鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

銃口はどこを向いているか:『天気の子』について、その2

(本稿は映画『天気の子』の内容に言及しています)

 雨音は強まり、拳銃は私たちから離れた場所で西の方角を向いていた。それがいまの時点における、いわば明後日の方向だった。

 

――瀬名秀明「希望」

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拳銃についての幾つかのこと

 前回は東京の話をしました。

washibane.hatenablog.com

 今回は拳銃の話をします。

 拳銃は『天気の子』において奇妙な存在感を放っています。帆高が警察に追われる理由として物語を積極的に動かす重要な小道具でありながら、伝奇的・ファンタジックな物語にあって生々しく、かと云って現実的なレイヤーから見ても浮いてしまう。そもそもあまりに強力すぎるので、物語全体のバランスを破壊させかねません。事実、銃が挟まったことによって全体の焦点がぼやけた印象もあります。

 しかし、ここではあえて、銃の存在を肯定したい。銃が在ってこその『天気の子』なのだと云う立場から、銃が在ることによって何が描かれたのかを考えてみようと思います。

 

はじめの拳銃

 はじめ、帆高が銃を取り出すのは、少女を守りたかったからではなく、馬鹿にされて足蹴にされて、頭にきたからです。

  行動を起こしたのはもちろん、恩ある少女を助けたかったからでしょう。しかし、逃げることは叶わず組み伏せられ、自分の行動が勘違いに基づいたただのお節介に過ぎなかったのだと明かされる。その惨めさ、情けなさに打ちのめされるところで追い打ちを掛けるように「あのときのガキか」と殴られる。そう、帆高をぶつ男は、かつて彼に悪意をぶつけてきたあの男でした。

  馬鹿にしやがって、と、帆高は銃を構えます。この拳銃は、目の前の男に躓かされたことをきっかけに拾ったものです。彼が意識しているのかはわかりませんが、意趣返しの構図がここに成立しています。

 ただこのとき帆高は、自分が構えているものが何なのかわかっていません。いえ、玩具などではないと内心わかっていたかも知れませんが、それが本物の拳銃であること――本物の拳銃がひとを殺せてしまう武器であることを、まだ実感していません。だから衝動的に銃を向けることができたのですし、勢いで引き金をひくことができたのです。

 幸いにして、放たれた弾丸は目の前の男を撃ち抜くことはありませんでした。ただし、その後ろにある街灯に当たってしまった。帆高の手の中にある拳銃は、どうしようもなく本物でした。

 

 はじめの発砲を通して、帆高は大きすぎる力をもつ危険性と、それを実感していなかった無知と、それを自分のために使ってしまったおのれの直情的な一面を知ります。そして何より、何も知らないままに行動してしまった愚かさを。

 銃を持つ手は痙攣のように震えている……。帆高は、自分の知ってしまったことを振り払うようにして銃を投げ捨てます。この銃は終盤になるまで帆高の手を離れ、そこに捨て置かれることになる。自分の知ってしまったことに、自分が持ってしまった力に、帆高がまだこのときは向き合えなかったからです。

 銃が再び拾われるには、帆高が自分のおかした過ちと向き合い、すべてを知ったうえで*1行動し、大切なあのひとのために、東京と、社会と、世界と対峙する覚悟を決めるそのときまで、待たなければなりません。

 

空を撃つ拳銃

 拳銃が次に登場するのは、帆高が陽菜をさがしてたどり着いた廃ビルの場面です。彼に迷いはありません。犯罪を重ねてでも、人生を棒に振ってでも、彼はあのひとに会うために世界と対峙します。彼はもう何も知らない少年ではないのです。

 あそこから彼岸にいける、と帆高は上を指さします。昨夜の大雨によって天井と壁は崩れ、あの鳥居が、晴れ渡った空が、直接見えるようになっています。帆高にしてみれば、あの先に陽菜がいることは明白です。しかし、須賀はそれを否定する――大人として、彼は否定せざるを得ないのです。

 目を泳がせながらも「大人」であることを全うしようとする須賀に帆高は捕まり、殴られ、反撃をするも蹴り飛ばされます。警察も追ってきている。東京が、社会が、世界が迫っている。けれどもここで諦めるわけにはいかない。帆高はついに、かつては捨てた拳銃を握ります。彼はとっくに決めていた覚悟で、大きすぎる力を手に取る。大きすぎる危険な力を与えられてしまった陽菜*2と、彼はようやく並びます。

 そして、空に向かって銃を撃つ。もう一度あのひとに会いたいんだ、と。

 それは空の上、彼岸に対する反逆であるとともに、祈りでもあります。いつかのように、街灯に当たってそれきりと云うこともない。暴力的な手段によって、願いは空に届けられる。作中には、空の上、彼岸に思いを届ける手段として送り火の煙や精霊馬が登場しますが、この場面における弾丸もそれと同じ役割を果たしていると云えるでしょう。

 冲方丁は『天気の子』について、自分ならこう描く、と云う感想を書いていますが、その中での「龍神に向かって銃を撃つ」と云う指摘は、実はすでに作中でこのように達成されていたのではないか、と思うのです。

