鷲はいまどこを飛ぶか

ミステリとSF、ときどき東方。

2019年下半期ベスト

 年間ベストは例年、31日24時まで粘るのですが、今年は時間が取れるうちにちゃっちゃと済ませようと思います。いま読んでいる本はたとえ年内に読み終わろうと、2020年読了本扱いです。

 それでは始めます。国内外・フィクションノンフィクション問わず、長篇(および作品集)と短篇でそれぞれ20作ずつ、順不同です。

 

長篇(および作品集)

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  • シモン・ストーレンハーグ『ザ・ループ』(グラフィック社)

 

 『図書館の魔女』の作者が放つ民俗学ミステリ――と云う触れ込みだった高田大介『まほり』。細部のリアリティや大胆すぎるアクロバットより、最後の最後、重量級の物語をたった一点へ収束させる手腕が巧い。実は未読だった十角館の殺人は、しかしいま読んで良かったと思う。コテコテのクローズドサークルと、そこから離れた外側の世界、両者をミステリの構図で結びつけ、新しい時代のミステリへと橋渡しする記念碑的名作。『なめらかな世界と、その的』『嘘と正典』についてはtwitter等で何かと言及したので、いまさらここで多くを語るまい。ただ一点、後者収録の「魔術師」はオールタイムベスト短篇のひとつです。国産ロスマクと聞いて読んでみた『公園には誰もいない』。行き止まりへ突き進むように切り詰められ、突き放した文体は、いっそ息苦しい。『黒いトランク』は一読して、こんな推理小説が人間に書けるのかとおののいた。精緻に組み上げられ、鮮やかに崩されてゆく、トリックとロジックの一大建築が、戦後の日本を刺し貫く。それは知性の全力を賭けた挑戦にも、神の戯れにも見えた。

 『小説のストラテジーは小説の読み方を指南した一冊。なんとなく抱いていたが言語化できなかった感覚を見事に捉えられた、気がする。読むにあたっても書くにあたっても、今後何度も参照することになるだろう。ミステリ評論集『複雑な殺人芸術』には「奇妙な暗合」と云う言葉が評論を跨いで複数回登場する。思いがけない繋がりを見出し(あるいは創り出し)て、運命的な構図を描く様は、むしろ推理小説の営みに近い。

 パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』があまりにも良かったので、重量級の長篇を三作品一気に読んだ。小説の構造、作品の構図の示し方がいちいち格好良く、それはとりわけ『エコー・メイカー』で顕著だ。しかし下半期読んだ本でベストを挙げるなら『オーバーストーリー』になるだろう。これはもう、好みの問題ではない。あまりにも個人的事情を密接に絡みすぎて、まるでいまこのとき自分に読まれるために存在していたのではないかとさえ思える。小説・物語の効用と云う点では『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』も忘れ難い。残酷な現実を前にして、それでも彼は語り続ける。語られるひとつひとつが愛おしい。いままでピンと来なかったバラードだけれど、太陽の帝国を読んでなんとなく面白がり方がわかった気がした。終盤の〝光〟が凄い。ちょっと信じられないくらい凄い。『生まれながらの犠牲者』はオールタイムベスト級の長篇ミステリ。前半の捜査は一見無駄に思えるけれど、最後に明かされる〝生まれながらの犠牲者〟を形取るためにはやはり必要だった。クリスティーのベストとは行かないまでも充分に面白かった『三幕の殺人』。この演目では、傍観者に見えた名探偵さえも舞台へ引きずり出されてしまう。『十日間の不思議』『九尾の猫』から更に踏み込んだ『ダブル・ダブル』チェスタトンが狂人と断じた方へ、それでもなおエラリイ・クイーンは突き進む。モース警部シリーズはいまいち好きになれなくて、『ニコラス・クインの静かな世界』も例外ではないのだけれど、好みにはまりそうではまらないこの微妙さによって、かえって作品について考え込んでしまう。ひとの感想を聞いてみたい。ようやっと邦訳が完結した『危険なヴィジョン』全3巻。何はともあれめでたい。いちばん面白いのはエリスンのコメントなのだけれど、それでも一応面白かった作品を挙げるならディック「父祖の信仰」、エムウィシュラー「性器および/またはミスター・モリスン」、ディレイニー「然り、そしてゴモラ……」あたり。そして、刊行されたことがまずめでたいと云う点では『息吹』もそうだ。語られていることを「しょせん綺麗ごとさ」と冷笑するのは容易だ。こんなもの小説の面白さではないと断じるのも難しくない。しかし「それでも」と思わせる強さが、テッド・チャン作品にはある。

