただっけ、植野? テーブルの対面に坐る彼を横目で見ると、ピースから手を離して眉間に皺を寄せていた。ねえ植野ってば大丈夫、と茶化してやる。きり、と彼の口角が上がった。どうしてウボンゴがサークル活動になるの、と訊ねたときに返されたのと同じ笑みだ。ゲームに参加していたらとても眺める余裕のないその笑みを見られたのは役得だろう。彼は迷いなくピースを組んだ。視線は手許に落とさなかった。彼はまっすぐわたしを見て、云う。「ウボンゴ」。それからまだウボンゴをめざして足掻く後輩ふたりにそれぞれ一瞥をくれて、肩を竦めた。そう、あのとき彼はこうこたえたんだ。「いつかはウボンゴも活動になるさ」。そして、伝統になってゆくのだと。

コメント
  • 問二の元ネタはスティーヴン・ミルハウザー「探偵ゲーム」。同じ客観的な描写でも、情報の質が若干違ってしまっているのが気になる。たとえば《立方体を幾つも組み合わせた蛇のような積木》と《先週の雑誌》は情報の質が異なっている。
  • 問三は傍観者にできなかった。もうちょっと解説役として語らせる予定だったのだけれど、なぜか植野のことしか語ってくれない。そして最後に歴史的遠近法の彼方で古典になってしまったので、棄てがたくて提出してしまった。