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 序盤の発砲と同様、大きな力の破裂のあと、静寂が訪れます。しかしもう、あのときのような、どこか間の抜けた、現実味のない緩慢な空気*3が流れることはありません。逆に流れ出すのが、あの「愛にできることはまだあるかい」。

 帆高にできることは、まだ、あります。

 

銃口はあなたに向けられている

 帆高は再び銃を撃ちました。しかも、今度はそれが本物だとわかったうえで。彼はこの逃亡劇の中で何度も一線を踏み越えてきましたが、いよいよ明確に跨ぎ越してしまう。突入してきた警官たちは一様に銃を構えています。それまではギリギリ「保護」を貫いてきた彼らも、最悪の場合を意識せざるを得ない。「銃を下ろして!」「撃たせるなよ……*4」――刑事たちの言葉は、逆にそれが叶わない可能性が小さくないことを示しています。帆高はもう引き返せない。

 ここで、帆高は警察と云う、秩序を守る存在に銃を向け、対立します。須賀は刑事たちを非難しますが、彼も帆高を止めようとしている以上、現時点では秩序を守る側です。ゆえに彼もまた銃口を向けられる。

  この一連の流れの中で、画面は銃を構えた帆高を真正面から捉えます。手は震えているものの、引き下がらないと云う強い意志を感じさせる瞳。そして、画面を通して観客側を向いた銃口。両者に、観客は射貫かれる。

 その瞬間、観客であるわたしたちも、刑事や須賀の立場に置かれます。つまり、帆高を排除する側に、帆高から反逆される側に。

 何も知らないことを云い訳にして人柱のシステムに加担していたのはお前も同じだ――そう告発しているかのように。

 

  この映画には様々な、描かれていないものが存在します。帆高や陽菜の生い立ちや、名前の与えられていないひとびとの生活や人生、さらに広い視点を持てば、東京以外の世界も。この作品において、世界とは東京と等号で結ばれている。それを「狭い」と批判することは容易いでしょうが、帆高と云う少年にとって、その世界=東京は途方もなく大きく、ままならず、また、かけがえのないものです。それを否定する権利をわたしたちは持たない。彼の生きる世界は狭いのだ、そんなものは本当の意味での世界ではない、と意識的にせよ無意識的にせよ否定しようとするわたし/あなたに、銃口は向けられている。では逆に、わたし/あなたは、この映画に描かれた様々なものを、知っているのでしょうか。

 何も知らないで東京にやってきた少年はもう、あの頃の無知なガキではありません。彼は東京のふてぶてしさを知り、この世界の度しがたさを知っている。彼は拳銃を構えることで、今度は自分を排除しようとする世界に対して、それを暢気に鑑賞するわたし/あなたに対して、何も知らないくせに、と告発します。

 作中に溢れる実在の固有名詞は、この東京はいま、ここの東京なのだと云うことを強く意識させます。どこかの知らない国ではない。ファンタジーのための並行世界でもない。この東京の片隅で生きていた少年の叫びと少女の祈りを知らなかったひとびとは、わたしは、彼らに対して何か云うことができるのでしょうか。そんなもの知らない、では済まされない。銃口はこちらを向いているのですから。

 帆高がこちらに銃口を向けるとき、ちょうど音楽が「支配者も神もどこか他人顔」と歌われるのは、決して偶然ではありません。

 

物語を破壊する拳銃

 冒頭で触れたとおり、『天気の子』において、拳銃は物語の焦点をぼやけさせ、バランスを崩しかねない異物として混入しています。随所の場面の繋ぎ方がスマートになされることで物語は何とか成立していると思いますが、まるっきり破綻していると考えるひともいるでしょう。

 しかし、やはり拳銃は重要です。むしろ、物語を破綻させてまでも存在しなければならない。なんとなれば、拳銃の存在しない、気持ちの良い話運びでは描かれ得なかったものが、この映画では描かれているからです。少年は不相応な力を持たされ、少女のためではなくその拳銃のために社会から追われ、その弾丸をもって空へと思いを届け、その銃口をもって社会を、東京を、世界を、わたしたちを告発する――そのためには、拳銃が必要だった。

 逆に云えば、それをおこなうためにバランスの良い作劇が犠牲になるのならば、バランスの良い作劇など所詮その程度なのだ、……と云うのは、まあ、過言かも知れませんが。わたしも本気でそう思ったわけではありませんが、一瞬でもそう思ってしまうくらいには、拳銃の存在は心に引っかかり続けています。

  陳腐な表現が許されるならば、わたしはとっくに、この作品と云う拳銃に、撃ち抜かれてしまっていたのでしょう。

 

(次回へ続きます。多分「大丈夫」の話をします)

希望 (ハヤカワ文庫JA)

希望 (ハヤカワ文庫JA)

 

  引用元。実は、映画公開初日、鑑賞前に読んでいたのはこの短篇集のトリを飾る「希望」でした。いざ映画を観ると、少なからず共鳴する部分があって驚いたものです。

*1:この「すべて」は本当に「すべて」なのか、と云う問題は付きまといますが

*2:トラック爆破の場面を参照

*3:あのシーンでのスカウトマン木村の呆けた態度は忘れ難いものがあります

*4:「撃たせないでくれよ……」だったかも知れません。5回も観ているのに記憶が曖昧