鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2020/04/18

 体調が戻ると気分も戻る。天候は安定しなかったが、いくぶん晴れやかに過ごせた一日だった。起きていた時間の1/3か1/2は、コロナウィルスのことを考えずに過ごすことができた。もちろん消毒などには常に気をつけたつもりだけれど、幸か不幸か、もはやそれらの配慮は新型コロナウィルスと云う特殊な文脈を離れ、日常になりつつある。いずれは新型コロナウィルスじたいが、日常の文脈へと回収される日が来るのだろうか。

 最近こう云うことばかり考えている。いずれは、いつかは、いつの日か、……。

 

 モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』を読み終えた。「ミステリ」をテーマに編まれた作品集で、うち2篇は『ジゴロとジゴレット』にも収録されているが、訳文の巧さはさておき、それらもこの作品集に並べられることで新たな読みが可能になっていて、選集として完成度の高い一冊だ。解説も充実している。ミステリ読みに薦めるならこちらだろう。

 そもそもウィリアム・サマセット・モームを読んだのは小森収=編『短編ミステリの二百年』の影響で、ぼくもああやって幅の広さと好みの強さを押し出したアンソロジーを編みたい、そもそも短篇ミステリをいろいろ読みたい、と思い立ったからであり、『エドガー賞全集』を読んだのも同じ動機による。

 ではぼくは小森収に私淑しているのかと云えば、そうではないことは過去の記事を遡って貰えればわかるだろう。むしろ不信にさえ思っている。きょうも、傑作「雨」の小森評を確認して、わかっちゃいねえなあ、などと不遜なことを考えていた。『二百年』に採った「創作衝動」について論じたくだりは面白いのに、この精度の差はなんだろうか。アンソロジーとしては一級品で、自分の短篇ミステリ観を確実にアップデートしてくれているこのシリーズを、しかし手放しで褒められなくて悩ましい。

 とまあ、小森収についてのあれこれを考え出すと切りがない。それがいちばん難儀だ。