 もうひとつの世紀末を描くグラフィックノベル『ザ・ループ』は、話題になった『エレクトリック・ステイト』より遥かに好み。ストーレンハーグによる異形のノスタルジーには、断片的な記憶を(ときには空想を交えて)浮かび上がらせる形式が相応しい。

 

短篇

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 まずは漫画を3作。わけあって全巻読むことになった『C. M. B.』からは「ワールド・エンド」を挙げておこう。細部に粗もあるが、アルゼンチンの悲劇と人間の闇と博物学とを〝世界の終わり/果て〟と云うイメージでつなぎ合わせる力業が光る。とにもかくにも絵が格好いい『佐武と市捕物控』の中で、異彩を放つ「狂い犬」。空白によって描き出された、灼熱の白昼夢。偽史山人伝」は〝山人〟なる架空の生物について幾つもの資料を並べ立てる不思議な作品。オチもなければ山もないが、だからこそ〝山人〟の存在がそれ自体で印象に刻まれる。

 ロジカルな中短篇推理小説のひとつの極地を見せられたのが「スイス時計の謎」。この不条理な世界で、論理は誰かを救い得るだろうか。「別の世界は可能かもしれない。」はタイトルが第一と云って良い。可能かも知れない。可能でないかも知れない。しかし、〝かも知れない〟で充分なのだ。人間の深淵を覗くかのような「改造拳銃」は、退職刑事シリーズの異色作。純粋論理空間から始まった安楽椅子探偵小説がこんな境地に行き着くなんて、誰が予想できる? 横山秀夫は『第三の時効』における男社会のエレガンスに若干鼻白んでいたが、「黒い線」で認識を改めた。警察組織に蹂躙される女性たちの悲愴。そう云う視線も持ち合わせていたのか。

 最近、ノンフィクションの在り方について(さらに云えば、フィクションの意味について)考えている。そのきっかけとなったのが「おばあさんが死んだ」推理小説のような展開を見せつつ、決して推理小説とはならない点に真価がある。〝何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。〟――名文しかないエッセイ文学のふるさと。故郷とは、遠くにありて思うもの。しかし、そこから始まっているのだ。「暗合ということ」巽昌章推理小説観を知るために重要な論考。運命を運命として描くこと、それが推理小説が語ってきたのことではないのか? 気をつけないと、巽昌章の引力に呑み込まれてしまう。

 ダブリンのひとびとのささやかな物語に高い技巧を仕掛ける連作は、「死者たち」で締めくくられる。昨日まで存在も知らなかった死者を思う魂は、窓辺をさまよい出でて、宇宙にまで繋がってしまう。それでもなお決定的にすれ違ったままだと云う悲しさを残して。「大佐に手紙は来ない」は最後の一文が凄まじい。社会から置き去りにされ、追い詰められてゆく夫妻の悲劇は、この一文で開かれてしまう。現代の異色作家短篇と云える「黒い豚の毛、白い豚の毛」。笑えば良いのか、怖がれば良いのか。見送りのシーンが不気味だ。「アダムズ牧師とクジラ」エドワード・ホッパーの絵から小説を書くと云うアンソロジーの一篇。どうしてあの絵からこんなものが書けるのか不思議な、ラリった牧師と鯨の死骸とエルヴィス・プレスリーについての話。なんだこれ。クトゥルー×ホームズの「翠色の習作」は最早、発想の勝利。しかし出オチに終わらずツイストを決めるので油断ならない。旧人類よりあらゆる点で優れた新人類が登場する「眠る犬」は、安易な〝平等〟〝公平〟に陥らないのが良い。生命の複雑性と世界の複雑性を、ひとつの復讐譚で一気に照射する。ディラック海のさざなみ」は異色の時間SF。いままで読んだ中で、最も痛ましい時間旅行だ。編者について思うところは多々あるが、それでも素晴らしい企画であることは認めねばならない《短篇ミステリの二百年》からは二篇を。「霧の中」は百年前にして虚構推理的な趣がある。よく見つけてきたなこんなの。「セルノグラツの狼」は完成度の高い掌篇。悲しさ、恐ろしさ、滑稽さ、苦々しさ、様々な感情が短いながら喚起される。

 そして年末もギリギリになって年間ベストどころかオールタイムベストとなった「横しぐれ」。とは云え、オールタイムベストなどと云う評価軸に収めることさえ躊躇ってしまう。一生に一度で良いから、こんな小説を書けたなら、幾らか満たされた気持ちで、人生を終えられるだろう。

 

 以上、20冊と20篇でした。

オーバーストーリー

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