鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

走馬灯の代わりに

 小説の役割のひとつが人生を鏡に映すことだとすると、登場人物も場所も、実生活と同様に明確なものでなくてはならない――となると、名前が必要になる。

――エラリイ・クイーン『九尾の猫』越前敏弥訳, ハヤカワ・ミステリ文庫

 

 映画館でエンドロールまで見る客が見ているのは《映画館でエンドロールまで見るマナーの良い自分》である、と云うひとがいる。一方で、映画のエンドロールをエンドロールとしてきちんと見る――つまり、その映画を作ったひとびとの名前に興味があると云うひとも、当然ながらいる。現にどちらもSNSで見かけた意見だし、それらを見かけたからこの文章を書き始めたのだ。

 とは云え別に、どちらが正しいとか、間違っているとか云いたいわけではない。そもそも、どちらが正しいとも、間違っているとも思わない。エンドロールをぼうっと眺めながら映画の余韻に浸ったり感想をまとめたりする、そんなエンドロールとの付き合い方だってあるだろう。音楽に耳を澄ませているひともいるかも知れない。本人あるいは知人が映画制作に関わったから、その名前を探す、そう云う場合もあるはずだ。ひとにはひとの、エンドロールの見方がある。所詮は名前の羅列にすぎない。

 けれどもぼくにとって映画のエンドロールは、日常で最もよく目にする《名前の羅列》だからこそ、意味がある。ぼくは映画館ではいつもエンドロールまで見るが、そのときぼくが見ているのは、より正確には、眺めているのは、スクリーンに並び、流れてゆく名前たち自体であり、それだけのひとびとが生きていて(少なくとも、生きていた)、この映画に関わったのだと云う事実だ。

 

 エラリイ・クイーン『九尾の猫』では、本篇のあとに、端役まで含めた、架空の人物名一覧が載せられている*1。人間を人間とも思わないような機械的な連続殺人と、それによって引き起こされる大都市のパニックを描いたこの作品において、末尾に並べられたひとびとの名前は、彼らが確かに生きていたのだと云うことを思い出させる。彼らはれっきとした人間であり、決して《何番目の被害者》だとか《犯人》だとか役柄で呼ばれるだけの存在ではない。群衆は愚かで、一度暴走すれば手を付けられないが、しかしそれでも、ひとりひとりの人間には、それぞれの名前がある。それはつまり、ひとりひとりに、それぞれの人生がある、と云うことだ*2

 もちろん、名前がすなわち人生を表すわけではない。けれども、それが誰かの名前である以上、名前の向こう側には、その誰かの人生が見える。でなければどうして、ただの名前の羅列が、こんなにも迫力を持ってぼくの胸を打つのか?

 むしろこう云えるかも知れない。その向こうにはたくさんのひとびとがいて、たくさんの人生があるのに、彼らの名前の羅列はこんなにも無機質で、ぼくはそこに、並べ立てられるなかで押しつぶされてしまった、無数の人生を思うのだ。

 

 墓や、慰霊碑に、幾つもの名前が刻まれているのを見ると、とても怖くなって、切なくなってしまう。

 あるいは、記念碑などに刻まれた寄付者の名前でも近い感覚を抱く。幾つも並んだ名前の向こうにひとつひとつの人生がある。生があって、死があって、その迫力に自身が押しつぶされそうになる。

 

  普段は意識していないが、そう云う感覚はただ散歩しているときにも覚える。住宅街を歩いていると、どこまで歩いても家が並んでいて、その家の灯りひとつひとつに人間がいて、人生があるのだと思うと、気が変になりそうになる。そんなときがある。

 世界のあまりの情報量に、心の処理が追いつかなくなる、そう云う感覚だ。

 けれど、だからこそ生きていよう、とも思えてくるのだから、不思議だ。

 

 映画に話を戻そう。『君の名は。』には、災害の死亡者名簿のなかに、見つけたくなかった名前を見つけるシーンがある。告げられた死の衝撃は、名簿の無機質さと、そこに並んだたくさんのほかの名前によって、いっそう重く突き刺さる。あれだけの物語があったにもかかわらず、あんなにも溌剌と生きていたにもかかわらず、その人物の死を告げるのは無機質なリストなのだ。そしてほかに並んだ名前ひとつひとつにもまた、押しつぶされた幾つもの人生がある……。

 これはあくまでこのシーンを見たときの衝撃であって、それがのちのちの展開でどのようにはたらくのかあるいは無駄にされるのかをここで語るつもりはない。話は、結末のさらにあと、エンドロールに飛ぶ。

 『君の名は。』を見る前、先に見ていた友人から、彼と同姓同名の人物がエンドロールに並んでいる、と聞かされていた。だからぼくはエンドロールで友人(と同姓同名のスタッフ)の名前を探した。それは端的に云ってゲームのようだったし、見つけたときは嬉しかった。映画のタイトルと名前さがしの符合も面白い。友人にも報告して、少しだけ盛り上がった。友人と同姓同名の、けれど全く別の人生をもった人間がいることに、不思議な感慨を覚えた。

 

 死亡者名簿のなかに会いたいひとの名前を見つけること。エンドロールのなかに友人の名前を見つけること。このふたつは案外、近い。その近さと、それでも一致しない距離が、いまは興味深く思える。いい加減しつこいが、無数に並んだ名前にはそれぞれの人生があって、それらがリストになって押しつぶされることは恐ろしいことだけれど、云い方を変えれば、向こうにたくさんの人生が見えるはリストは、この世界が信じられないくらい豊かであることを(もしくは、豊かであったことを)垣間見させてくれる。

 ゆえにぼくはエンドロールを見るのだ。

 何も、ひとつひとつの名前を把握しているわけではない。大体の場合、ぼうっとスクリーンを眺めているだけだ。けれど、そこに並んだたくさんの名前を眺めていると、だんだん、恐ろしくて、切なくて、嬉しくて、楽しい気持ちになる。

 

 ひとは死の間際、自分の人生を振り返る、いわゆる走馬灯を見ると云う。もしそんなものがあるのなら興味深い体験に違いないが、ぼくとしては別に、自分の人生を振り返りたいわけではない。どうせ見るなら、エンドロールが良い。自分の人生で、自分に関わったひとびとの名前がずらりとそこには並んでいる。多分、見ている途中で飽きてくるだろう。家族や友人知人の名前ならまだしも、ちょっと喋っただけの名前も知らない人間まで(むしろそう云う名前の方がたくさん)載っているのだから。

 けれど、長い長いエンドロールを見終わったとき、どのような人生を送ったのであれ、きっと、それなりの感慨と共に《おしまい》を受け容れることができるはずだ。

 

 

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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*1:書いていて思い出したけれど、『ローマ帽子の謎』でも似たようなことをやっていた。ただし、あちらは本篇の前であり、犯人当てとしてのフェアネスを強調するものだったように思う

*2:法月綸太郎「many tales――たくさんの物語」(『複雑な殺人芸術』所収)を参照