鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

ツイートの代わりに:2022/07/23

ジャンル論なんていくらでも反例が生えて来るのだから、トップダウンで考えるより具体的な作品の検討からボトムアップで構築した方が妥当なものができると思うが、しかし考えてて楽しいのは圧倒的に、デカい話の方である。



ある土地のある時代の銃取引について資料あたって調べた研究より、銃!病原菌!鉄!と云っていた方が云う方も聞く方も楽しいしね(読んでない)



ジャンルの定義づけにはふたつの側面がある。文脈づけと信念。前者が後者を、後者が前者を構築する。


 

〝ご利用ありがとうございました。〟



以前ひとから指摘されたが、ぼくには、人間の人生を俯瞰したい、圧縮して短く語りたいと云う欲求があるのだと思う。おそらくそれは、自分自身の人生が全然実感持って生きられないことの裏返しだ。



三田ラッシー祭り(三田のラッシー祭り)



匿名ラジオを聞いていたら、キッザニアに社会が生まれる回とか巨大ジャングルジムのなかで過ごす回とか奇想っぽいアイディアがあり、本来限定的である空間が拡張されて生活が営まれるのはやはり普遍的なロマンなのだと思った(オタク、と括っても良いが、躊躇いはある)。「南部高速道路」もその系譜だ。



その原点のひとつは、公園の回でARuFaが語っていたような「島だと思ったらでかい亀」のような、世界を丸ごと包むような発想なんだろう。大地を亀が支えている、と云うような神話を組み替えて、亀の上に生活を作ると云う。亀の上の大地、みたいな神話は由来不明と前にどこかで読んだけれど、まあ、それはそれ。



Backroomsもこの系譜で読める。本来は建物内部の一部を占めるに過ぎないロビーや廊下、プールやオフィスがおそらく無限に広がって、世界となってしまう。バベルの図書館。それを図書館と呼ぶ者もいるが、宇宙は、おそらく無限の……



Backroomsは紹介記事くらいの知識しかないが、エンティティとかは余計だと思うし、総じて人間に対する殺意が高すぎる。一部のSCPに対しても思うことだが、理不尽だったり不条理だったりすることの恐怖と、人間に対して悪意があることの恐怖は違う。元ネタの写真の不気味さは、そこでは失われている。そもそも、誰かいそうでいないこと、置いてきぼりにされたような寂しさ、いつのまにかみんなとはぐれていたあの頃の胸が切なくなるような恐怖がLiminal Spaceの怖さではなかったか(まあ、別ものってことなんだろう)



Liminal Spaceは面白い。
Backroomsのファウンドフッテージ風動画も面白い。
しかしBackrooms自体はあんまり面白くない。



ホラーは(あるいは、ホラーも)、スタイルのジャンルだ。洒落怖とか文芸としては良い文章でもないのに、読んでみると怖い。むしろ文芸としての洗練を経ていないから怖い。それはおそらく、素人撮影のファミリームービーや、発見された昔のビデオフィルム、どこの誰とも知らないひとの顔写真にも通じる、なまの感覚、その不気味さである。

ツイートの代わりに:2022/07/22

パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ:二〇世紀概説』(エクス・リブリス)を読んだ本に追加→

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短くも濃密で、凄惨にして滑稽な二〇世紀史。あるいは、二〇世紀史を語らないことによって二〇世紀史を捉えようとする試み。高く、高く、高く吊り上げられた語りが出し抜けに具体的な事例へと落とされたりする。本文は150ページもなく、特殊な組版で実際の分量はさらに短いのに、読むのにかなり時間がかかったしいままで小説で覚えたことのない疲労を感じた。ある程度意図的に読み手の目を滑らせているのだろうが、一度出たエピソードが別の箇所でまた引用されるなど、たぶん仕掛けはあちこちに張りめぐらされている。



エウロペアナ』は誕生日にいただいたものでした。ありがとうございます。



伊図透『分光器:伊図透作品集』(ビーム・コミックス)を読んだ本に追加→

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汗も土も貫いて透過するような光と、熱を持った表情が良い。以前読んだ『辺境で』は好きになりそうでなりきれない印象だったけれど、表紙に惹かれて久しぶりに買ったこの作品集では好みとかを超えて響いてくる声があった。「堰」はわかりやすすぎる感はあるし、全体としてもうちょっとぐりぐり悪意や暴力を押しつけてもらって構わないのだけれど、「星が奴を殺す。その前に」や「エイス〝エリン・ブロコビッチ未満〟篇」などはその語りすぎず、しかし核心的な言葉を届かせようとする書き方が効いていたように思う。



