鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

殺された神と、過ぎ去りゆくもの:天城一「高天原の犯罪」

 

 (以下、天城一高天原の犯罪」の真相に触れています)

 

「わかってないのさ。君は、わかってないのか、忘れようとしているのさ。大戦争をボッ始めた張本人の一味だとゆうことを、物見事にゴマ化そうとしているんだよ。南京とマニラの虐殺の責任をチョロまかそうとしているんだよ。三年前には『神国』に住んでいたくせに千万年も前から『民主国』に住んでいたような顔をしようとゆうのさ。戦争と虐殺の一切の責任を、うまいこと巣鴨の連中に転嫁して、この俺の手だけは清潔だといいたいのさ。(…)」

――「高天原の犯罪」284頁*1

 「高天原の犯罪」が密室ミステリの古典にして傑作であることはかなりの賛同を得られるだろうが、これにもしケチを付けるとすれば、犯人の降り方についてだろう。現人神たる教祖は誰にも見られることがない――見ることが許されない――から、神を畏れずその後ろをついて行けば、神と同じく誰にも見られることなく拝殿へ登ることが出来る。そこまでは良い。だが、神を殺した後、犯人はどうやって誰にも見られることなく降りたのか? 作中で名探偵・摩耶正は、犯人たる巫女が詔を持って降りることで、神と等しい存在となったのだと説明している。理屈は成立していなくもないが、登り方の鮮烈な発想に比べれば、あるいは、巫女と云う立場を利用した「ユダの告発」の巧みな計画に比べれば、片手落ちをなんとかごまかしたと云う印象が否めない。竜頭蛇尾だ。画竜点睛を欠く、とも云えるか。

 この欠点はどうしようもないと云う考えもあるだろう。上ったからには降りなければならないが、上ったときの手段はもう使えない。以下に策を弄して降りようとも、登り方を超えられるとは思われない。そんな些事などどうでもいい、この上り方の提示を以て、「高天原の犯罪」は歴史に残るべきなのだ、と。

 本当に?

 考えてみよう。上ったからには降りなければならないが上ったときの手段がもう使えないのは、見えない――見てはならない――存在である神がもういないからである。なんの細工も要らずに誰にも見られることなく自由に移動できるのは神だけだ。降り方の問題はここに起因する。ならば、解決策は一つしかない。神が殺せば良い。

 実を云うと、見てはならないから誰にも見られなかった、と云うトリックは「高天原の犯罪」以後も流用されている*2。これら「高天原」以後と、「高天原の犯罪」との違いは、神が殺しているのか、神が殺されているのか、の違いだ。神が殺せば、現場への出入りはまったく自由だ。わざわざ詔などを持ち出す必要はない。容疑者として登場させづらくなることは間違いないが、主眼は見てはならないから見えないと云うロジックなのだから、やりようはいくらでもある。

 天城一がこれに気付いていたかどうかは分からない。しかし、神は見てはならないと云う論理から始まり、他の摩耶正シリーズのように、謎と解明以外の全てを削り落としたかのような構成をもって「高天原の犯罪」を書こうとすれば、神が殺せば良いと云うことには思い至りそうなものだ。

 だからここでは、天城一は(自覚的であったにせよそうでないにせよ)あえてそうしなかったと考えてみたい。「高天原の犯罪」では、神は殺人者でなく、被害者でなければならなかったのだと。

 「高天原の犯罪」における、神は見てはならない、と云う論理がミステリのトリックたり得るのは、それを読む者たちにとってこの論理は忘れられたものだからだ。かつて、人間にして神である者が実在していた時代であれば、これはトリックではなかった――つまり、読者にとっては決して思い至らない論理と云うわけではなかっただろう。少なくとも、これがトリックになると考えられた背景には、天皇が神であった時代の終りがある。それは、この文章の冒頭で掲げた摩耶正の台詞を見れば明らかだと思う。

