鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

ミステリ研新入生に薦める20選

 何も急ぐことはありません。生長を待たなくてはなりません。じっくり育ってゆかせなくてはなりません。やがていつかその時が来たら、立派な作品ができるというのなら、それに越したことはありません。

 わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、部分は発見されたのですが、まだ全体を見出すまでにはいたっていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けております。わたしたちを支えてくれる人々がいないからです。しかし、わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたしたちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたしたちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の意識をもって始めたのです。

 それ以上のことはわたしたちにはできません。

――パウル・クレー『造形思考〔上〕』(ちくま学芸文庫

  このブログで引用するのも3回目となるこのクレーの言葉は、少なくとも2020年5月現在、わたしにとって自分が所属する京都大学推理小説研究会に対するスタンスをある程度規定するものです。《バウハウス》をそのまま《推理小説研究会》に置き換えることはできず、《すべてのものを捧げる連帯の意識》など存在せず、存在しなければならないとも思わず、主語も《わたしたち》ではなく《わたし》とすべきではあるものの、発見された部分からそれぞれの探求を進め、いずれ全体を見出すことが出来れば良いとわたしは祈っていますし、その祈りをもって粛々と読み、書き、語っています。それ以上のことはわたしにはできません。

 これから続く文章は表題通り、ミステリ研の新入生に薦める、ただしあくまで個人的な、20作品のセレクションです。基礎教養を伝え、形成するものではなく、わたしの自己紹介のようなリストになることを意図して選出しました。云い換えれば、わたしの発見した《部分》のさらにいち部分です。

 おそらくインターネット上では、このような多数の私的なベスト・セレクションが見付かるはずです。あるいは入会して先輩たちから教えられる作品群があることでしょう。それらもまた《部分》です。大学の推理小説研究会に入ろうとしている皆さんがいろいろな《部分》を見て、独自の《部分》を発見できることを祈ります。

 そうして自分なりの体系――と云うと肩肘張ったように聞こえますが、樹冠のようなものを、形成していって貰えば良いと思います。自分の中に育った樹冠は、新しい作品を読む度に豊かになり、ときに揺さぶられ、ときに変容し、そして翻って、作品に新たな読みを与えてくれるはずです。

 とは云えもちろん、体系など関係ないと、片っ端からいろいろなものに手を出す乱読家の方もいるでしょう。もしもたくさん本を読めるのならぜひ読んでください。多様であることは豊かであることです。

 それにまた、わたしにひとの読み方を強制することはできませんし、したくもありません。以上語ったことは全て読み流してもらって構いません。前置きが長くなりました。それでははじめましょう。

 

 

ミステリとジャーナリズム

  探偵役にジャーナリストが配された推理小説は多々あります。真実を追及すると云う点で、探偵の捜査とジャーナリストの取材は一見すると似通っているからでしょうが、しかしそれぞれをもう一歩踏み込んでみると、追及と報道は同じものなのか、虚構と現実を混同してはいないか、両者は切り分けられるのか、そもそも《真実》とは何なのか――様々な論点に突き当たり、安易に探偵=ジャーナリストと云いきることはできず、探偵小説=ジャーナリズムとも云うことはできません。

 ミステリが提示する《真実》と云う名の(多くの場合、意外な)《構図》は、ジャーナリズムにおいては、容易く陰謀論めいたデマへと誘い込む、ときとして抗うべき、引力をもっています。逆に、《構図》が抗いがたい引力をもっているからこそ、ミステリにおける《真実》はかくも魅力的なのです。

 米澤穂信『真実の10メートル手前』の大刀洗万智はジャーナリスト探偵たちの系譜を継ぐキャラクターですが、その姿は探偵役である以前に、ジャーナリスト然としています*1。短篇集に収められた物語はいずれも華々しい真相解明が存在せず、ともするとミステリを読むひとつの楽しみであるツイストの快楽――《真実》の快楽に欠けるかも知れません。しかしジャーナリズムとミステリを安易に重ね合わせることなく、むしろときには拮抗させながら、《真実》をめぐる苦みや痛みを引き受けるこの短篇集は、《謎を解く》とひと言で片付けるだけではたどり着けない物語を見せてくれるはずです。

