鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

POSシステム上から消失した「銘」:銘宮「黄金の降る場所で」

 円堂都司昭「POSシステム上に出現した「J」」*1は、全てをバーコードによって特定していくシステムに危ういほどその身を近付けつつも最後には否定をぶつけるものとしての本格ミステリ像を語る、刺激的な評論だった。ここで例示されているのは90年代に現れた清涼院流水の〈JDC〉シリーズだ。登場する探偵たちそれぞれに特殊な設定を与え、それらを羅列して配列し、管理をおこない、個々を特定する――しかし作中でその個々の設定が活かされることはあまりない――そのような作中のシステム、語り方に円堂はPOSシステム的支配の構造を見出す。そこから本格コードvs.バーコードの戦いを論じていくわけだが、この読解を見ながら自分の脳裏に浮かんでいた名は清涼院ではなかった。

 それは、〈東方project〉の名前である。

 

東方project〉(以下、東方)は上海アリス幻樂団による弾幕STGである。清涼院と同じく90年代に始まりを持つ*2このゲームは、N次創作が枝分かれと統合を繰り返した果てにいまや全体像を把握できないほどにまで巨大化しているが、ゲーム本篇における能力者たちの扱いは実にPOSシステム的だ。

 東方においては、キャラクターのほとんどに能力や特殊な設定が与えられるものの、それらは決して頻繁に作中で明確な意味を持って活躍することはなく、物語を形作るものと云うよりはキャラクターたちを特定するシステムとして機能している。このキャラクターはこの能力を持っていて、このような設定を持っていて、と割り振られた属性を同定しながら、プレイヤーたちはキャラクターひとりひとりを把握していく。

 だが、能力や設定がこのPOSシステム的支配に留まるのはあくまで原作に限っての話だ。東方の本領と云って過言ではないのは、そこから展開される無数の二次創作である。それらの多くが、新たな物語を語るための手がかり、足がかりとして、作中では活用されない能力や設定を拾い上げていく。逆に、能力や設定を回収されない伏線と見なして回収しようとした結果、新たな物語が語られる場合もあるだろう。いずれにせよ、東方二次創作では、キャラクターたちが原作のPOSシステム的支配から解放されているのだ。

 こうした二次創作による解放を歓迎してか、からかってか、原作側は新作を出すごとに新しい要素でキャラクターたちを翻弄し、不意打ちのように新設定を開示して、さらにもう一方の手では考察を煽る謎を残す。これに二次創作者たちは新たな二次創作によって応える――。そこに成立しているのは、火花散る危うい闘争ではなく、その危うささえ楽しみとして振る舞ってしまう、どこか甘美な共犯関係だ。両者は分かりやすい対立構造を崩し、単なる主従を超えて、東方なる巨大なコンテンツを今日も拡大し続けている*3

 ただ、ここではその展望を詳しく語るつもりはない。自分が本稿で眺めたいのはもっと具体的ないち作品――以上のような、東方とPOSシステム的支配の関係をユニークな形で照らし出す、銘宮(風切羽)によるミステリ短篇「黄金の降る場所で」だ。

 以下、ネタバラシにはなるべく配慮するが、作品自体はpixivに公開されているので、可能であればそちらをまずお読みになっていただきたい。(なんなら、それで満足すれば以下は読まずとも構わない)

 

www.pixiv.net

 

 ある日、天狗たちにもたらされた告発。上白沢慧音が誰かを殺したと云うのだ。しかも彼女は、被害者が幻想郷で生きていた歴史すら消してしまったのだと云う。彼女は誰を殺したのか、そして、幻想郷から何が失われてしまったのか――。

「黄金の降る場所で」の魅力を説明することは難しい。そもそも魅力なるものを語ることが難しい、と云う議論はさておくとしても、いわゆる伝統的なフーダニットとは異なる問題提起をおこない、これまたフーダニットとは一線を画す解決へとなだれ込み、また同時にれっきとした東方二次創作であるこの物語は、それぞれの要素が類を見ないものでありながら高い完成度をもって成立してしまっているため、その面白さを語ろうとするとどうしても漠然としたものとなるか、無理に要素を取り出したものになりかねない。「すごい」と何とか言葉を絞り出しても、それはこの物語が持つ独自性に比べれば泣きたくなるくらい陳腐な表現だ。「黄金の降る場所で」に限らず、これは銘宮作品の多くに共通するもどかしさだが、とりわけこの物語はその完成度だけに物語を解体して評論することが容易ではない。

