鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2023/07/30 米澤穂信『可燃物』

「仕方がありません。それが、私とあの子が払う代償というものでしょう」 ストイックな短篇集だ。定規やコンパスで作図された幾何学模様を思わせる。謎があって、解決がある。その抽象的な運動のために、ぎこちないほどに淡々とした文章と、警察小説の体裁が…

創作「アレフ三世の天球儀」

2年ほど前に書いた掌篇。 カモガワ奇想短編グランプリに応募できるな、と思って抽斗から引っ張り出してきたけれど、《紙媒体の書籍ないしは同人誌に掲載されたものは投稿不可》と云うレギュレーションに気付いて、とは云え引っ込めるのもあれだし、お祭りの…

壁と言葉、あるいは日々を生きることについて

パリと聞いて、何を思い浮かべるだろう。凱旋門。エッフェル塔。セーヌ川。ぼくは曲がりなりにもミステリファンなので、パリと云えば矢吹駆を思い出す。アパートではなくアパルトマン。アリバイではなくアリビ。ニューヨークやロンドンは小説で読み慣れてい…

創作「わたしは悲しかった」

祖父と云うものを理解したとき、祖父はもうベッドのなかにいた。朝起きてから夜眠るときまで、祖父はずっとそこから動かなかった。スプリングのしなやかに弾むマットレスのうえに身を横たえて、日がな一日テレビを見ていた。動かせるのは右肩くらいで、それ…

2023年上半期ベスト

私はにせものだ。私が何をやっても世界は変わらない。でも、私は遠いところからこの電動ベッドの枕元までやって来て、あなたの話し相手となり、あなたの心を変える。――リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』 久しぶりに会った先輩と、なぜ小説を読むの…

壁の向こうの住人

しばらく前のことだ。実家に帰ると、隣家とのあいだに壁が建っていた。スチール製の薄い板を縦に設えただけの簡素な造りだったけれど、背は二メートルあってそうそう乗り越えることはできず、視線を交わすこともできない、明確な拒絶の意志を感じさせる壁だ…

創作「64/6/24,美術館裏」

内容はすべてフィクションです。 一九六四年に京都国立近代美術館(当時はまだ、正確には国立近代美術館京都分館)で開かれた第二回《現代芸術の状況》展には、多くの画家や彫刻家と混じってふたりだけ写真家が採られている。一見して場違いな選出はしかし当…

読書日記:2023/06/19 ティム・インゴルド『生きていること』

行き先の定まったプロセスであるという目的論的な見解に代えて、行き先が絶えず更新されていく宙に投げ出された流転として、生きることの可能性を新たに捉えなおすことはできないだろうか。生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることは出発地と…

断片を3つ

書きつづけることは難しい。 一、二、三。少年は声を出さずに数える。よん、ごう、ろく。ゆっくりと、同じテンポで、数字が数字であることさえ意識しないまま――なな、はち、きゅう。どうして数字に名前がついているのだろう、と考える。どうして一の次が二と…

「逃げてゆく瞬間」:『玩具の棺』Vol.6

「ぼくはずっと、本当の瞬間を逃しつづけてきた」 写真家の篠田は、すっかりデジタルカメラに転向して以来、久しぶりにフィルムを現像していた。彼女が撮った写真ではない。学生時代の友人――久世の遺品として、預かったフィルムだ。久世は彼女にカメラを教え…

言葉だけが最後に残る

一つひとつの行為を通して、我々は自分の伝記を書く。私が下す決断一つひとつが、それ自体のために下されるだけでなく、私のような人間がこういう場合どのような道を選びそうかを、私自身や他人に示すために下されるのでもあるのだ。過去の自分のすべての決…

読書日記:2023/03/03 北山猛邦『オルゴーリェンヌ』

0. ミステリ・フロンティアで刊行された直後に読んで以来だから8年ぶりの再読になる。そのあいだずっと好きな小説ではあったが、しかしオールタイムベストとして挙げるには自分のなかに呑み込めていない感がずっとあった。一度すれ違っただけのあのひと、同…

読書日記:2022/02/14 リディア・デイヴィス『分解する』

いずれその痛みを目の先一メートルの箱の中に入ったもののように見るときが来るのだろう、どこかのショウウィンドウごしに、蓋の開いた箱の中に入ったものを見るように見るときが。それは金属の塊のように冷たく硬い。君はそれを見て、そして言う、よし、こ…

読書日記:2023/01/31 ドン・デリーロ『ホワイトノイズ』

「もしも死が音だとしたら?」「電子的な雑音だな」「ずっと聞こえ続けるの。そこら中で音がする。なんて恐ろしいの」「恒常的で、白い」 死とは、少なくとも現代において、物語の結末のように訪れる決定的な一点ではなく、終わりのないかたちでだらだらとそ…

読書日記:2023/01/08 笠井潔『哲学者の密室』

「二十世紀の探偵小説の被害者は、第一次大戦で山をなした無名の死者とは、対極的な死を死ぬように設定されている。ようするに、彼は二重に選ばれた死者、特権的な死者なんです。精緻なトリックを考案して殺人計画を遂行する虚構の犯人と、完璧な論理を武器…