何回目かの眠れない夜

 実家、と云っても賃貸なのだけれど、年内に引っ越すと云う。既存の家に移り住むのか、新しく土地を買って建てるのかはまだわからないが、実家を離れることは決定したらしい。同居していた祖父母は何年も前に亡くなって、息子ふたりが曲がりなりにもそれぞれ社会人と大学生になったいま、両親ふたりで住むにはいささか手広すぎるらしい。祖父母が亡くなったときぼくは泣かなかったけれど、実家が実家でなくなることはたまらなく悲しくて泣きそうになっている。物心ついた頃から住んでいる家だった。賃貸と云う概念を知る前からそこで暮らしていたから、子供部屋には小さな頃つくった画鋲の穴や玩具をぶつけた凹みやセロハンテープを剥がした痕がいたるところに残っていた。大学に入学して京都に住むようになってからは父親の書斎に改造されたけれど、それら過去の痕跡が塗り替えられたわけではなく、むしろ痕跡は積み重なっていった。これが場所の記憶と云うものか、と思う。リビングで父が座る所定の位置にいつもできている絨毯の皺とか、パソコンを使うときはそこでと決められているダイニングのたぶん十年以上動かされていないテーブルのフローリングへのめり込みとか、そこにあることはわかっていても取り出す気がおきないまま五年が経過した冷蔵庫の裏に落っこちたレシートとか、そう云うものは微妙に形を変えつつもずっと降り積もってゆくばかりだと思っていたから、そう云うものがもうなくなってしまうのだと思うと悲しい。けれど思えばそう云うものはずっとなくなり続けていて、たとえば小学校の頃から祖父母が亡くなるまでずっと家に帰るたび、思いドアを片手で開けて部屋の中に誰がいるのかも確認しないまま声を張り上げて云い続けた「ただいま」は日中の家で誰も待っていなくなってからは云うこともなくなって、こたつに潜って宿題を解きながら再放送される『相棒』や『科捜研の女』を見ていたあの平日に午後はもう二度とない。それらが輝かしいものだったとは思わないけれど、もう二度とない、と云うことを考えるにつけ、たまらない感情に襲われる。そう云うとき、ぼくは眠ることができなくて、実家でも、正月休みも明けて実家から下宿に帰ってきてからも、ぼくは夜明け近くまで眠ることができないでいる。
 実家では、休学明けてからの進路についても話した。なんとなく院進すると周囲には云い続けてきたし、休学する際も外部院進へ向けて勉強するためなどと教授に云っていたけれど、年末にかけてその気持ちはすっかり萎えていた。ずっと一回生のような、興味を持った分野の本をペラペラ捲るのは楽しいけれど、その分野に分け入って研究してゆく自分をどうしても想像できない。多くの大学生がそのための態度を身につけるべき4回生を、ぼくはコロナ禍と、コロナ禍に対してろくに対策を立てない研究室へのストレスで潰してしまった。これから院進するにしても、それは就職活動からの逃避以上のものではないだろうと思った。では就職するのか? これも苦痛だ。就活のためのサイトや広告には胸焼けして吐き気を覚える。すべての言葉が空疎に目の前を過ぎていった。止まってしまった自分以外のすべてがあまりに素早く動いていって、その流れに戻ることができない。一回生の頃からお世話になっていたサークルの先輩たちは大学を卒業し、就職してゆく。ぼくはいつの間にか上回生になっていて、けれどいつまでも「期待の新鋭」でしかない。何か手応えのあるものをぼくは残していなかった。ずっとサークルの下回生の気分で、進路と云うものをすべて遠ざけたいのが正直な気持ちだ。
 結局、苦し紛れに思いついた公務員試験と云う進路をとることになった。自身も公務員だった母親はすっかり乗り気で、ぼくが和歌山県林業を担当する県庁職員になると云う将来設計を既定路線として話すようになった。いつの間にそう云うことになったんだろう。公務員が楽な仕事と云うイメージはとっくに時代錯誤らしいが、やりたい仕事もないなかで、公務員をしていた母親のようになることは、悪くない選択かも知れないとは思った。けれどきょう、教養試験の問題集を買ってきて、これに手をつけてしまえばひとつの選択肢を握ることになるのだと思って怖くなった。もちろん、今年受験するならいまから手をつけても遅すぎるくらいだ。受験するにしても遅すぎる、と云うことが、またぼくの胃を締めつけて、肩にのしかかる。今夜も眠れそうにない。目安は1日8~10時間の勉強だそうだ。
 しかしもし、院進をやめて就職するならば、サークルは今年いっぱいで卒業することになる。ぼくは何も残せていない。何か残さなければならない。そう思ってミステリーズ新人賞と鮎川哲也賞の応募を決めたけれど、何を考えても、何を書いても、ものになりそうにはなかった。ミステリーズ用の短篇は、プロットまで考えて、書き出しに手をつけたときにすべてゴミ箱へ棄てたくなった。昨年取り組んでいた『文体の舵を取れ』や『文章練習』の甲斐も空しく、文章はどんどん下手くそになっているとしか思えない。時間を無駄にしている、と云う焦りが募る。残り時間は少ない。けれど、なんの残り時間が?
 一回生の頃に書いた犯人当て「鴉はいまどこを飛ぶか」を最近、読み返す機会があった。素朴なぶんだけ、いまよりずっと伸び伸びとしていて、ミステリ小説としての技巧も凝らされていた。もうこんな小説は二度と書けないのだろうか、と思う。もうあそこには二度と戻ることができない。発表したのは夏合宿の夜だった。あの夜、いつかこんな夜を迎えるとは思いもしなかった。いまひとつ距離を掴めなかった同期たちが作品を褒めてくれて、同期同士で会話を弾ませて、なんとなくこのままずっと、何年もこんな夜が続くのだと思った。どこかの宿の大部屋で、あるいは大学のBOXで、先輩や、後輩も一緒になって、夜更けまでミステリの話で無邪気に盛り上がる、そんな眠れない夜が、いつまでも、繰り返し、変わることなく。

2021年下半期ベスト

だけど、もうだれも逃げられはしないんだ。トミーはポケットに両手をつっこみ、反対方向に歩きだした。はじめはゆっくりとした歩みだったが、しだいに速くなり、最後にはほとんど駆け足になっていた。まるで骨の中身がすっかり空っぽになってしまったようだった。今朝感じた全身の重みとは逆に、からだが軽く、どこへでも飛んでゆくことができた。頭は風船になり、足がちゃんと舗道についているかどうか、いつも確かめていなくてはならなかった。それは気味がわるい、それでいて妙に心踊る経験だった。もうだいじょうぶ、と陰気に思った。だいじょうぶだ。