 本稿冒頭でわざわざPOSシステムなどと云う一見奇妙な視点を持ちだしたのは、だからこのような斜め後ろの観点からならもう少し深くに切り込めないだろうかと云う目論見だったのだ。まるで見当違いかも知れない、だが思いついたのだから仕方がない、やってみよう。

 

「黄金の降る場所で」でまず目に付く特徴は、指名すべきキャラクターが、作中で一度も登場していないことだ。名前が言及されないだけでなく――なぜならその文字すら失われているから――その存在自体が、物語から抹消されている。問題の設定上当たり前だが、このような問題を二次創作以外のミステリでおこなう方法はおよそ思いつかない。読み手の中に予めキャラクターのリストがあるからこそ、作中で一切言及しないキャラクターを指摘することができるわけだ。

 だが、このキャラクターのリストとは何だろうか。東方二次創作に多少なりとも触れてみれば分かるとおり、作品によって――時には原作同士でも――キャラクターの造形・解釈は異なっている。例えば「黄金の降る場所で」では射命丸と犬走の関係は決して悪いものではないが、別の二次創作ならば、どちらか一方がもう一方を完全に嫌っているものもあろうし、また、ふたりが友人以上の親愛をもって付き合っていることもあるだろう。読み手は、それらの異なる《あやもみ》像をひとつに統合することはできないが、その一方で同姓同名なだけの異なるキャラクターとも思わない。だとすれば、たとえ造形や解釈が異なっていようが、それらが同じ射命丸文であり犬走椛であると見なすために参照するプレーンなキャラクターのリストが、読み手の中に存在しているはずだ。

 このリストは、読み手の好み、解釈が反映されているとしても、おそらくその大部分に、キャラクターの名前と能力、基本設定が書き連ねられていることだろう。であればそれはキャラクターの集合と云うよりも彼女らを特定するための機関であり、この特定システムがPOSシステム的支配であると云うことは上でも述べた。「黄金の降る場所で」は、読み手が東方のキャラクターに対しておこなっているPOSシステム的支配へミステリの手続きの一部――指摘するべき解の範囲の指定――をすっかり委託することで、物語の完全な外側から真実を持ってくると云うアクロバットを成し遂げた。

 もちろん、このような試みは銘宮作品に限らず東方二次創作、あるいは二次創作ミステリ全体に見られるものだろう。「黄金の降る場所で」の独自性は、こうした読み手のPOSシステム的支配を利用しながら、その上で、物語自体が独自のPOSシステム的支配を提示する点にある。

 作中において、上白沢慧音の能力は《阿迦奢年代記への干渉》と説明される。ある過去を認識するために参照する歴史、それが参照している歴史が参照している歴史――と、遡っていった果てに辿り着く、究極の情報源。彼女はそれを書き換えることで、それを参照元とする歴史の一切を改竄する。まるで、ワンクリックで情報を一新するPOSシステムのように。この能力は、実際に経験したことによる歴史認識には作用しないが、「黄金の降る場所で」では被害者があまりに古くから存在していたものであるがゆえに、そのような抜け道も塞がれている。これはミステリの構造のみに絞れば解答の範囲を絞るヒントだが、読み手がそれを知って感じるのはむしろ、阿迦奢年代記によるPOSシステム的支配のもと、世界の全てが書き換えられてしまった衝撃と絶望だろう。上白沢慧音が殺したのは単なる個人ではない。彼女が犯したのは、世界一つを丸ごと書き換えてしまう、あまりにも大きな罪だった。