試験もなんとかなるだろうと思っていたがもう金曜か。ヤバ。こんなツイートだかブログだかわからん文章書いてる場合ではない。



事務手続きのために出かける必要があり、ついでに本屋に寄ろうと思って、まずは本屋に寄ってから、肝心の手続きを忘れて帰ってきた。何もかもお終い。いや、間に合う間に合わないとかではなく、調子が駄目になった。いったんリズムが崩れるとな~。



先日相談室で云われた「ルーティーンを持つこと」とはつまり、こう云うときに立て直すための、あるいはそもそもこう云うことが起こらないようにするための基準を作ることでもあるんだろう。なるほど。



中高生の頃は単純だった。何もかもが規則正しく、直線の上に並んでいた。



ミステリ研について、かなり強めの思想を持っていることがわかりつつある。



月初め、懐に余裕があったのであれこれと本を買っていたら、微妙なタイミングで金欠になった。一週間とか一ヶ月とかの生活の計画を立てるところからはじめるべきだな。

ツイートの代わりに:2022/07/21

日記の代わりに。



(面接が)終わりー。



(うお)~♪ 魚魚~♪
さあ輪になって食べよー♪
かーわーざーかーなー♪
締めて食べるかーらー♪



「世の中興奮することっていっぱいあるけど、やっぱり一番興奮するのはみすず書房の近刊案内見てる時だよね」
「間違いないね」



『舞踏会へ向かう三人の農夫』再読したいな。読書会もやりたい。



面接の前に喫茶店で『建築文学傑作選』の須賀敦子ヴェネツィアの悲しみ」を読んで、もうこれで満足して帰りたくなった。さすらうように移ろう言葉、積み重なる記憶、そして胸を衝く閃き。須賀敦子を読みたい。



最近は10+1websiteの対談記事とかを読んでいる。最近読んだのはこのへん。

www.10plus1.jp

www.10plus1.jp

めちゃくちゃ面白そうな記事がたくさんあるな。雑誌版のバックナンバーもほしい。



親にペンネームがバレたので、このアカウントもこのブログも時間の問題だろう。



小学校のとき読書感想文が、確か一度だけ宿題に出たが、書きあぐねていたぼくに父が与えたアドバイスは小説のあるシーンについて丁寧に人物の動きや話の展開を追いながらコメントを付け加えていくと云うものだった。いま思えば、あれって精読をさせようとしていたんだな。



読んだ本は憶えている。『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』だ。シリウス・ブラックと裏切り者について、種明かしされるシーンだった。

日記:2022/07/19

8時に起きる。30分ほどだらだら。このだらだらとした時間がいちばん良くない。それはわかっている。



一限をzoom講義で受ける。先生が慣れていないからか、誰かがマイクミュートにしていないせいでずっとがさごそと朝の生活音が聞こえるからか、何もわからない寝惚けたような授業。話半分に聞きながら試験勉強をする。測量学。各回の課題を復習すればそれなりの点数にはなる、と仄めかしていた先生を信じることにする。雨が窓を打つ。不思議なことに、頭が澄んでいる。



測量学の計算問題は、蓋を開けると単純な図形問題なのに理解が難しい。問題も解説も、計算ではなく概念や日本語で躓く。と云うのも、測量のための計算に用いる値はそれ自体も測量された値であり、目の前の値が真の値なのか計器の値なのか、計器の値ならば何のどのような値で、誤差はいくらなのか、直観的に切り分けるのが難しいからだ。そもそも真の値などと云うものはなく、すべては測量された値から数学的で統計的な処理を施された値に過ぎない。ゆえに測量することとは誤差を測ることなのだと云える。誤差のない測量はあり得ない。地球は平面でも球面でもなく、すべては相対的で絶対的な計器などなく、そして、人間は必ず間違う。



朝早く途切れた眠りを取り返すために少し眠る。目を覚ますと雨がいよいよ激しくなっている。雨の日の外出があまり億劫でないのは、数少ない自分の美点である。家を出る。キャンパスが川のようだ。生協で早めの昼飯を摂る。警報が鳴る。食堂で、あちこちから、何度も。ちょうど3年前も激しい雨だった、とぼくは思い出す。



午後はレポートを書いて過ごす。顔を出していない研究室の先生が出したレポートなので真面目に取り組みたかったが、顔を出していない研究室の先生が相手なので気まずさのあまり〆切当日まで手をつけなかった。ふらふらと論旨の定まらない、講義資料には目を通して自分なりの見解も盛り込んでいますよとアピールするだけの駄文を仕立てて提出する。こう云うやっつけの課題をしてしまうたび、自分が少し嫌いになる。大学のレポートよりサークルの読書会レジュメの方が力を入れているのはどう云うことだ?



