曜日感覚も日付感覚もなくなっているがついに季節感覚も狂ったかと思われるほど暑い。換気がてらに窓を開けたら余計に暑くて参ってしまった。
もしもこの騒動がなければ「今年の春はもう夏だねえ」などと笑い合えていたのかも知れない、などとたらればを考えてしまい勝手に悲しくなったけれど、この騒動があってもなくても「今年の春は夏だねえ」と云って良いはずで、自分の思考にコロナ禍が拭い去りがたいほど浸透していることを思い知る。
きょうも寝て起きて本を読んでYouTube観て寝ての繰り返しで無為に時間が過ぎてゆく。流石にこのままではいけないと思ったので日記ではないブログの記事を書きはじめた。明日か明後日に公開したい。
twitterのTLを眺めると、みんな『アイドルマスター シャイニーカラーズ』をプレイしている。アイドルと云う職業をどう受け容れれば良いのかいまだに自分の中で答えを出せない以上――彼ら彼女らを応援し「推す」ことは、生きている人間に勝手な物語を押しつけかねないのではないか? ましてや多くの場合、多感な時期の少年少女なのに――積極的に触れることは避けてきたが、あまりに周囲が何の疑問もないかのようにプレイしているので、むしろプレイすることでアイドルについて考えてみるのも良いのかも知れない、などと考えているものの、けっきょく好奇心を抱いているだけだと云われても否定しきれないだろう。
ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者・神を見た犬』を読み終えた。「七階」「神を見た犬」「聖者たち」は確か光文社古典新訳文庫で既読。
幾つかは既読。寓意を読めたところで、読めた気がしない。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月2日
収録された物語はいずれも夢想的にして寓話的だけれど、寓意が何かと云うよりは、寓意が何によって語られているかが興味深い。列車の旅に籠められた人生の悲哀ではなく、人生の悲哀が籠められた列車の旅に味わいがある。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月2日
はじめて読んだ中で印象的なのは「竜退治」と「なにかが起こった」。過剰な筆致は避け、あくまで淡々と、越えてはならない線を越えてしまったこと、破滅的ななにかが起きてしまったことを捉える、その確実さが。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月2日
「なにかが起こった」は、その「なにか」が何であろうとも、それを明かさないことに面白みがある。虚ろな空間には悲鳴が響くだけ。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月2日
「竜退治」は最後の人間賛歌が良いですね。皮肉が激烈。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月2日
真藤順丈『宝島』を読みはじめた。目取真俊の様々な意味で烈しく重い短篇群のあとに読んで大丈夫が不安だったけれど、いまのところその複雑さ、重さにエンターテインメントで抗しようとしている印象があり、好感触。