 逆に云えば、「高天原の犯罪」のトリックは、神亡き時代に対して向けられたものだった*3。この神亡き時代をミステリのトリックとして描くならば、殺されるのは神でなければならなかっただろう。神がいる世界で神が殺人を犯すのではなく、神がいない世界で神がいた世界から神がいなくなる世界への変貌を語る物語でなくては、それを皆が忘れている物語でなくてはならなかっただろう。そしてまた、神を殺すのは、過ぎ去りゆく神の背後にピタリと張り付いた、神ならざるものでなければならなかっただろう。

 神の背後に張り付いた殺人者を歴史の解釈と結びつけるのは容易い。神の言葉を伝える者としてひとびとを操り、果てには神を殺してしまった存在――。戦争そのものを問うことはこの文章の目的ではないが、そうした解釈をなす上で浮かび上がる、なぜ戦争が起きたのか、誰が戦争を起こしたのか、戦争とは何だったのか、戦後とはどんな時代だったのか、――これらは「高天原の犯罪」に限らず、天城一作品全体で投げかけられている問いだ。

 『風の時/狼の時』では、戦争に向かう時代の中で起こったある殺人の真相を通して、なぜ戦争が起こったのか、どうすれば戦争を止められたのか、と云う問いが投げかけられる。だが、個人が立ち向かうにはあまりにも巨大な問いと真実に、彼らは立ち尽くすしかない。

 『宿命は待つことができる』は、敗戦後すぐ、占領下の日本で、黒い霧の中をもがいたひとびとの物語だった。それから長い時を経て、あの時代の勝者と敗者が問い直され、解釈し直される。《バロネス・ベルとの戦いは、他の手段によるあの戦争の継続だったのだ》*4

 そして『沈める濤』*5だ。物語としての完成度は上の2作品にいささか劣る。だが、中盤においてなされる語りの断絶と引き継ぎは、時代を語ることの困難さと、それでも語らなければならないと云う物語の意志を感じさせる。

 この3例は長篇だが、短篇であっても、物語が戦後を意識しているのは変わらない。その鋭く切り詰められた文体で描き出されるのは、神亡き時代の風景と、神がいた時代の追想だ。それを最もミステリのトリックとして描いて見せた作品こそ「高天原の犯罪」だった。神が殺されたことを、それから大きく変貌してゆく時代を、忘れてしまったかのように、見えないかのように生きることへの告発だとも云える。

 神が目の前を通り過ぎる。ひとびとはそれを見ることができない。その後ろに神ならざる神の代弁者が張り付いていることを、それによって神が殺されたことに気付かない。天から降りてきた、神の言葉を持つと称する殺人者が神に成り代わっていることが分からない。いや、ひとびとは、分かってはならないのだ。

 そしてこれは決して、過去の物語などではない。

 あの時から半世紀近くが過ぎ去っていますが、私は恐れています、今なおかの時と同じように、人々の目の前を、明らかなるがゆえに見えないものが通り過ぎ去って行くのを、見逃してはいないでしょうか。

――『密室犯罪学教程』206頁*6

   いくら目をこらそうと、《明らかなるがゆえに見えないもの》は見えない。せわしなく移ろう時代の中で、それは目の前を通り過ぎてゆく。それが見えなかったことも、それが存在していたことも忘れられてゆくのではないか。問いは過去に取り残され、取りに行く者など誰もいない。天城一の一連の作品は、置き去りにされた過去を、ひとびとを、問いを、取りに戻ろうとしているように思える。

 「高天原の犯罪」は、敗戦から3年で書かれた。この物語が今もなおすさまじい迫力をもっているのは、単なる発想の鮮やかさや、鮮烈な文体ゆえに留まらないだろう。優れたフィクションは往々にして現実を射貫く。では、神を殺した物語が射貫くのは、何なのだろうか?

 いい加減、問いを取りに戻っても良い頃だ。

天城一の密室犯罪学教程

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島崎警部のアリバイ事件簿 (天城一傑作集 (2))

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宿命は待つことができる (天城一傑作集 (3))

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風の時/狼の時 (天城一傑作集 4)

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*1:天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)収録

*2:少なくとも自分が知っているのは、国内に2例

*3:『密室犯罪学教程』でも同様のことが語られている

*4:天城一『宿命は待つことができる』(日本評論社)、15頁

*5:天城一『風の時/狼の時』(日本評論社)収録

*6:天城一天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)収録