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読書日記2019/02/13 アガサ・クリスティー『象は忘れない』

《回想の殺人》と云うテーマが最近気になっている。過去に起こった、記憶の中の事件を解決する形式のミステリのことで、代表的なのはアガサ・クリスティー『五匹の子豚』だろう。この形式の場合、事件は目の前に展開されることはなく、資料や証言、そして経過した長い時間を通して、徐々に浮かび上がってくる。自分が気になっているのは、この経過した時間だ。

 ミステリ、特に本格と分類される作品はよく、物語の時間を停止させる。捜査の過程で何週間か経ることもあるが、読んでいるときの感覚としてひとまとまりになっていることが多いように思う。それは、ミステリが(非常に大雑把だが)謎と解明と云う2段階の構造にまとめられてしまうからであり、云い換えれば、解決によってそれまでの物語が大きな構図の絵の中に組み込まれてしまうからだろう。ミステリの場合、読み終えて残るのは物語が経過してきた垂直方向の時間よりも、結果として示された因果関係の横方向の広がりである。*1

 もちろん、その是非を問うつもりはない。ミステリは往々にしてそう云うものではないだろうか、と云う個人的な印象に過ぎない。わざわざここでこの話をしたのは、初めに挙げた《回想の殺人》の場合、謎と解明の間が引きのばされているわけだが、こうして生まれた隙間によってミステリは何ができるだろうか、と云うことに興味を覚えたからだ。その時間を通して、事件を取り巻く状況は変化し、関係者は否応なしに人生を経ていく。記憶は薄れ、あるいは歪曲され、悲劇は過去へと流される。しかし、過去が消えてしまったわけではない――。

《回想の殺人》において、解決すると云う行為には、それまでに積み重なってきた時間だけの重みがのしかかっているはずだ。そして明かされた真実は、過ぎ去ってしまった時間の分だけ、取り返しが付かないと云う苦みをもたらす。では、解決することに何の意味があるのか?

 

 先日読んだクリスティー『象は忘れない』は、まさにこの問いを踏まえていた。『五匹の子豚』が、過ぎ去った時間と積み重ねた人生の重みを描いていたのだとすれば、こちらはそれを経た上でなぜ今、謎を解くのかと云う意味と難しさを描いたと云えるかも知れない。

 過去への探求は、推理作家のミセス・オリヴァが昼食会の席上で奇妙な問いを投げかけられたことから始まる。彼女が名付け親になった女の子・シリヤは結婚するらしいのだが、相手の母親は、シリヤの両親の死について疑問があると云うのだ。曰く、《あの娘の母親が父親を殺したんでしょうか、それとも、母親を殺したのが父親だったんでしょうか?》。シリヤの両親の死は、一応は心中として片付けられていた。どちらか一方がもう一方を銃で殺害し、その後自分を撃つことで自殺したのだ、と。けれども確かに、どちらがどちらを撃ったのかは、現場の状況や事件直前の経緯からは分からなかった。厄介な謎を押しつけられたミセス・オリヴァは、名探偵エルキュール・ポアロと共に、この事件の真実を探りはじめる。その方法とは、象のように記憶力が良い人々を訊ねて、過去へと遡ることだった――。

 物語のほとんどは、作中で《象》と表現される、事件当時のことを覚えている人々へのインタビューで占められる。とは云え彼ら彼女らの証言は決して確かなものではなく、事件そのものの掴み所の無さもあって、後半まで謎は漠然としたままだ。下手に書けば恐ろしく退屈になりそうなこのプロットを、会話や人物造形の巧さで読ませるものにしてしまうクリスティーの技量には感服してしまう。本作はかなりクリスティーの中でも後期の作品で、予め書かれていたと云う『カーテン』を除けば、ポアロものとしては実質最終作にあたるが、筆致が鈍っている印象はあまりない*2