ガードナー・R・ドゾワ「海の鎖」(傍点部分をボールドに置き換え)

 何かを考えるようで、何も考えていないことがわかったような一年でした。上半期ベストを書いたのがつい先月、去年の下半期ベストを書いたのもついこの間のことのように感じます。パンデミック以来、自分のなかで何かが止まったような感覚があって、しかしそれでも自分含めた世界は動き続けていることに戸惑いと胸苦しさを覚える日々ですが、読書がひとつの助けになっていることは間違いないでしょう。しかしそれを「救い」や「癒し」とまでは云いたくありません。読書とは常になんらかの切り結びでありましょう。
 そんなこんなで下半期ベストです。長篇と短篇で20作品ずつ。順序は優劣を意味しません。

長篇

 12月の前半は文章練習と称して写真を挿絵に見立てて短い文章を起こす訓練に費やした。ものになっているかどうかはわからない。とは云えそこでお世話になったのがカモガワGブックスとSFマガジンの原稿料で買った『モダン・カラー』。カナダを中心としたそのカラー写真はときに奇妙でありながらどこか切なく、じっと見ているだけで泣きそうになる。
 文章練習と云えばル゠グウィン『文体の舵を取れ』。まだ全課題を終えていないけれど、実践例として挙げられる古典のなかにはハックルベリー・フィンの冒険も含まれていた。計算された拙い文体によって語られる、最後のフィンの決意が胸に迫る。語りの技巧で云えば『詐欺師の楽園』も絶妙で、エモーションや思弁を伏流させつつ飄々とホラを吹く。《プロチェゴヴィーナ公国のレンブラントと称せられる画家アヤクス・マズュルカ――美術史上最大の意義をになう人物のひとりとされているこの巨匠は、実はかつて実際にこの世に存在したことはない。彼の作品は後世の偽作であり、彼の評伝は虚構である》と云う書き出しからして大胆不敵だ。同じく真贋をテーマとしたハイスミスのサスペンスはまさしくその名も『贋作』。真贋と虚実のあいだにあるサスペンスがアイデンティティにまで食い込んでゆく。その裏にあるもうひとつのテーマは究極の愛だ。ニセモノとホンモノの転倒はイングランドイングランドでもテーマになる。こちらで贋造されるのは、なんとイングランドそのもの。そして本書でも、愛国心や家族の愛を含めた、愛がテーマとして伏流する。今年出会った作家のなかでも個人的に最大の収穫であるミルハウザーもまた、人工的な世界や虚実と云ったテーマに惹きつけられる作家である。エドウィン・マルハウス』はその後に読んだ幾つかの短篇集で繰り返されるモチーフやテーマをあらかじめ含んだデビュー作にして代表作。すべてのページが面白い。語り/騙りの技巧をこちらも虚実のあわいに仕掛ける『魔法』は具体的にどんな仕掛けなのか説明しづらい。微妙にずれた合わせ鏡のような、めくるめく像と交錯する視点、はかり知れない奥行きを自分の眼で確かめていただきたい。問答無用の超絶技巧が発揮された以上のタイトルと並べるには力不足な感もあるけれど、『ヨルガオ殺人事件』の作中作の出来とその使い方がユニークで、前作の『カササギ』を遥かに凌ぐ面白さ。あまり好きな作家ではないし、いい加減ホロヴィッツが新刊ランキングを総ナメするのは勘弁してくれと思うものの、今年に関してはこれを新刊ベストに挙げることを厭わない。下半期はこのほか、マクロイやカーなどクラシック・ミステリも読んだ。とくにカーは『緑のカプセルの謎』『四つの凶器』も面白かったけれど、やはりワンアイディアの切れ味と細部の冴え、そしてヴィジュアルイメージの美しさで『白い僧院の殺人』に軍配が上がる。