五限に出る。面白い話を聞く。これは本当に面白い話だった。



スクラップブックを買う。いままで自分は読んだ本の内容や引用をscrapboxにまとめていたが、この半年は面倒くささに負けて本に付箋を貼るだけ貼ってろくに手をつけていなかった。それならコピーして切り抜いて本物のスクラップにしてしまえば良い、と気付いたのは昨日のことで、善は急げとさっそく一式揃えたのだ。結果を云うと失敗寄りの気がする。新聞や雑誌を前提としたA4サイズのスクラップブックでは、縦書きの本の切り抜きをきれいにまとめられない。やりかたを考える必要がある。



次に書く小説についてひとと話す。次に書くと云うか、書けなくなってしまった現状から抜け出すための執筆だ。とりあえず方針が決まったが、同時に途方に暮れている。しかし、走り出さなければゴールはできない。

日記:2022/07/18

三年が経つ。世界はずっと前に壊れており、いまも壊れ続けている。



昼前に起きる。ブランチを済ませて大学の図書館に行く。資料にあたりながらレポートを書こうと思っていたが、あいにく閲覧席は満杯だ。代わりに本を何冊か借りて、喫茶店に行く。レポートの充実を犠牲にする決意を固めて、講義資料をざっと見直す。午後の大半はその店で過ごす。



借りたのは今福龍太の『原写真論』。今福の文体は小説や研究として読めばうんざりする類いのものだが、文章そのものは、その麗々しくも囁くように低いトーンとが癖になる。《どの一瞬にも、歴史が傍らをよぎってゆく音が静かに鳴り響いている。》



一篇だけつまむつもりで読みはじめた小野不由美『営繕かるかや怪異譚』を、一気に読み終えてしまう。論理と怪異、人間と幽霊、両者の接続とバランスが絶妙だ。とくに気に入ったのは「異形のひと」で、怪異が出現すると云う構図自体を反転させてしまう真相が鮮やか。何より自分は、少年少女が理解ある大人と出会うくだりに弱い。パターナリズムと云うならば云え。理解のない大人に踏みにじられた経験は、子供の心に強い傷を残すものだ。



茶店を梯子して夕飯を食べる。ポイントカードを作るかどうか訊かれ、しばらく迷って断る。これまでもそれでずっと損をしてきたし、これからも損をし続けるのだろうと思う。

日記:2022/07/17

ツイートする代わりに日記を書くことにする。続けられるように続けるつもりなので、毎日は更新しない。飽きたらやめる。



8時半にはいちど目を覚ますが、もう一度寝たりだらだらと転がったりしているうちに午前10時前になる。朝ごはんは食べない。この数ヶ月、朝食らしい朝食をほとんど摂っていない。心身の健康が不安定であることの原因は案外それかもな、とは思っているが、改善できない。改善できていればこうなっていない。午前中は茶を飲んで過ごす。パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』を数ページ読み進める。誕生日に贈られたものだ。ありがとうございます。短いのですぐ読めるだろうと手に取ったが、どうも一気に読むような本ではないらしい。段落のひとつひとつ、文章のひとつひとつに捻りと飛躍が加えられていて、少し読むだけで考えてしまう。


 

専門家たちが一般市民に警鐘を鳴らした電気系統のトラブルに二〇〇〇年問題というものがあった。暦が二〇〇〇年一月一日に変わる、九九年一二月三一日真夜中零時に、それは起こるはずだった。情報機器の多くのアプリケーションが二桁の暦を使用していたために、電気系統が二〇〇〇年を一九〇〇年と認識してしまう危険に脅かされたのだ。あたかも、二〇世紀も、そしてオーストリア皇位継承者の暗殺もなかったかのように。
――パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』(白水社

 



Wikipediaによれば、2000年問題の原因のひとつに、将来の改善を想定して西暦の表記を2桁で処理したことが挙げられると云う。将来へ期待する方が悪いのか。過去からの期待に応えられない方が悪いのか。2000年問題は(関係各所を除けば)幸いにも大混乱を起こさずに終わったが、では、2000年問題以外の、将来の改善を想定して先送りされた問題の数々はどうだろう。