 かくして書き換えられてしまったPOSシステム的支配の中、犬走はそのほころびを集めることで、書き換えられたものを指摘してみせる。ただし、もし、上白沢慧音の能力が完璧なものであったなら、ヒントとなるほころびさえ生まれなかっただろう。「黄金の降る場所で」にケチを付けるとすれば、この能力設定の中途半端さだが、それは見方を変えれば、上白沢の世界への改竄に対する、そこで生きる人々の無自覚な抵抗の証である。はじまりに与えられる告発こそ、幻想郷外部からの干渉だったけれども、最後に指摘される犬走による解決は、こちらを把握して支配して改竄するシステムへの、支配下からの反逆なのではないかと思われてならない。

 もちろん、上白沢自身も、ヒントを――それも極めて重要なヒントを――与えてしまっていることは事実だ。大きすぎる罪を犯した彼女は、作中で誰よりも苦しんでいる。この物語において、POSシステム的支配に対する反抗があるとしても、それは上白沢慧音への反抗ではない。世界が改竄されたことを彼女しか知らない――「黄金の降る場所で」は、そうして苦悶する彼女に手を伸ばす物語でもある。

 かくして、支配のシステムを把握し返し、改竄へ反逆し、上白沢慧音に寄り添った先、ついに真相が明らかとなる。だが、その真相は決してただひとりの犯人あるいは被害者へと像を結ばない。むしろ浮かび上がるのは、POSシステム的支配とは異なるしたたかな支配の構造へのあまりにいじらしい復讐であり、その復讐へのあまりに悲しい反抗と云う、連鎖する支配と反逆の構図だ。元凶と云うべきものをひとつ指摘することも可能だが、その一点への怒りよりも、どうすれば良かったのか、と云う答えの出ない問いの虚しさと、こうなってしまったことへの苦さの方が胸に去来する。

 どうしてこうなってしまったのだろう。――ミステリはしばしば、この虚しい問いを読み手に抱かせる。どうしてこうなったのかは分かっている、しかしそれでも問わずにはいられない、どうしてこうなってしまったのか、と。なんとなれば、明らかとなった巨大な構図は、それへの驚き・畏怖と同時に、それによって押しつぶされた個人の声なき悲鳴を響かせているからだ*4

 そして本作もまたその例に漏れない。真実が明かされ、物語の全体像が浮かび上がると同時に、読み手は大いなる構図の中に押しつぶされてしまったキャラクターたちの声を、失われてしまった風景の中に聞き取ることだろう。失われたものたちが集う幻想郷から何かが失われてしまったと云う皮肉と悲劇。ここにおいてカラーページによる演出は、憎らしいほど巧く決まっている。

 加えて、演出の点でも、構図の中の要素としても、ラストの台詞を見逃すことはできない。このひと言は、まさしくフィニッシングストロークと呼ぶべき最後の一撃を読み手に与えるが、この衝撃をもたらしているのもまた、世界を支配して改竄するシステムの徹底ぶりであり、それによってある決定的なものまでもが失われてしまったことの開示であり、何より、そこまで考え抜いていたのかと云う作者による支配への畏怖である。作者の緻密な計算に、ただでさえ目の前の風景に圧倒されている読み手はしたたかに打ち付けられる。

 銘宮作品の特徴として、特殊な設定・設問からミステリを描きながら、最後にはまごう事なき東方二次創作として着地させることが挙げられるが、本作はそのフィニッシングストロークをもって完璧な詰めを最後に打って見せた。この一手が、冒頭で触れた甘美な共犯関係を完成させるのだ。

 POSシステム的支配を利用し、揺さぶり、反逆し、そして最後には、キャラクターたちをそうした支配から解き放つ。「黄金の降る場所で」が成し遂げたものを思うとき、その一切が、失われたあの「銘」へと収斂する。

*1:『謎の解像度 ウェブ時代の本格ミステリ』(光文社)所収

*2:ただし『東方紅魔郷』は2000年代に入ってから

*3:個人的には、同人作品がPOSシステムの通用しない即売会と云う場所で主に流通していることが非常に面白く映るのだが、そもそも原作も同人作品である以上、あまりそのような符合を弄びすぎるのは危険だろう。しかし、同人の発展のひとつにPOSシステム的支配への反抗を見出すくらいなら出来るかも知れない

*4:この表現は巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』(講談社)からの借用