鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

お蔵出し的なもの、あるいは「デス博士」の書き出しについて

  年末だからと云うわけでもないが、パソコンのフォルダを整理していたら懐かしいものを見つけた。高校時代に国語の授業の課題で提出した、ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」の書き出しについてぐだぐだと述べた論考(らしきもの)だ。前回*1やたらと気張った文章を書いた結果、次はどうしようかと書きあぐねていたので、とりあえず次までのその場しのぎにはちょうど良い。ずいぶん拙い文章だが、ここで出さなければ一生公開する機会もないと思われた。

 最初の部分には若干手を入れているが、基本は、つまり、書いていることは高校時代そのままである。高校生の青さを微笑ましく見るも良し、成長がないと嗤うも良し。まあ、前置き(云いわけ)はこの程度で良いだろう。それでは、以下、ご笑覧ください。

 

「デス博士の島その他の物語」の冒頭について

 Winter comes to water as well as land, through there are no leaves to fall. The waves that were a bright, hard blue yesterday under a fading sky today are green, opaque, and cold. If you are a boy not wanted in the house you walk the beach for hours, feeling the winter that has come in the night; sand blowing across your shoes, spray wetting the legs of your corduroys. You turn your back to the sea, and with the sharp end of a stick found half buried write in the wet sand Tackman Babcock.

 Then you go home, knowing that behind you the Atlantic is destroying your work.

――The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories*2

 落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい銅青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜にして訪れた冬景色の中を何時間も歩き回るだけだ。砂つぶが靴の上を飛び、しぶきがコーデュロイの裾を濡らす。きみは海に背を向ける。半分埋まっていた棒をひろい、そのとがった先っぽで湿った砂の上に名前を書く。タックマン、バブコック、と。

 それから、きみは家に帰る。うしろで大西洋が、きみの作品をこわしているのを知りながら。 

――「デス博士の島その他の物語」(伊藤典夫=訳)*3

 一見してわかるのは、本作「デス博士の島その他の物語」(以下、「本作」)は二人称現在という特殊な語りの形式を採用していることだ。若島正は『「デス博士の島その他の物語」ノート』の中で、この形式の効果を、虚構内虚構(作中作)の存在する本作において作品自体と作中作のレベルの相違をわかりやすくし、また現在形を用いて先の展開の不安定さを生み、ひいては一人称と三人称の視点を融合させることで「タッキーが眺めた世界」と「タッキーが知り得ない世界」とを区別している、と指摘する。だが、冒頭に限っては、この語りはまた別の効果も持つ。というのもここにおいて、二人称現在の上に加えてもう一つ、仮定法という技巧が使われているからだ。

 まず書き出しは「落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい銅青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。」という人称の定かでない二文だ。しかし次に続く一文では「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜にして訪れた冬景色の中を何時間も歩き回るだけだ。」と、二人称であることが明かされ、何者かが「きみ」に語り掛けている構図が出来上がる。

 ここで注目してもらいたいのは「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら」という部分。この「もし」とは何だろうか。作中での「きみ」は、読み進めていけばタックマン・バブコックという少年だと判明する。だのに「もし」と仮定しているのは、読み手に「「きみ」がタックマン・バブコック(その時点で名前は知らされていないので、ここではすなわち物語の中の特定の登場人物のこと)ではない可能性がある」ことを示すために他ならない。

 そもそも、読み手は物語のモノローグでいきなり「きみ」と呼びかけられれば、それが物語であることを束の間忘れ、あたかも自分に宛てられた手紙のように「きみ=読み手自身」と錯覚する。「きみ」と呼びかけられる対象と読み手自身を重ねることで臨場感・親近感を増させるのは語りの技術のひとつだ。

 もちろん、本作は書き出しの(読み手にとっては全く知らない)風景の描写によって、これが読み手への手紙などではないことを予め示しているのだが、まだ読み始めたばかりの読み手の脳はそれでも簡単に錯覚する。そののちすぐそれは錯覚だと、再び読み手にとっては未知の描写を重ねることで明らかにするものの、たった一瞬だけでも読み手を錯覚させるすなわち読み手が錯覚する、それだけでこの「もし」の役割は充分と云えよう。そのたった一瞬のうちに読み手は本作に自らをずれこませる。それは物語という虚構と、読み手という現実との距離がゼロとなり、重なる瞬間である。この一瞬に覚えさせる錯覚が、のちに展開される、タッキーが作中作にのめり込み逃避するという構図への伏線となる。さらには、結末における「デス博士の島―それを読みながら現実で体験するタッキー―それらを読む読み手」というある意味当たり前な三重構造を物語の仕掛けとして読み手に強く意識させる布石まで打たれているのだ。

 本作の収録された短篇集一冊をとっても、あるいは代表作たる『ケルベロス第五の首』を見てもわかることだが、ジーン・ウルフは物語を物語るという行為それ自体に仕掛けを施し、テーマを込める。本作の冒頭にさり気なく挟まれた「もし」「If」という一単語には、そんな彼の卓越した技巧と、作家としての姿勢が端的に表れている。

