鷲はいまどこを飛ぶか

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『天気の子』以前としての『君の名は。』再考

(この記事は『天気の子』の感想をまとめるにあたってその冒頭に置こうとしていた「『君の名は。』再考」の章が肥大化したため独立させたものです。ゆえに、両作品の内容に触れています)

 

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 『天気の子』を観たあと、『君の名は。』をおよそ3年ぶりに観ましたが、極めて良く出来ている――脚本の切れが抜群であり、映像表現も美しい――と感じる一方で、改めて考えなければならない部分もあると気付きました。

 具体的には、以下の3点です。

  • 巻き込む側/巻き込まれる側
  • 瀧は何を救っているのか
  • 本当に世界は変えられたのか

 ひとつ目。『君の名は。』の後半で物語を駆動させるのは瀧です。視点もほとんど瀧が中心になっており、三葉と再会するために瀧は旅立ち、糸守を救おうと彼は奮闘し、終盤は「One more time, One more chance」ばりにどこかに何かを探し続けます。私も公開当初はこれを「ボーイミーツガールSFジュヴナイル」として気持ちよく飲み下しました。

 しかしいざ確認してみると、冒頭約30分、瀧は最低限の登場(はじめのモノローグと入れ替わり)に留まり、物語を進めているのは三葉の方であることがわかります。後半も、糸守を救うのは瀧の計画ではなく三葉による父親の説得です(変電所の爆破→偽の避難指示と云う計画はほとんど無駄に終わっています)。何より、作中では入れ替わりはいつか訪れる災厄から糸守を救うために宮水一族に与えられた特殊な能力であることが示唆されています。多少意地悪な見方をすれば、瀧は見事に古の糸守のひとびとが用意したシステムに巻き込まれ、思惑通りに糸守を救ってくれたわけです。

 平凡な少年が世界(本作では糸守と云う町ですが)の存亡をめぐるシステムに巻き込まれる――ボーイミーツガールSFジュヴナイルの典型と云っても良い構造ですが、本作の場合、瀧は実際のところ未来の出来事を過去に伝えると云う役割しか果たしておらず、前半が三葉視点で描かれていることもあり、巻き込まれる側と同じかそれ以上に巻き込む側にも重点が置かれています。そしてこの巻き込む側のシステムには全く批判的な視線が向けられていません。再び意地悪なもの云いですが、三葉と瀧は互いを思う気持ちまで含めて古の糸守のひとびとに都合良く操られたのです。

 以上の見方を踏まえると、『天気の子』は、特定の人間を犠牲にして人間にとって都合良く世界を改変しようとするこのようなシステムに反逆する物語と云えます。

 

 ふたつ目。『天気の子』では、帆高は陽菜を助けられるならば、天気なんて狂ったままで良いと云い切ります。一方で『君の名は。』では、瀧は三葉を救うにあたって糸守まで救ってみせます。この違いは何でしょうか。瀧は三葉を救いたかったのであれば、入れ替わったらすぐに隕石の被害範囲の外に出れば良かったはずです。なぜ瀧はそのような行動に出なかったのか。

(これは、そもそも『天気の子』で帆高は陽菜と世界を天秤に掛けているのか、と云う問いにも繋がるでしょう。詳細は次回です……、多分)

 瀧と帆高の人間性の違いでしょうか。では例えば瀧が、三葉か、糸守の町か、どちらかしか選べないとしたら……。おそらく三葉を取るのではないか、と云うのが、このたび再視聴した印象です。そして、三葉か世界かと云う二者択一にしていないことに、あの映画の巧妙さがあります。

 そもそも瀧の行動は奇妙にうつります。三葉と再び会うことと、糸守を救うことが何の疑いもなくイコールで結ばれている。なんとなれば、瀧にとって三葉=糸守だからです。どう云うことか。

 瀧と三葉は瀧視点から見れば(ややこしいなあ)3年前に出会っていますが、このとき瀧は三葉を認識できていませんし、3年の内に出会ったことさえ忘れています(忘却については後述)。そしてこれを除くと、瀧が三葉と対面するのは、後半の「かたわれ時」が初めて。つまり最初の入れ替わりが発生してからあの「かたわれ時」まで、ふたりは直接会うことなく、日記や顔の落書きを通して交流しているだけなのです。ふたりのやり取りはMVのようなダイジェスト形式によってさもリアルタイムにおこなわれているように描かれていますが、それは錯覚に過ぎません。であれば、ふたりは直接会っていない以上、彼らが惹かれているのは瀧/三葉本人ではなく、彼らの周囲の世界から想像される瀧/三葉の像であるはずです。例えば前半、三葉は瀧の日記を見て「マメなひと」だと評価します。三葉は瀧の身体で小野寺先輩とデートの約束を取り付けるに至りますが、そこまでしておいて、三葉が惹かれているのは瀧なのです。ここで三葉は、瀧が好きな先輩との交流を通じて、先輩のことが好きな瀧像を自分の中に形成していきます。こうして三葉は瀧への恋愛感情を抱くわけですが、同様のことが瀧にも起こっていたはずです。

 瀧が三葉の周囲の世界すなわち糸守を通じて三葉を愛するようになったのであれば、瀧にとって三葉と再会することは糸守を再訪することと同じであり、三葉を救うことは糸守を救うことと同じです。云い換えれば、瀧からすれば、三葉を救うためには糸守を救わなければなりませんでした。

 瀧は糸守を救うために奮闘しますが、彼の中ではそれは三葉を救うために奮闘することと同じです。とすると、彼は、糸守を救った結果として歴史が変わるのではないか、糸守の外側の世界に何か影響が出るのではないか、などとは考えなかったでしょう。彼は歴史を変えようとしているのではなく三葉と云うひとりの女性を救おうとしているだけなのですから。