舞踏会へ向かう/から伸びる幾つかの道

次に、椅子に座って、きみの背骨にあたる椅子の背を感じてみよう。それに室内の音を意識してみる。そうすることで、心に変化が生まれ、メンタル・モデルが変化するあいだも、きみはこの本を読み、文章を見ている。これらの文章は、紙に載った単なるインクに…

「我々は前向きに思い出す」

何も急ぐことはありません。生長を待たなくてはなりません。じっくり育ってゆかせなくてはなりません。やがていつかその時が来たら、立派な作品ができるというのなら、それに越したことはありません。 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために…

2022年下半期ベスト

どの一瞬にも、歴史が傍らをよぎってゆく音が静かに鳴り響いている。今福龍太『原写真論』 ひと息のあいまで無為に過ぎていったようにも、目まぐるしく変転したようにも思われる半年でした。昨日と今日で何かがすっかり変わってしまっているのに、それを知っ…

読書日記:2022/12/15 ジェフリー・ディーヴァー『魔術師』

中世的でありながら未来的なパレードは、催眠薬のようだった。そのメッセージは誤解のしようがなかった――テントの外に存在するものは、ここでは価値を持たない。人生について、人間の性質について、そして物理の法則について学んできたことは、すべて忘れる…

読書日記:2022/12/12 ケネス・ブラウワー『宇宙船とカヌー』

手すり際に立ち、フィヨルドの壁が通り過ぎていくのを眺めながら、私はフリーマンの言ったことを考えていた。もしダイソンの性癖がふたたび一世代飛び越えて出てきたらどうだろう? 宇宙船は、誰かこの森のなかで育った者によってつくられることになるのかも…

読書日記:2022/12/05 リチャード・パワーズ『惑う星』

森の中で何かが呼んだ。それは鳥の声でも、私が聞き覚えのある獣の声でもなかった。その声は闇を貫き、大きな川の音をものともせず響き渡った。苦痛なのか喜びなのか、何かを悲しんでいるのか祝っているのか、わからなかった。ロビンはぎくりとして私の腕を…

読書日記:2022/12/01 米澤穂信『栞と嘘の季節』

僕はあまり、そうは思わない。誰でも少しずつ嘘をつくのだから、ひとしずくでも嘘が混じればすべてが嘘と考えていたら、この世のすべては嘘になる。そんなことは松倉だって……いや、松倉の方が僕よりもよくわかっているはずなのだから、結局僕たちは、同じも…

「オブスクラ」:『蒼鴉城』第48号

京都大学推理小説研究会の機関誌『蒼鴉城』の第48号が完成しました。モノクロのデザインにだまし絵のようなイラストがいままでになくクール。ぼくは会員として校正を手伝っています。逆に云えばそれ以外は主として後輩諸氏が編集をがんばってくれています。…

ここから先は何もない:映画『すずめの戸締まり』について

「モーリス、モーリス、どうか希望を捨てないで」 ――グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫epi) これはフィクションだ。そのつもりで。 昔の話だ。まだきみが科学少年の、ついに孵化することのない卵でしかなかった頃、家族とどこか…

読書日記:2022/11/06 沢木耕太郎『天路の旅人』

地図も磁石も持たない旅では、人に訊くより仕方がない。そして、それを信じるしかない。 沢木耕太郎はもう無名ではない。彼は防衛大学校の前で体当たりの取材を繰り返す何者でもない男ではないし、身体ひとつでユーラシアを横断する無鉄砲な若者でもない*1。…

読書日記:2022/11/03 井上荒野『小説家の一日』

これも夫が言った通り、子供ではなく母親の視点で書いた。自分自身からは離れるように書いていったが、離れようとすればするほど、近づいてくるものがあるようだった。どのみち完成しないのだからと妙に思い切りがよくなって、自分のことを書こうと思うと、…

読書日記:2022/10/27 カイ・T・エリクソン『そこにすべてがあった』

1972年2月26日、アパラチアの山中バッファロー・クリークで発生した大規模な洪水は125名の人命を奪い、流域の家々を、そこに生きる人びとの暮らしを押し流した。そこでなにが失われたのか。本書は被災者たちが負った心の傷を調査し、社会学的に論じた研究書…

ジキルとハイド

いろいろと思い出したことなどを、断片的に。 先日、Fridays For Future Kyotoによる気候変動についての交流会に参加した。久しぶりにひとと会う活動をしたので足を動かしただけでもう気力が残って折らず、後半のマーチには参加しなかったけれども、交流会に…

創作「ある偽作者」

去年、短篇競作に書いたもの。読み返したら悪くないなと思ったので、若干手を加えて公開する。 わたしは彼をなんと呼べば良いのかわからなかった。わたしが彼を呼ぶ声、はじめて彼を呼んだそのときの声は、だから自信なく、よろめいて響いたと思う。しがつ、…

創作「学問の厳密さについて」

書いた掌篇の出来に多少の自信があるときだけブログに公開するならば、ますます何も出さなくなるだろう。自信があるかどうかは問題ではない。うまく書けるかどうかは重要ではない。書き続けること。これだ。 機関誌の掌篇競作のために書いた。字数制限は1600…