 ただ、確かに、本作のミステリとしての仕掛けは大掛かりでも、切れ味鋭いものでもなく、規模としては短篇級のものだ。かつらや犬など、魅力的な小道具の冴えが見られるものの、構図の単純さに較べると、事件全体が複雑になってしまっているアンバランスな印象は否めない。しかし本作においては、解かれるべき核の謎が過去へと遠ざかってしまっているために、アンバランスな構造はむしろ人生の不思議な縁をも感じさせるものになっている。整理されていない、煩雑な記憶や証言を手繰るうちに辿り着く、呆気ないほどシンプルな反転。これが目の前にあったならば、なんて単純なミステリなんだ、と云う感想で終わっただろうが、本作は謎と解決の間に長い時間が挟まれているからこそ、その罪の構図が遠く現在へと残響する様を示し、簡単な真相だと切り捨てることを拒む。《過去の罪は長い影を引く》――作中で引用されるこの言葉になぞらえれば、本作はこの長い影を断ち切るための物語なのだ。

 エルキュール・ポアロはシリヤにこう忠告する。

「お掛けください、マドモアゼル。わたし自身のことについて、これだけは申しあげておきます。わたしはいったん調査に乗り出したら、最後までそれを追求します。そして事実を明らかにしますが、もし、あなたが求めているのが、いわば偽りのない真相であるならば、それを教えてあげます。しかし、あなたはただ安心したいだけかもしれない。安心と真相を知ることは別の問題です。あなたを安心させられそうな説明なら、いくらでも見つけてあげます。それでいいのですか? もしそうなら、それ以上求めるのはおよしなさい」

 ミステリでは、真実を解き明かすことが必ずしも良い結果を生むとは限らない。知らなければ良かった、と云う悲劇は少なくなく、またたいていの場合、殺人の真相とは悲劇的なものだ。今、安心を得るだけならば、わざわざ記憶を遡る必要などない。

 しかし、それでは、過去から現在へと伸びる長い影を振り払うことはできないのだ。終盤、解決を目の前にしたポアロはこうも云う。

「(…)よろしいですか、ここで必要なのは真実なのですよ。わたしは固くそう信じています。ただの想像ではないのです、推測ではないのです。(…)わたしは、いまその娘シリヤのことを考えています。気の強い娘さんで、元気があって、扱いにくいが聡明で、気だてがよく、幸福にもなれる素質を持っているし、勇気もある、それでいて、あるものを必要としている――それを必要とする人々もいるのです――真実ですよ。彼らは真実に敢然と立ち向かうことができるからです。もし人生が生きるに値するものなら、人生で誰もが持っていなければならない勇敢さで、真実に立ち向かうことができるからです。(…)」

 ポアロはこの勇敢さに応えるため、時間を遡り、記憶をかき分け、あの時、あの場所で、何が起こったのかを解き明かす。その悲劇はひとつの悪意が引き寄せたのだとも云えるし、また、あるひとを思いやった結果だったとも云える。けれどその一切が過去へと遠ざかった今、何かを責めることはただただ虚しく、事件の真相はただただ哀しい。

 こうして浮かび上がった悲劇と時間は、真実の解明によって今へとのしかかるが、しかし読後に抱く印象はどこか爽やかだ。なんとなれば、本作は単に真実を暴くだけではなく、のしかかってくる過去を受け止めた上で、未来へと向いているからだろう。行く末を見るために来し方を受け容れる。本作において、真実を解き明かすと云う行為は、かくして肯定される。

 

《回想の殺人》によって生じる、過去と現在の距離を通して、ミステリは何ができるだろうか。自分がこの問いに惹かれるのは、それを考えていった先で、ミステリが《人生》あるいは《人間》と云う存在とその謎を捉えることができるからではないか、と思う。まあ、そこまで云うと大袈裟だし、抽象化も甚だしいが、ミステリに何ができるか、と云う問いかけは、決して無駄な努力ではないと信じている。

 その点で、クリスティー作品は、今日も重要な示唆を与えてくれる。

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 
五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

*1:この段落の表現は巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』の影響を如実に受けている。影響受けすぎだろ。

*2:クリスティーを全ての年代で幅広く読めているわけではないので、あくまで表面的な印象に過ぎないけれども。