真相の複雑さをも包み込むような雪の白。ロスマクも中期作品を集中して読んで、これまた甲乙つけがたいものの、一連の作品群の終着点として『一瞬の敵』を挙げよう。最後のどんでん返しは、もはやどうしようもないどん詰まりの一撃として、鮮やかさとは対極の混沌とした印象を残す。ロスマクと同様に張りめぐらされた構図を、蜘蛛の巣に見立ててすべて操ってしまう恐るべき犯人を作り出したのが『絡新婦の理』。これは果たして、人間が生み出して良いものなのか――犯人も、作者も。ミステリと云うジャンルが持つ特徴や奇妙さを誇張した可笑しな連作『探偵X氏の事件』はしかし、笑いの奥に一種の哀切を感じさせる。収録作品ではないが同系統の短篇「夕日事件」の切なさだ。全篇ロジックによって貫かれた〝本格ミステリ〟――普段は抵抗のあるこの言葉も、鮎川哲也作品についてつい云いたくなる――『黒い白鳥』もトリックや論理の冴えた切れ味だけでなく、解決篇におけるあの切ない対話があることによって、傑作になったと云えるだろう。あの対話の幕切れは、ミステリの技巧をいくら学んで真似しようと思ってもできない。
 今年最も話題になった漫画であろう『ルックバック』についてはしかし、多言を尽くそうと思わない。褒めることも貶すこともまだ、うまくできない。ただ、公開直後の数時間だけが〝ホンモノ〟だったのではないかと思う。もちろん、上述してきた作品にあるように、真贋は良し悪しと一致しない。
 ここからは研究書やノンフィクション。『「犠牲区域」のアメリカ』は、先住民族の聖地や居留地に焦点を当てたルポルタージュにしてアメリカ論だった。アメリカと云う混沌とした国の、複雑な文脈が作り出す、一見すると捩れた論理を解きほぐす。文体は明るいし扱う時代は広いし論じる舞台は主としてイギリスではあるけれど、『近代文化史入門』もわかりやすい歴史のなかで黙殺された複雑な文脈を取り出して解きほぐす刺戟的な一冊。饒舌すぎて話半分に聞くべきな気もするけれど、聞いている間はすこぶる楽しい。そのマクロで大胆な論とは正反対に、当時の文献にあたることで従来の歴史(=二十世紀写真史)の捉え方を覆そうと図るのがカルティエブレッソン。こちらも筆が走りすぎていて、とくに批判対象に過剰な攻撃を加えているのが気になるものの、同意できない箇所があるからこそ刺激されっぱなしの力作評論だった。写真史だけでなく広くはメディア史にも目を通そうと思って手に取った『グラモフォン・フィルム・タイプライター』もまたバチバチと閃光走るように刺激に溢れた大著。まあ、精神分析を用いた論、とくにタイプライターのあたりはよくわからないんですが。『批評について』は文体に外連味はなくいっそ退屈なほどだけれど、コンパクトに批評実践の再構築を試みた一冊。感想や批評の実践について思いついた雑語りを何か云うならたいていここに書いてあります。反論も多いものの、それでも参照される価値ある名著だと思う。
 そして年の瀬も迫りに迫って年間ベスト級どころかオールタイムベスト級となったのがまるで探偵小説のようなルポルタージュ『SS将校のアームチェア』だ。椅子のなかから見つかったナチの資料。誰が、なんのために隠したのかを追いかけるうち、ひとりのSS将校の人生と、彼を取り巻くひとびと、ひいては歴史が浮かび上がる。歴史書としての難点さえも、一人称捜査ものとして読みどころとなる傑作。