樺山三英「愛の新世界」を読む。過去のユートピアディストピア小説を題材とした『ゴースト・オブ・ユートピア』の一篇だが、ほかの収録作に較べると元ネタがわからない。話の内容も。とは云え文章はかなり好みで、よくわからないままするする読める。



昼飯を食べて書店に行く。昨日『怪談小説という名の小説怪談』を読んだ影響でホラーを囓りたくなって――なんてわかりやすい!――『眼球綺譚』と『営繕かるかや怪異譚』と『ずうのめ人形』を買う。もとより気になっていたタイトルを恰度良い機会に買っただけとも云える。午後はやる気が出ず、ホラーとミステリの交差と云う点で思い出して、動画『捨てられた心霊写真』をまた見返す。人間がいちばん怖いと云う陳腐な言葉も出るけれど、最後のどんでん返しならぬ卓袱台返し含め、全体としてはよくできていると思う。



人間と幽霊のどちらが怖い、と云うのではなく、人間と幽霊が(さまざまな意味で)切っても切り離せないこと、その交叉点、いや、境界侵犯に、恐怖がある。少なくともぼくはそこがいちばん怖いのだと思う。



だらだらしたりまた寝たりしているうちに夕方が近づく。慌ててレポートを書きはじめる。ボイスチャットでお喋りしたりしつつ、なんとか終わって提出し、この日記を書いている。



最近はひとと話すとだいたい、創作論になってしまう。書いていないワナビ――みんなは書いている、書いていないのはぼくだけだ――の語る創作論がいちばんたちが悪い。



晩御飯は冷製うどんにしようかと思っている。

2022年上半期ベスト

 これくらい単純なことがあるだろうか?

――リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』(みすず書房

 複雑に延び、繋がり、分断された露地を進んだ。

――小川哲『地図と拳』(集英社

 上半期ベストの季節がやってきました。やって来てしまいました。いままでは半期につき長篇短篇20作ずつ挙げていましたが、読書量が著しく落ちたので今回は10作ずつです。例によって例のごとく、順番は優劣を意味しません。

長篇

 中村訳がいつまでも出ないので越前訳で読んだクイーン『シャム双子の秘密』。真相を堂々と示しながら読み手を騙す手管は手品のようなのに一切の気軽さはなく、極限下のシチュエーションと痛烈な問題意識によって深遠を垣間見てしまう。逆に、パワーズ『黄金虫変奏曲』はようやく翻訳が出た。アナロジーによる接続、それ自体が主題となることで、小説は自立してしまう。これまた手品のようだけれど、やはりこちらも弩級の手品だ。パワーズを読むとパワーズを読みたくなってしまうと云うことで手に取ったオルフェオは、単に音楽がテーマと云う共通点を持つだけではなく、『黄金虫変奏曲』を裏表ひっくり返したよう。いずれにせよ、パワーズは音楽を描写しているときがいちばん良い文章を書くと思う。なんとか6月中に読み終えたガルシア゠マルケス百年の孤独。豊穣すぎる。巨大すぎる。そしてここにも大仕掛けがあって、血と土の百年を見事に閉じてしまう。凄すぎる。満州版『百年の孤独』のようでいて、実はかなり違うんじゃないかと思う小川哲『地図と拳』。これは一種の実験小説であり、調査報告だ。以前小川哲が、パワーズを評した言葉を思いだした――《たったひとりで、そして彼にしかできないやり方で、文学とそして世界と戦った》。けれどもきっと、小川哲はひとりきりではない。あなたは大河のごとく過ぎ去る半世紀を一緒に走り抜けても良いし、傍流から新たに流れを辿っても良い。その流れもいずれ、新たな大河と合流するだろう。
 やっぱりミステリって面白いなあと思わされた綾辻行人『霧越邸殺人事件』。すべてが図式に回収されてゆくことの不思議さを浮かび上がらせ、図式に回収してゆくことの危うさへと至り、これ以上はミステリがミステリでなくなるかも知れない臨界点に触れている。蜘蛛の巣のように暗合を張り巡らせた傑作。北村薫ベッキーさん〉シリーズからは、すべて入れる代わりに最終作『鷺と雪』を挙げておこう。たった一瞬の、奇跡のような触れあいのために、北村薫はこれだけのものを書き上げた。その長くも短い9つの物語には、照応するように暗合が散らされている。今期新たに読んだ作家のなかで最大の収穫が打海文三である。『ロビンソンの家』は最初の一文から最後の一文まで良くない文章がひとつもない佳品――傑作、と云う仰々しさより、そんな表現を使いたい。家と家族とその記憶を辿ると云う点でこれと通じるのが村松友視『鎌倉のおばさん』。真実を語ることは難しく、そのひとについて語るとき、誰もが虚構を語ることになる。そうして積み重なる記憶と云う言葉に、静かに身を浸すような読み心地。
 知っている名前が沢山出てきて勝手にダメージを受けたが、それはそれとして吉川徹朗『揺れうごく鳥と樹々のつながり』は題材も内容も興味深かった。鳥と植物の相互関係と研究者たちのネットワークを、あるいは、ひとつひとつはなんでもない捕食行為でも積み重なれば淘汰を発生させる進化とひとつひとつは簡単な観察でも長年続けば膨大になるデータセットを、つい重ね合わせたくなる。『黄金虫変奏曲』からの連想で読んだ沼野雄司『現代音楽史はぼく好みの内容、つまり、20世紀と云う時代と切り結ぶ芸術史。本書のおかげで『オルフェオ』も読みやすくなった。

