鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

東京に食べられて育った:『天気の子』について、その1

(本稿は『天気の子』の内容に詳しく言及しています)

 

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 雨降りしきる灰色の東京が、はじめに映されます。

 それは雨の情緒さえ感じられず、風流などと云っていられない、じめじめとして暗い、現代における都市の雨です。広大で無機質なビル群がけぶる様は、なるほど荘厳で神秘的とも見えますが、しかしそれでもこの風景は寒々として重苦しく、明るさや爽快さ、ましてや未来への希望などありません。前向きな思いがあるとすれば、明日はせめて晴れますように、と云うささやかな祈りでしょう。

 物語の舞台は、雨の東京です。この街で少年と少女が出会い、苦難を乗り越え、結ばれる。東京で展開されるそんな物語の冒頭において、けれどもカメラはこの風景から少年か少女へズームアップすることなく、むしろ後ろへと退いていき、ようやく、窓硝子に映り込む、顔を伏せた少女の像を捉えます。ここで少女の姿と東京は重ね合わされる。加えて、少女の姿は半透明です――つまり、ここですでに、《天気の巫女》の、少女の運命は提示されている。

 しかし少女はそんなことを知る由もなく、息の詰まる病室で物憂い表情を浮かべます。ベッドに寝ているのは彼女の母親でしょうか。窓に映る東京の景色と同じく、ここにも未来への明るい希望は感じられません。あるのは、その希望を何とか見出したいと云う祈りです。

 場面に重ねられるのは、少女のものではない声によるモノローグ。物語が終わった後、世界が変わってしまった後からこの時点へと遡っておこなわれる語りに沿って、少女は光の水たまりを目指します。

 そして、強く願ってしまった。

 一瞬ののち、遙か上空、彼岸へとやって来てしまった彼女は、先ほどまで都市を塞いでいた厚い雲の上から世界を見下ろさせます。まるで、世界がその掌中に収まってしまったかのような景色です。しかしこれは逆であり、この瞬間から、世界に彼女は囚われてしまう。神と人間とを結ぶ細い糸に絡め取られる。

 かくして彼女は《天気の子》となったのです。

 

はじめに

  この冒頭だけでも見るべき箇所は多々あります。全てを知っているかのようなモノローグ。その中での、いいや、世界に変えたのだ、と云う宣言。のちにチョーカーとして陽菜の首に巻かれる、母親のブレスレット。物語の解釈に大切なそれらの要素だけでなく、ひとつひとつのシーンやその繋ぎ方も鮮やかで、この時点で映画へと没入させられます。とりわけ、タイトルが現れるその瞬間は、観る回数を重ねるほどその重みと、与える感動が増してゆく。ラストシーンとの呼応が、繰り返し観る度に強くなるのです。

 冒頭に限らず、拾っておきたいものは全篇にわたって配置されています。どこまで計算尽くなのか定かではないものの、映画がそこにある以上、それが映されている以上、考えることに損はないでしょうが、ここでは、細かな分析はやめにして、映画を観ながら感じたことを述べていくことになるでしょう。

 

 『天気の子』は、陽菜と帆高と云うふたりの物語として幕を閉じます。もちろん、須賀やら夏美やら、様々な人間が登場しますが、最後にたどり着くのは、帆高による陽菜への「僕たちは大丈夫だ」と云う力強い宣言です。彼らは、彼らが生きていく世界を選択し、肯定します。彼らはこのようにして生き、これからも生きていくのです。

 では、わたしたちは。

 この映画の恐るべき点はここです。彼らはかくして選択した。それを否定しようが肯定しようが、呪おうが言祝ごうが、彼らの人生は彼らの人生であり、彼らが「大丈夫」である以上、彼らは彼らの世界を生きていくでしょう。強靱なこの物語は、わたしたちの言葉を反射し、鏡のようにわたしたちを浮かび上がらせます。多くが語られているようで居て肝心な部分を明言しない、曖昧な描写の積み重ねからわたしたちは選び取っていき構成して、解釈し、論じますが、帆高と陽菜の人生は厳然としてそこに存在し、ただわたしたちの言説だけが、彼らとの間、スクリーンに並べ立てられていく。

 それを絶望的なことだとは思いません。そもそもこれは『天気の子』に限ったことでもない。しかし、この映画で描かれる「いま、ここ」は、強くわたしたちの「いま、ここ」を想起させ、とりわけ意識的に「では、わたしたちは」と考えさせるのです。

 ゆえに、この映画の感想は、この映画がどのようなものか、と云うよりは、この映画をわたしはどのように見たか、と云うものとなります。予めご了承ください。

 ミクロな視点からの精緻な分析や、マクロな視点からの正確な把握はひとに任せます。そもそも、両者をおこなうにはもう少し、時間を待たなければならないでしょう。

 

