鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記2019/02/07 ダリル・グレゴリイ「二人称現在形」他

 テストが終わり、単位については人事を尽くして天命を待つ状態となったので、開放感に任せて図書館に行った。〈S-Fマガジン〉を読むためだ(京都府立図書館はごく初期を除いて、〈S-Fマガジン〉のバックナンバーが揃っている。優秀!)。読んだのは単行本未収録の翻訳短篇3本。いずれも埋もれさせておくには惜しい傑作である。

 

 まず読んだのはテッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(2011年1月号所収)。原文では3万語、邦訳は20字×20行換算で250枚の中篇、もとい、短めの長篇。雑誌で読むにはいささか長いが、一気読みしてしまう面白さがある。ただし、エンターテインメントとして読み手を楽しませるのではなく、やっていることは地味なシミュレーションに過ぎない。けれどそのシミュレーションが、とにかく読ませるのだ。

 物語の主役となるのは、《ディジエント》――仮想空間で生きる人工知能を持った生物たちと、彼らを取り巻く人間たちだ。電脳空間上のペットとして開発されたディジエントは初め、赤ん坊が成長するように発達を遂げていく。人間たちの感情移入を促し、愛でられ育てられ、市場を席巻していく。ここで他のSFなら、人間の手を離れ暴走するところまで――シンギュラリティ――駆け抜けるのかも知れないが、本作ではディジエントたちはほとんど人間の制御下に置かれる。時に手に負えなくなることもあるものの、その場合は手に負えなくなる前までリセットされてしまう。予想外の成長をおこなう一方で、彼らは人間を超えることはない。

 本作では、そうして人間の管理下で成長したAIたちの尊厳について、ひたすら問い続ける。手に負えなくなれば止めてしまえば良い、だがそれは許されることなのか? ディジエントのことを思って彼らを管理下に起き続ける、だがそれは彼らのためになっているのか? テッド・チャンはディジエントと彼らを管理する人間たちにそれらの問いを投げつけ、容赦なく揺さぶりをかける。ひとつのヴィジョンに留まることなく、様々な意見と主義と理屈をぶつかり合わせ、逃げ道を塞ぐ。あまりにも徹底しているので、読んでいるうちに作者のことが怖くなってくるほどだ。

 もちろん、ただのディスカッションなら、小説でやってもあまり面白くないだろう。この小説で展開される未来像の面白い点は、作中の現実が登場人物たちを待ってくれないところにある。ディジエントはのほほんと市場を拡げて成長することはなく、常に外部からの悪意に晒され、あるいは企業間競争の勝敗の影響を受ける。ディジエントたちが活動する仮想空間も、そこを運営する企業がなくなれば失われてしまう儚いものだ。SFは現実の一歩先をいくけれど、すぐに現実が追いつき、予想もしない形で追い抜いてしまう。テッド・チャンによるこうしたシミュレーションは、いやにリアルで意地悪だ。そして、だからこそ面白い。

 答えの出ない問いを与えられ続け、もがき続ける物語は、ついに答えを出せないまま結末へ至る。良い話風にまとめることさえしない。だがそれでも不満に思わないのは、そこまでの過程で逃げ道や解決策は潰されてしまっているからだ。答えは出ない、と云う答え。むしろ良い話風の落ちがついていたら、評価は下がってしまったことだろう。説教くさいと嫌ってしまえばそれまでだが、その問いかけをどこまでも推し進めることで傑作となった作品。

 これまでテッド・チャンの作品は短篇集あなたの人生の物語「息吹」(『SFマガジン700【海外篇】』所収)、「商人と錬金術師の門」(『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』所収)と読んできたが、本作が一番面白く読めた。

 

 ダリル・グレゴリイ「二人称現在形」(2007年1月号所収)も、意識の在り様と云う答えの出ない問いを扱っているが、こちらはあるひとりの少女に寄り添うことで、良い話として終わらせた作品。こちらの場合、良い話で終わったことで傑作になっている。もしも延々スペキュレイティヴな議論で終始すれば、ここまでの感動は与えられなかったはずだ。 