短篇

 創作ではなくあくまで引用と云うていのボルヘス「学問の厳密さについて」。いや、本当に原本があるのか? 国と同じ大きさの地図と云う奇想に始まって、呆気なくも凄絶な結末、砂漠に散った地図のイメージで終わる寓話は、短いなかで奇想短篇に自分が求めるものを見事収めている。同じく、短い分量に尽くせるだけの仕掛けと技巧を落とし込んだパワーズ「七番目の出来事」は、思わず何度も読み返した。なんと云う手品を見せられたのか! 仕掛けの詰め込みに驚嘆した作品と云えば丸谷才一「樹影譚」もそう。私小説をメタに扱って、何重もの複雑な構造を起ち上げ、深遠へ滑り落ちてゆく。舞城王太郎「されど私の可愛い檸檬はあまり思い出したくない。何かを考えているつもりで何も考えていない主人公に、思い当たる節がたくさんあって見ていてつらい。うう。自分の進路はまだまったく決まっていません。大山誠一郎「夕暮れの屋上で」は犯人当てとして実にスマート。決して難しいものではないけれど、綺麗な構図の転換から、無二の限定条件が導き出される。連城三紀彦「観客はただ一人」は、人生と云う名の謎、人生と云う名の物語を扱った、これまで読んだ連城のなかでもかなり好きな一篇。通じていない、しかし読み手には通じているあの会話で泣きそうになる。若竹七海の〈葉村晶〉シリーズはどれも高水準ゆえに好きなものをひとつに絞れなかったのだけれど、これからは「不穏な眠り」を挙げたいと思う。徐々に高まる不穏がひとつの像を結んだとき、訪れる破局。圧倒された。《そして童話は、特に大人が読む童話は、間もなく夏休みがはじまろうというころ、物干台に立って遠くに入道雲の立ち上るのを見た時、もしくは、それまで騒ぎまわっていた子供たちがようやく寝静まって、ふと窓を開けてみたら雪が降っていた時、もしくは、春の河原をそぞろ歩いてたんぽぽを見つけ、「おい、見てごらん」と振り返ったら誰もいなかった時、もしくは、家族中のものが出払って留守番をしている秋の夜、台所の隅でこおろぎの鳴くのを聞いた時、それぞれの場所でページをくって見るのがいいのである。》――長い引用になったが、序文でこう語る別役実の寓話は、どこか淋しさがつきまとう。「淋しいおさかな」は、そのなかでもとりわけ淋しい一篇。6月~7月は小川哲ラッシュ。長篇と云って良い分量を雑誌に一挙掲載した「君のクイズ」は『スラムドッグ$ミリオネア』を二重螺旋――ただ重ねているだけではない、くらいの意味――にしたような構成で、競技クイズを通して知識と記憶、人生を語ってみせる。構成の妙と仕掛けの冴え、題材の深掘り。どれを取っても巧み。刺戟的な表象文化論でおなじみ高山宏「殺す・集める・読む」は、あっと驚くミステリ語り。ミステリーズに送った「象と絞首刑」の元ネタのひとつです。

 以上、20タイトルでした。けっこういろいろ読んでたな。