 それでは、やっていきます。全3回予定。

 (自分なりに格好良い感じで切り出しましたが、実のところこの文章を書いている時点でこれからの目処は立っていません。まあ、後はどうにかなるさと肩でも組んでいます。)

 

東京に食べられながら

 東京ってこえー。

 序盤、家出少年の口から繰り返し呟かれるこの言葉が、綺麗ではない、ごみごみとして、ひとの悪意が交錯する、あるいはひとの無関心が横溢する街を端的に集約しています。理想と現実、想定と実際とのギャップに戸惑い、それでもまだ前を向いていて、絶望しきっているわけではなく、東京に染まってもいない来訪者としての素朴な実感。

 実在の固有名詞に溢れて描写される「いま」の東京は、最初から最後まで、少年に不親切です。なんとなれば、彼は家出少年と云う、現代では社会の枠組みから外れていると見なされる存在だからであり、社会のルールに反しているがゆえに都市から除け者にされるのは後半の陽菜たちも同様。帆高を受け容れてくれる須賀と云う大人も、彼は「健全な社会」からは少し外れてしまっている存在だからこそ受け容れるのであって――彼もまた、過去に東京と云う街へとひとり分け入っていった少年だったのです――須賀と云うひとりの人間から「帆高の保護者」と云う役割を演じることになると、枠とルールに取り込まれ、少年を排除ないし制御しようとします。

 一方で、東京は社会の境界上にあるものを取り込んでいきもします。中学生と小学生の姉弟は施設によって救おうとし姉弟はバラバラにされるかも知れませんが、見方によってはそちらの方が遙かに安全であり健全であり姉弟のためにもなるでしょう)、モラトリアムを引きのばしていた女子大生はおべんちゃらを使わせながらも就活させる。年齢を偽っている少女が身体を売ることによって金を稼げると云うのも(実際は怪しいでしょうが)社会へ取り込むシステムのひとつと云えるかも知れません。そして帆高は、須賀と云う境界上の存在に受け容れられることで、徐々に東京と親しんでいきます。

 東京は怖い。東京はすごい。東京は恐ろしい。しかし、息苦しさを抱えて生きていた少年を受け容れるのもまた東京でした。

 少年は東京に呑まれながら息苦しさを解消してゆきます。少女は一度は東京に踏み潰され掛かりますが、少年の手に導かれ、東京のひとびとのために祈ることで、おのれの役割を知り(知ったと考え)、自分を肯定します。こうしてふたりは東京の中で生き、育つ。

 ただし、これはかならずしも東京賛歌ではありません。そんなわけがない。少年と少女の生きる姿は尊いものですが、彼らをかみ砕き、飲み込み、邪魔となったら容赦なく吐き出す東京の姿はむしろ、何ともふてぶてしいものです。少年が何を叫ぼうと、少女が何を祈ろうと、彼らを食いものにして白々しく居座り続ける東京と云う日本の一応の中心。

 そこにあるのは、オメラスなど遙か遠く、ディストピアにさえなりきれない、肥大化した都市の姿です。

 

 不完全なオメラスと、その敵

 『天気の子』を見終わったあとの胸に沈む重さは、ル・グィン「オメラスから歩み去る人びと」(以下、作品のタイトルを表すときは「オメラス」)を読み終わったときのそれに通じます。もちろん、両者はその重みどころか同種のものとも云えないのですが。

 「オメラス」はもはや思考実験として使い古された感があるので、最低限の説明に留めておきますが、あの小説において描写されるのは、限りなく理想に近い都市の姿です。誰もが豊かで、誰もが幸せな都市――ただし、ひとりを除いては。ひとりの犠牲のもとに成り立つ美しい都市を、しかし去ってゆくひとびとがいる。彼らは、未だ見ぬ、さらなる高みを目指します。ただひとりの犠牲者も生まない、存在できるのかも怪しいユートピアを求めて。

 「オメラス」が重いのは、わたしたちに向けて問いかけているからです。ディストピア小説として挙げられがちなこの作品内で、実はル・グィンはオメラスをあってはいけないものとして否定していません。小説内で否定も肯定もせず、オメラスと云う都市を、云わば実験している。読み手はこの実験を前にして、オメラスを歩み去るのかどうか問いかけられます。この問いが重い。読後も、ずっと胸の中にわだかまる重さです。

 『天気の子』における東京は、オメラスではありません。オメラスは犠牲者の存在を都市の全員が知っていましたが、東京は知らない(詳細は次回、多分)。加えて、東京はオメラスのような美しい都市とはまるで違います。綺麗な場所もあるにはあるけれど、細部に目を凝らせば、汚く、うるさく、暗い。