 ジャーナリズムにミステリから接近したのが『真実の10メートル手前』だとすれば、沢木耕太郎による短篇ルポルタージュ「おばあさんが死んだ」はジャーナリズムがミステリに接近した例と云えるでしょう*2孤独死した老女の人生を遡りながら、彼女が何者だったのか、なぜ死んだのか調べてゆくその過程はいかにもミステリ小説的です。しかし本作は最後に謎を残し、推理はそこに踏み込むことはありません。沢木なりの答えを出そうと思えば出せたであろうこの謎をあえて残す、その躊躇いが本作を、面白い謎解きミステリではなく、興味深いノンフィクションたらしめています。

真実の10メートル手前 (創元推理文庫)

真実の10メートル手前 (創元推理文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2018/03/22
  • メディア: 文庫
 
人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

 

 

人間と云う名の謎
  • エラリイ・クイーン「キャロル事件」(『クイーンのフルハウス』所収)
  • アガサ・クリスティー『鏡は横にひび割れて』
  • フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』

  「おばあさんが死んだ」で沢木を躊躇わせたもののひとつは、人間の理解しがたい複雑さでした。人間はひとに手を差し伸べると同時にもう片方の手でひとを殴ることができる、矛盾を抱えた存在です。しかしそれゆえに人間に惹きつけられるのもまた事実でしょう。この項では、そんな人間と云う名の複雑な謎を軸に据えたミステリを3作品挙げました。ここからさらに踏み込み、深淵を覗いてみせる作品は、「巡礼者たち」の項にまとめました。

 エラリイ・クイーンをミステリ研の新入生に薦める場合は〈国名〉シリーズや〈悲劇〉シリーズなどの古典が定石でしょうが、定石ゆえにここでは外し、それらを読んであまりにかっちり作られた謎解き小説を敬遠してしまった過去の自分が、クイーンについて考え直しふたたび手に取るきっかけとなった中篇「キャロル事件」を挙げておきましょう。あまりにも厳格な法と、あまりにも複雑な人間を前にして、名探偵は立ち尽くすしかありません。

  クリスティーの名を出したのを意外に思う向きもあるでしょう。この作家の描く人間たちはみなどこか定型的で、一見すると深みに欠けます。しかしこの《一見》こそクリスティーが技巧を凝らすところであり、代わり映えしない人物像やありがちな構図に意外なところから光を当て、ときとして本人たちにとって痛切な真実を引き出すのです。人間は往々にして定型的であり、逆説的に、だからこそ複雑なのだと云うこともできるでしょう。『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』などの有名作に隠れてしまいがちですが、パーティーの席上での毒殺と云ういかにもありがちな舞台にあまりに哀しい物語を潜ませた『鏡は横にひび割れて』は、単なる基礎教養の一部としてでない、ひとりの作家としてのクリスティーの技巧が端的に現れています。

 この項のコンセプトはむしろ、フェルディナント・フォン・シーラッハから読むことではっきりするかも知れません。淡々とした事件のスケッチがかえって伏流する人間の複雑さ、奇妙さ浮かび上がらせるシーラッハの短篇は、この項に取り上げたい候補が沢山あって選ぶのが難しいものの、作品集単位で選ぶなら、ためらいなく『犯罪』を推します。自分の内面の変遷は自分では自覚しにくいのですが、『犯罪』を読んだことでわたしは《人間と云う名の謎》について考えるようになったとも云えるからです。なお、短篇で選ぶなら、「ザイボルト」(『カールの降誕祭』所収)か「ふるさと祭り」(『罪悪』所収)。

クイーンのフルハウス

クイーンのフルハウス

 

 

トリックに何ができるか――あるいはチェスタトンとその子孫

  トリックに何ができるでしょうか? 密室を作る? アリバイを偽装する? 人物を誤認させる? いかにも。しかしわたしは、そのような分類を訊ねているのではありません。これはもう少し踏み込んだ問いです――トリックは物語において、何をなし得るか? もちろん、そんなことを考えずともミステリを愉しむことはできるでしょう、けれども考えさせずにはいられない作家がいます。それがチェスタトンであり、その系譜に連なる作家たちです。