短篇

 叢書〈未来の文学〉の完結はSF界にとっても、ぼくにとっても事件だった。この叢書はぼくがSFも読むようになったきっかけでもあり、感慨に耽ると同時に、感慨に耽る間もなく全レビューとトリビュートの仕事も引き受けた。上半期の主たる活動が「よふかし百合」だとすれば、下半期の主たる活動は「カモガワGブックス」と云うことになるだろう。あらためてお礼申し上げます。企画にお誘いいただきありがとうございました。さて、『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』のレビューでも指摘されているように、〈未来の文学〉を締めくくるアンソロジー『海の鎖』の、これまた最後を締めくくる中篇「海の鎖」は、ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」と対になるような、新たに〈未来の文学〉を代表する傑作。また文体も味わい深い。読みながら傑作だと確信できる数少ない例のひとつである。事件と云えば少しささやかではあるけれど『裏切りの塔』の刊行も今年の出来事として印象深かった。傑作「高慢の樹(驕りの樹)」を収める本書は、ずっと出して欲しいと思っていた。全体としてチェスタトン濃度の高いこの一冊にあって、訳し下ろしの戯曲「魔術」は、戯曲なだけあっていつもの描写が薄まった一方、描写の印象の陰に隠れがちな会話の切れを堪能できる中篇だ。《僕は盗みよりも悪い罪を犯しましたか?/この世で一番残酷な罪を犯したと思います。/一番残酷な罪とは何です?/子供の玩具を盗むことです。/何を盗んだんです?/御伽噺を》――。そう云えばミルハウザーは、チェスタトンの子孫に位置づけることができる作家だろう。邦訳は全部読もうと云う勢いで彼の短篇集を何冊か読んだ。「幻影師、アイゼンハイム」「ナイフ投げ師」「夜の声」なども捨てがたいものの、ここでは御伽噺のような「J・フランクリン・ペインの小さな王国を挙げておく。急速に幻想の度合いを高めてゆく結末に圧倒された。現代海外文学の活きの良い短篇を水揚げするアンソロジー『BABELZINE』のvol.2からは「シュタインゲシェプフ」「レム外典を双璧としたい。前者は設定と叙述技法を物語と噛み合わせるのがとても巧み。後者はユニークなレム論にしてレム・トリビュートで、以上2篇ともどちらかと云えば技巧に感心していた。逆に小手先の技巧では通用しない迫力で圧倒してくるのがラファティであり、今年はベスト盤が2冊刊行された(来年は完全訳し下ろしの短篇集が出るらしい)。再読のはずだけれどほとんど新鮮な気持ちで読めた「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」は分身テーマの傑作。笑えて、怖くて、何よりカッコいい。結末の語りはとくに見事だ。ラファティと、それからウルフ、カソリックの作家たちに捧げられた〈未来の文学〉トリビュート「衣装箪笥の果てへの短い旅」。坂永雄一作品なら『NOVA』に載った「無脊椎動物の想像力と創造性について」も素晴らしかったのだけれど、自分も寄稿した〈未来の文学〉トリビュートに寄せられた本作は、ぼくが真っ先に逃げてしまった〝古典ファンタジーを題材に書く〟ことに挑戦してみせ、成功を収めたと云う点で感服&恐縮するほかない。お見事です。『NOVA』からは代わりに、こちらも力の入った中篇「おまえが知らなかった頃」を挙げたい。腹にどすんと響く、迫力のあるナラティヴと骨太なストーリー。全体の安定感で云えば中短篇の書き手として、比較的近い書き手であろう小川哲をも凌ぐだろう。安定感で云えば、奇想天外な書き手と云う印象だった三方行成が真正面からファンタジーを書けることも示した「竜とダイヤモンド」も忘れ難い。〝ドラゴンカーセックス〟と云う着想こそイロモノだけれど、語られる物語は意外なほど多面的で、痛切にして痛快だ。へんな話の書き手としてもうひとり、千葉集も見落としてはならず、「へんなさかな」はまさしく〝扁(へん)〟なおはなしだった。奇想から始まった物語が当初の印象を裏切って切ない――しかしやっぱりへんな、けれど最初のへんとは違った情感を湛える結末にたどり着く。