 そんな東京が、だのに人柱を作り出すからいっそう度し難いのです。

 そう、人柱を作り出しているのは人間の側です。天は天として気まぐれに存在し続け、本来人間はそれに左右されるだけ。それでも人間と天とを結ぶ細い糸が《天気の巫女》であり、この細い糸を介して人間は天気を自分に都合の良い方へと変えてきた――と云うのが、劇中の老宮司の説明です。どこまで信用して良いものか怪しいですが、前作『君の名は。』も踏まえると、世界を変えようとするのは人間側だと云う解釈は妥当でしょう。

  天気を変える代償として、陽菜は空に消えてゆきます。彼女のいなくなった東京は、憎らしいまでに晴れやかで、おぞましいまでに夏らしく、このとき、白々しくふてぶてしい東京は、いよいよ強固にそびえ立ちます。

 しかし、こうして得られた晴れこそ、陽菜が祈ったものだったのでしょう。皆が晴れた空に喜び、はしゃぎ、言葉を交わす。そこには光が溢れ、ひとびとは半ば諦めていた明日への希望も抱けるでしょう。明日からは普通の毎日が戻ってくる、と。自分の役割を受け容れ、いままでのように東京のために祈った彼女の、これが選択でした。

 かくして東京と云う不完全なオメラスは、ひとりの少女の犠牲のもと、素知らぬ顔でいつもの姿を取り戻します。何やら叫んでいる少年の声も、封殺されるはずでした。

 はずでした、が。

 様々な人間たちの協力を通じて――後半のこの一連の展開は、陳腐なまでに王道ですが、丁寧に描かれ、見事に決まっています――東京から拒まれる少年は、ついに天へとその思いを届け、少女の手を掴みます。東京のために祈っていた彼女に、自分のために祈って、と願い、地上へと連れ戻す。

 ふたりが帰ってきたとき、いままで様々なひとびとを呑み込んできた東京は、今度は天に呑み込まれるようにして、力強い雨に襲われます。

 

滅びゆく東京で

 天とひととを結ぶ細い糸はかくして断ち切られ、不完全なオメラスのシステムは崩壊し、東京は天の気まぐれか悪意か、雨の中に沈められます。この破滅をもたらすのが雨と云うのは絶妙です。いつか止むかも知れない、いつまでも止まないかも知れない、急速に訪れるわけではないが、着実に破壊を進行させていく、雨。

 ここで、彼らの選択がこの結果にどれだけ影響しているのか、そもそもこのオメラスもどきのようなシステムがどのような実態で、それは完全に崩壊したのか、と云うことは、あまり関係がありません。

 重要なのは、東京に生きた彼らが、東京から弾かれた彼らが、自分たちの手で東京を相手取り、今度こそ、自分たちの世界を掴み取ったのだと云うことです。

 彼らは、世界を変えるのだと云う選択をしたのです。

 『天気の子』の爽快さと、重さは、同時に、ここに起因しています。不完全なオメラスを破壊する彼らの選択と現状の肯定、「大丈夫だ」と云う言葉は力強い。一方で、彼らが自らの選択を引き受けた様を目の当たりにしたわたしたちは、もしかすると「オメラス」より更に切迫した問いとして、「これで良いのか」と問われます。

 終盤、冨美や須賀との対話は、エクスキューズと云うよりは問いかけの細部の詰めです。街が沈んだことによって故郷を失い避難を余儀なくされた冨美を登場させ、「元に戻っただけだ」と云わせる。本気でそう思っているのか、あるいは、そう思わなければ現状を受け容れられないのか、定かではありませんが、『君の名は。』で直接の言及がなされていなかった故郷喪失者の姿まで、ここには描かれています。沈んでゆく東京と対照的に会社を上昇させた須賀は、世界なんてもともと狂っているのだと云う。それはあの3年間で得られた彼の実感でもあり、帆高への慰めでもあるのでしょう。ただ、彼の娘は東京にいる限り、公園を走り回ることができません。雨の犠牲者はここにも存在しています。

 冨美の言葉。須賀の言葉。両方を受け取った末に否定してしまう帆高。

 わたしは未だに、彼へかけるべき自分の言葉を持ち合わせていません。ただ、彼らの選択と言葉ははあまりにも力強く、彼らの切実な思いをラストシーンで目にするたび、わたしはこれからも涙するでしょう。

 

(次回へ続きます。多分拳銃の話をします)

 

小説 天気の子 (角川文庫)

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風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

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  「オメラスから歩み去る人々」収録。他にも傑作が揃っているので、是非。

 タイトルの元ネタである倉田タカシ「トーキョーを食べて育った」収録。こちらも傑作。いま何かと話題の伴名練も寄稿してます。