鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

 芸術家とは仲介者にすぎないとパウル・クレーは云う。

 芸術家のする仕事は、定められた地点で、つまり樹木の幹として、深部から上昇してくるものを集約し、さらにそれを上方に導くこと以外のものではありません。一言でいうならば、芸術家たちは支配者でも、召使いでもなく、単なる仲介者にすぎないのです。

 ですから、芸術家とは、何というつつましい存在なのでしょう。樹冠の美しさ。それは決して芸術家その人の美しさではなく、ただ彼を媒介として生れたに過ぎないのです。

 

――パウル・クレー『造形思考』土方定一ほか訳, 筑摩書房*1

  クレーはこの言葉を、あくまで芸術家の視点から述べているが、自分で何かを創作するわけではない聴講者にとっては(この言葉の出典はクレーの講演である)、むしろ鑑賞者の在り方を提言するものとして聞こえるはずだ。作品を鑑賞するとき読み取るべきは芸術家の意図ではなく、そこに何が生成されつつあるのか、どのような記述がなされているのか、である。鑑賞者は、いま果実を実らせ枝葉を茂らせている樹冠にこそ目を向けなければならない。

 これはなにも絵画だけに留まらないだろう。いたずらに異なるメディアを結びつけるのは危険だが、小説だって、同じようなことを云うことができる。佐藤亜紀が『小説のストラテジー』で用いた《記述の運動》とは、つまりそう云うことではなかったか。少なくともぼくはそう理解した。

 問題は、ではどうやって樹冠を見るのか、だが、それにあたって、この樹は何科何属で、形態はどうで、フェノロジーはこうで、と云う話をしただけでははじまらない。樹を研究するにあたってそれは重要な作業だが、樹冠を鑑賞するにあたっては、その樹の種目を特定しただけでは意味がないのだ。もちろん、樹種の進化系統を把握することで自分の中で解像度が上がれば、樹冠の見え方も変わるだろう*2。だから分類や、体系立てることは重要だ。けれどもそれだけでは、鑑賞にならない。

 もって回った云い方をしたが、要するに何が云いたいのかと云うと――《これは本格ミステリ》だとか、《トリック分類を参照すればこれはどれそれにあてはまる》だとか云ってみたところで、それは鑑賞ではない。先達の分類や独自の定義を携えつつ、しかし作品を読むときあくまで眼を向けるべきは、幹でもなく、系統樹 でもなく、樹冠の豊かさ、美しさである。たとえ全体をくまなく見ることなどできないとしても、見ることができるのは部分ひとつひとつだけだとしても。

 

 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、部分は発見されたのですが、まだ全体を見出すまでにはいたっていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けております。わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたしたちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたしたちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の意識をもって始めたのです。

 それ以上のことはわたしたちにはできません。

――同上

 

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

 
造形思考(下) (ちくま学芸文庫)

造形思考(下) (ちくま学芸文庫)

 
小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

 

*1:表記揺れは原文ママ

*2:もちろん、系統樹もまた《樹冠》であるわけだが