そして奇妙さの最果てに行きつくのが円城塔の探偵小説、または非探偵小説「男、右靴、石」。これまでの作品のように煙に巻いたり韜晦したり仕掛けを凝らしたりするのではなく、直球に不可解なものを投げつけ、ぎゅーんと飛んでゆく。あの男は、右靴は、石はどこへ? こたえの明かされないミステリとして書かれたSFと云う点では、レポートの形式で横書きに綴り、架空の写真まで用意して凝ったつくりの「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」も面白かった。長いタイトルは便宜上のもので、本来は無題の小説とのことだけれど、エイズと云う死因がここでさり気なく示されているのは無視しできない。彼は何をしたかったのだろう? 超能力要素があると云うことで「サマードッグ」もSF短篇に入るだろう。いっそ爽やかなタイトルと裏腹に人間の身勝手さと残酷さを描き、けれどニヒルに終わることなく、その残酷さを前にしても砕けない気高さや優しさを残す。さらには静寂さを湛える美しい冒頭から、サスペンスフルな展開と社会への眼差し、いずれも疎かにせずまとめあげた非の打ち所がない一篇。そう云えば今年の後半はミステリ短篇をあまり読めず、ここにはメルカトル鮎シリーズ久しぶりの単行本『悪人狩り』から「メルカトル式捜査法」を挙げることしかできなかった。神か、悪魔か、メルなのか。これはメルカトル鮎にしかなし得ない推理だろう。フィクションからは最後に、直前の読書日記でも感想を書いた「死んでいない者」を挙げる。ある通夜のひと晩を舞台に、さまざまに視点が移ろいながら、家族それぞれの身振り・思考・記憶を綴る。あざといまでに良くできた結末が美しい。
 ベンヤミンのメディア論として有名な「技術的複製可能性の時代の芸術作品」は幾つかの稿があるけれど、読んだのはベンヤミンのもともとの思考が強く出ていると云う第二稿。決して長くない分量に、こんにちまで広く深く検討され続ける問題を収め、一気に駆け抜ける。写真論ではこちらも古典的な一篇「『写真家の眼』序文」。こんにちではむしろ否定的な文脈でフォルマリストとして紹介されることの多い(気がする)シャーカフスキーだけれど、少なくともこの一篇を読む限りでは、決して一面的な評価だけで退けられるべきではないと思った。意外にもその射程は長く、広い。逆に云えば、未だにここから抜け出すことは難しい、と云うことでもある(が、ぼくは写真論はまだ詳しくないので頓珍漢なことを云っているかも知れない)。「象の絞首刑」アメリカ史の論文だけれど、扱っている題材がタイトルの通り、象が首を吊って殺された事件と云うのだから面白い。ある見世物一座の象がひとを殺し、その罰としてなぜか象が吊される。この奇妙な事件の真相を突き止めるのではなく、むしろ外側へ、その奇妙さを解体するようにして、事件を世紀転換期アメリカと云う時代のなかへ位置づける。長篇の方で挙げた『絡新婦の理』は解説も素晴らしく、「『絡新婦の理』解説」はより範囲の広い京極論、さらにはミステリ論としても読めると思う。親しみやすさも含め、巽昌章のベストワークのひとつだろう。そして解説では、ようやく完結した巨大アンソロジー『短編ミステリの二百年』を締めくくる、解説の終章「誰が謎を解いたのか」も、ともすれば収録作以上に、謎解きとして面白い。クリスチアナ・ブランド「ジェミニー・クリケット事件」の英米版両方を読み比べながら、その正体に迫り、そしてこれまでのアンソロジー収録作が、この双子に収斂することを明かしてみせる。これまで読んでいるうちに見出されてきた作品間の共鳴や接続、その張りめぐらされた糸の奥に「ジェミニー・クリケット事件」があったと云うわけだ。畏怖と感嘆を込めてつい、あの傑作にこう云いたくもなる。
「あなたが――蜘蛛だったのですね」

 以上、20作品ずつ計40タイトル。強いてベストを挙げるなら、長篇が『エドウィン・マルハウス』か『SS将校のアームチェア』。短篇なら思い入れも込みで、「海の鎖」になるだろう。

 それではみなさん、良いお年を!