 こうして、『君の名は。』からは『天気の子』と案外近い構造を取り出すことができます。だから両者を陰と陽のように全面的に正反対の作品として捉えるべきではないと云うのが、個人的な印象です。

(とは云え、他者を理解するときにそのひとの外部とそのひと自身との関係性からそのひとの輪郭を作ることによって内面を想像すると云う行為はわたしたちが普段おこなっていることです。『君の名は。』はその人間理解の在り方を極端にし、ひとを理解することの難しさと、それでも理解したいと願う痛切さ・尊さを端的に描いています。そして同様の、難しさ・痛切さ・尊さは『天気の子』でも見られるもので、しかし『天気の子』では陽菜=東京にはなっていない。色々理由があると思いますが、一番は、陽菜も帆高も東京から拒まれているものとして描かれているからでしょう。『君の名は。』ではイコールで結んだものをノットイコールにすると云う点で、『天気の子』は『君の名は。』の逆を打っている。ただしそれは『君の名は。』と真逆にすると云うよりは、『君の名は。』を踏まえていっそう極端化させたのだと考えます)

 

 三つ目。糸守を隕石から救うシステムを構築したのは、古の糸守のひとびとであるはずです。隕石を落とすのは神の思し召しあるいは気まぐれに過ぎず、糸守のひとびとはそれに抗って世界を変えようとした。だからこそ、「忘却」と云う防衛措置がはたらいているのです。

 『君の名は。』でおそらく最も重要な言葉は「忘却」です。「結び」も重要ですが、それは物語を駆動するにあたって大切な装置であるに過ぎません。この「結び」を通して、「大切なあのひとのことを思い出せない」と云う物語を語っているのです。だからこそ『君の名は。』なのでしょう。

 入れ替わっているときのことは、後になるとどんどん忘れていきます。現に、入れ替わりを自覚していない頃は夢でも見たのだろうと忘れていた。一日分の記憶が抜けているわけですから気付かない方がおかしいのですが、それも何らかの修正がはたらいているのでしょう。公開当初寄せられた「年がずれているのになぜ気付けない?」と云う疑問も、何らかの忘却が働いた結果だと説明できます。

 この忘却を、糸守のひとびとが仕込んでいたとは思えません。世界を変えるのに不都合だからです。この忘却はむしろ、世界を変えようとする企みに対して、世界自体が、あるいは神のようなものが施した防衛措置なのでしょう。

 改変と忘却、人間と神、その切り結びの果てに、人間側は世界を変えることに成功します。しかし、神は忘却によって、世界が変わったと云うことまでも消却していく。だとすれば、『君の名は。』は、代償なしに世界を変える物語であるどころか、世界はそう簡単には変えられないと云う物語なのではないか。

 最後、瀧と三葉は何度もすれ違った挙句ようやく出会いますが、これは糸守を救った彼らへのご褒美ではなく、世界の秩序の修正を図る超常的な何かに対して、赤く細い糸だけは何とか耐えきったと云う、世界への反逆であり、痛切な祈りの込められた結末なのではないでしょうか。

(もうひとつ。終盤の新聞記事をよく見ると、糸守のひとびとは全員救われたわけではなく、安否不明者が少なくない数出ていることが確認できます。また、三葉の父親には陰謀論が囁かれており、まるであとに起ることを知っていたかのように意見を翻した彼の置かれた立場は微妙です。故郷を失った糸守のひとびとは散り散りになり、命だけは助かったが悲惨な生活を送っているひとももちろん存在するでしょう。決して大団円ではないことには注意が必要です)

(もちろん、未曾有の災害をなかったことにする物語であることは確かです。それについては私たちひとりひとりが、それを希望を持って語るのか、絶望を滲ませて語るのか、各々で考えていく必要はあるでしょう。しかし、この物語が決して楽観的ではないこともまた事実なのです)

 何やらぼかしたもの云いになったのは、自分でもこれが『君の名は。』の真意だとは信じ切れていないからです。そもそも物語に真意などないと云うことはひとまず置くとしても、以上語ってきたことはあくまで『天気の子』以前としての『君の名は。』再考であり、『天気の子』から『君の名は。』を照射したときの印象に過ぎません。云い方を変えれば、『天気の子』は『君の名は。』に新たな視座をもたらし、その在り方を相対化する物語なのです。以上の再考と同様に、『君の名は。』以後としての『天気の子』を考えると、新たな視座が与えられるでしょう。

 

 以上見てきたように、『君の名は。』と『天気の子』は様々な点で比較対照できます。ただしこれは、両者が陰と陽の関係にあることを意味しません。「以前」「以後」と云う言葉を繰り返し使ってきたように、あくまで『天気の子』は『君の名は。』の後であり、でなければ描かれえない物語です(詳しくは次回。次に回しすぎるとあとが怖いのは重々承知していますが……)

 少なくとも、『君の名は。』と『天気の子』には3年の間があります。3年は、『君の名は。』で描かれたとおり、絶望的に遠い距離です。両者はもはや同じ地平にはありません。取り立てて比較せずとも、『天気の子』は『君の名は。』が3年前となった現在の物語であると云うことを踏まえなければ、大切なものを取りこぼしてしまいかねないでしょう。

 『天気の子』の感想を書く際、自分がそれを取りこぼさないことを祈りつつ――そもそも取りこぼすのだろうかと云う疑いは依然として存在します――この取り留めのない文章はここで終えます。 

 

君の名は。

君の名は。