 物語の鍵を握るのは《ゼン》などと呼ばれるドラッグだ。これはドラッグにありがちな快楽を与えない代わり、摂取した者の意識と行動との間の距離を引きのばす。普通、人間は体内の働きによって何らかの行動を起こし、それとほとんど誤差なくそのような行動に至る経緯を意識する。《ゼン》は、この過程で意識を封じ込めてしまうのだ。外見上は何も変わらないが、意識は全く働いていない、そんな状態へ追いやる。記憶を失う程度ならまだマシで、もし過剰摂取してしまったら、切り離された意識が戻ってこなくなり、別人となる――この小説の語り手である《わたし》は、この事態に陥ってしまった少女だ。わたしはわたし。過去のわたしが何をしたのかは思い出せる。しかし、過去のわたしは今のわたしではない……。

 意識は、自我は、どこに在り、いかに在るのか? 考えすぎると落ち着かなくなってしまうこの問いを、「二人称現在形」は自分の形成過程で自分から切り離されてしまった少女が、自分とは違う自分をどのように受け止め、引き受けていくかと云う物語に仮託する。ただ、上でも書いたように、思索に耽ることはあっても過度に物語を抽象化することはなく、あくまでも彼女の物語として書き切ったことに本作の良さがある。周囲の世界によって規定された過去の自分と、わたしはわたしだと主張する今のわたし自身、その折り合いを付けていくことはつまり、ままならない世界でそれでもおのれの人生を引き受けていくと云うことでもある。

 作者のダリル・グレゴリイは、邦訳がこの短篇と長篇『迷宮の天使』のみ(長篇の方は未読)。もっと紹介が進んで欲しい作家だ。

 

 紹介が進んで欲しいと云えば、イアン・マクドナルドもそんな作家のひとり。新作を出せばとりあえず翻訳されるテッド・チャンに較べてしまうと、広く愛されるタイプの作家ではないものの、こちらの偏愛を誘う、独特の魅力がある。言葉を乱れ打ち、文章がもんどり打つような文体と、熱量が迸る鮮烈な作風。「ファン・ゴッホによる〈苦痛の王〉の未完の肖像」(1990年11月号所収)も、一読忘れがたい印象を残す作品だ。

 タイトルのファン・ゴッホとは、もちろんフィンセント・ファン・ゴッホのこと。物語は、画家として苦しい生活を送る彼が、遠い未来からきたと云う〈苦痛の王〉なるものから、肖像画を描くよう依頼されることで動き始める。〈苦痛の王〉によって、未来は苦痛のない世界だと云うのだが……。耳を切り落とすなど、ゴッホの狂気じみた奇行の数々は今日も知られているが、本作は歴史には語られなかった〈苦痛の王〉との出会いを挿入することで、それらを説明づけてしまう。だがその真実は、単なる狂気と説明づけた方がまだ良かったのではないかと思えるほど、傍から見るとすさまじいものだ。これが〈苦痛の王〉にとっては良いことであると云うあたり、彼は決定的に歪んでいる。彼によって支配される世界は、想像するだにおぞましい。そして、ファン・ゴッホ自身もこの歪みに対して反逆する。

 だから本作は、ゴッホと云うユニークな素材を扱った奇想SFであり、彼の狂気に説明を与えるミステリでもあり、〈苦痛の王〉による苦痛なき世界を批判するディストピアSFでもある。イアン・マクドナルドのひとつの特徴である様々なものをリミックスする描き方が、本作を無二の魅力を持った作品にしていると云えるだろう*1

 そうして様々な要素を取り込んだ物語が迎える結末は、もうこれ以外あり得ないと云うべき見事なものだ。恐ろしく、また、美しいそのラストは、フィンセント・ファン・ゴッホと云う男の鮮やかな肖像を読み手に刻みつける。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

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迷宮の天使〈上〉 (創元SF文庫)

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火星夜想曲 (ハヤカワ文庫SF)

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*1:実はそれほど作品を読めているわけでもない。私は今知ったかぶっている