  しかし、本作の冒頭に仕掛けられた技巧はそれだけではない。最前は流した描写、この映像的な文章も、見逃せないウルフの特長である。文章による描写をカメラワークのように喩えるならば、本作のカメラがまずとらえるのはセトラーズ島から見える海であり、そこに訪れ、そしてセトラーズ島へも訪れる冬だ。銅青色から緑色に移ろう海の色は、当然のことだが近くから見れば大した違いは無いはずであり、この色の違いを示すことで、読み手の視点を浜辺から、海の遠くまで見渡す大きな景色へと向ける。そこから少年がひとり浜辺を歩き回る姿へと焦点を移すことで、単に「家でかまってもらえない」という言葉だけでは伝えられない少年の孤独と寂しさが巧みにこの壮大な景色の一点へと描き出されている。

 而して、カメラは次に少年の靴という小さな対象へと視線を向ける。その直前で、読み手と「きみ」との距離が縮まっていることを思い出してほしい。カメラは「きみ」であるところの少年の視点と一致している。そこでの、この「靴」の、「コーデュロイ」の描写なのだ。少年の視線はすぐそこの雄大な(けれども寂しい)景色から、下へと向き、彼の眼は伏せられた。ここにも少年の寂しい気持ちが読み取れるのである。

 もちろん、そこまで考えながら読み手は本作を読みはしないだろう。だが、この冒頭を読みながら確実にその頭の中で、大きな景色を歩き回る孤独で伏し目がちな少年を想像するに違いない。映像的でありながら、同時に、映像によってすべてを描くのとは違う、「想像すること」の面白味も含ませて、ウルフはたったひと段落で少年のどうしようもない孤独に読み手を共感させてしまったのだ。

 さて次に、少年は海に背を向ける。ここでも詳しく書かれていないものの、彼が家へ帰るないし海を離れようとしているのは明らかだ。壮大な景色に背を向ける彼の背中はやはり寂しい。

 ところが、彼はすぐには海を離れず、手近な棒切れを拾う。この棒の描写も巧い。広がる浜辺で一本刺さっている棒は、少年と同様に寂し気である。引き抜いたその先端は水に濡れている。飛沫の散るあたりを歩いているのだから砂が濡れているのは当然であるが、ここで少年の歩く浜辺が、刺した棒が濡れるほどに水気があることを、読み手にはっきりと明かす、そうすることで、彼の一歩一歩が濡れた重い砂に踏みしめられるその様を想像させるのだ。これは想像の行き過ぎだろうか? だが、ウルフの描写にはそこまでイマジネーションを喚起させるだけの力がある。

 拾った棒で少年が砂浜に書くのは自分の名前だ(ここで前段落において指摘した、砂が濡れているという事実がしっかりと描かれているのを見逃してはいけない)。そこではじめて少年の名前が明かされる。注意したいのは、伊藤典夫訳では「名前」と書いているものの、原文では彼の書くのが「名前」であるとは明言していないことだろう。しかしそれが名前であることは明らかなわけで、無駄な言葉を限りなく削いでいるウルフの描写の姿勢がここにもよく表れている。

 そう、ウルフは無駄な言葉を用いない。逆に云えば、書かれた言葉には何かしらの意味が込められているのであり、全てが読み手の想像を刺激する。それは右のように精読してきた通りだ。

 もっと云えば、ジーン・ウルフは読み手に全幅の信頼を置いているのだ。それは決して書き手としての怠慢ではない。ここまで書けば読み手は自分で想像し補完してくれるだろうというその信頼が、無駄のないシャープな文体と、映像的な描写を可能にしている。

機会があるならば、ウルフ作品の中でも屈指の書き出しで始まる短篇「風来」*4、あるいは言葉一つ一つに神経を注いだ美しき掌篇「列車に乗って」*5とも読み比べてみてほしい。最低限の描写で広い奥行きを生み出す、しかも本作とは異なった文体でそれをおこなってしまう卓越した手腕をわかっていただけると思う。

 さて、最後に、「きみ」すなわち少年タックマン・バブコックは、家路につく。この一段落が憎らしいほど巧みで、思わず情緒を揺さぶられる。浜辺に名前を書くというひとり遊びは彼を慰めてくれなかった。大西洋の波が自分の名前(すなわちそれは無意識下ではあれど自分自身の分身でもあるのだろう)が壊している。けれど彼は、顧みることなく、誰も自分をかまってくれない家へと帰る。少年は家を捨てることは出来ない、帰ることしか出来ないのだ。哀しい現実からは逃れられない、それは本作のテーマのひとつでもある。

 家路を往く彼の孤独な姿、その行方を追うためには、我々もここに留まるのではなく、ページをめくって物語を読み進めなければならない。結末へと足を踏み出すしかないのだ。

(了)

 

 以上、お粗末様でした。

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*1:殺された神と、過ぎ去りゆくもの――天城一「高天原の犯罪」 - 鷲はいまどこを飛ぶか

*2:The Best of Gene Wolfe: A Definitive Retrospective of His Finest Short Fiction (Tor Books)収録

*3:『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)収録

*4:『〈S‐Fマガジン〉2010年1月号』(早川書房)収録

*5:若島正=編『ベスト・ストーリーズⅡ』(早川書房)収録