小学生だったときの夜は、兄が弾くギターとともにあった。当時ぼくたち兄弟は同じ部屋を使っており、さして広くもないそこに二段ベッドを押し込んで勉強机がふたつ押し込まれていたけれど、ぼくも兄も机を勉強のために使うことはめったになく、ぼくは居間で勉強する一方、兄はギターを爪弾くのが夜の風景だった。それが終わったのがいつ頃だったのか思い出せないけれど、ぼくが高校生の頃にはすでにギターの音は聞こえなくなっていたはずだ。それでもぼくがわが家の夜のことを思い出すとき、多くの場合、そこには兄のギターが聞こえている(あるいは、兄が淹れたコーヒーの匂いがある)。久しぶりに兄のギターを聞いて、そんなことを思った。
緩やかな時間の中ではつい昔のことを考えてしまう。
時間は緩やかだ。寝るか本を読むかしていればあっと云う間に一日が終わると云う点では速やかだけれど、日々はどこかゆっくりとしていて、例年であれば新入生歓迎や新学期の講義などなどもろもろで忙しないことを思うと、もう5月か、と云うより、まだ5月に入ったばかりなのか、と云う印象が強い。ルーティーンが週ではなく日で回っているのが理由だろう。基本的な生活のサイクルが1週間で回っていた頃は、4回サイクルを回せば1ヶ月が経っていた。
とすると、来週明けから講義が始まれば、また忙しく、「もう6月?!」などと気軽に云える日々が戻るのだろうか。
野田秀樹『21世紀を信じてみる戯曲集』を読み終えた。
書道教室で語られる神話に語られる、あの事件「ザ・キャラクター」、バラバラな家族と世界の終わり「表に出ろいっ!」、天災の予兆と予言、噴出する虚構と欺瞞「南へ」――「信じる」をテーマにして、人物やモチーフが緩やかに繋がった連作戯曲集。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月1日
いずれもフィクションが現実へ浸食する物語であると同時に、まるで現実がフィクションを食い破るようにして主題が出現する。以前実際の舞台で観た『逆鱗』も同様。この後者の技巧、その食い破る様がとてもスリリングで、ほかの戯曲もチェックしたくなった。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月1日
「ザ・キャラクター」とか、確かにはじめから何かおかしいと云えばおかしいのだけれど、まさかそんなところにまで連れて行かれるとは思わかった。「南へ」も、思いがけない場所から出現する南への移動が、日本は天災の国と云うなけなしのアイデンティティさえ揺さぶる。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月1日
「ザ・キャラクター」はモチーフが露骨すぎるのは気になるが、あまりに露骨だからこそ「食い破られた」感がある。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月1日
あといずれも後半の加速とうねりが凄まじい。この先を見たくない、やめてくれ、と呻きながら読み進めた。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月1日
憂える戯曲集も気になっている。
元気が有り余っているからだろうか、最近妙なやる気が胸を「きゅう」とさせる。焦燥感のような嫌なものではないけれど、処理しないと収まらない類いのエネルギーであって、どう鎮めようか考えているものの、考えるまでもなく答えは出ている。
書けば良いのだ。こんな手遊びのような日記ではなく、何かと本気で切り結ぶ文章を。小説でも良い、評論でも良い、 自分の思考、志向、嗜好を殴りつけるような何かを。