 G・K・チェスタトンの代表作にして短篇ミステリの古典〈ブラウン神父〉シリーズは数多の印象的なトリックを生みました。「見えない人」のトリックなど、読んだことがなくても知っている方は少なくないでしょう。しかし実際読んでみると、独創的なトリックの数々は、人間や社会に対する警句や批評として作用していることに気付きます。トリックについて考えるとき往々にして捨象されがちなその側面を拾い上げれば、クリスティー『鏡は横に~』に触れたときと同じ言葉を繰り返すことになりますが、単なる基礎教養に留まらない*3チェスタトン作品の魅力を知ることができるでしょうし、またトリックの類型を並べた系統樹を、今度は立体的なものとして起ち上げることができるはずです。定石ではシリーズ第一短篇集『童心』を挙げるところですが、ここでは密室、逆説、信仰、探偵の存在、その他諸々の要素が噛み合ったシリーズ最高傑作「犬のお告げ」を含み、全体として批評性とミステリのパズル的側面とが両立し互いを支え合うシリーズ第三短篇集『ブラウン神父の不信』を挙げました。〈ブラウン神父〉シリーズは巻ごとに趣が異なるので、どれか一巻を読んで面白ければ、ぜひほかの巻と読み比べてみてください。

 チェスタトンとクイーンの影響を受けたラテンアメリカの巨匠ホルヘ・ルイス・ボルヘス。観念的で難解な印象を受ける強面の作家ですが、『伝奇集』岩波文庫)に収められた「死とコンパス」や「八岐の園」はそれぞれユニークなかたちでトリックを用いた傑作ミステリと云えるでしょう。ほかにも架空の推理作家について論じた偽エッセイ「ハーバート・クエインの作品の検討」など、トリックとは、ミステリとは、と考えさせる作品が収録されています*4。いかんせん晦渋な書きぶりなので、一読して理解する必要はありません。時間をおいて好きな作品を再読してみるごとに新たな発見をする――作品それぞれは短くとも、そんな長い付き合いの楽しみ方ができると考えれば、かえってお得ではないでしょうか。どうせなら、同じく岩波文庫から出ている『アレフ』とセットで読むことをおすすめします。

 和製チェスタトンと呼ばれうる作家・作品は少なくありませんが――例えば、泡坂妻夫やその代表作〈亜愛一郎〉シリーズ――わたしの知る範囲でもっともチェスタトンに近付き、ある意味では超えてしまったのが、天城一です。たとえば、チェスタトン的な密室の発想を限界まで推し進め、文字通りの《神殺し》を達成する「高天原の犯罪」は、そのトリックによって戦後の日本を射貫いてみせます*5。そのほか天城一の密室犯罪学教程』に収められた数々の密室ミステリは、歪なまでにトリックを重視してストイックに造形されながら、どうしようもなく《戦後》を炙り出し、この項の冒頭の問いを考えさせずにはおきません。

 以上挙げた3冊と《トリックに何ができるか?》と云う問いの関係は、逆でも捉えられます。つまり《トリックに何ができるか?》と云う視点を持って以上の3冊を読めば、ただ独創性や意外性をみるだけでは気付きにくいこれらの作品の技巧、批評に耐えうる強度を発見できるはずです。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 
天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

 

 

巡礼者たち

  《人間と云う名の謎》の存在を捉えるだけでなく、さらにそこへと分け入るとき、目の前に現れるのは底知れない深淵でしょうか、あるいはただ周辺を虚しく経巡るだけに終わるのでしょうか。ここでは、登場人物や読者自身がその淵/縁を旅する巡礼者となるような4作品を挙げました。

 ウラジーミル・ナボコフはその文章・描写に仕掛けられた技巧こそ読み解くべきであり、この読解こそミステリらしいと云えなくもありませんが、あえて『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を挙げたのは、夭折の作家であり腹違いの兄の生涯を辿る旅と云うそのプロットが、明らかにハードボイルド的な探偵小説のそれだからです。ミステリに何ができるだろう?――ここまで読んだ方は察しているかも知れませんが、この問いこそ、わたしにとっての追うべき大きな主題のひとつです。

 『Q.E.D. 証明終了』は加藤元浩によるミステリ漫画シリーズ。スマートな犯人当てから現代を鋭く捉えた社会派作品、ギミックを凝らした実験的小品、重い歴史や人間の在り様を問う力作まで幅広く揃え、またほとんどが1話完結なので、主人公たちの基本設定さえわかっていればどこからでも読める、ミステリの面白さとその可能性を伝えるには格好の作品です。ここで挙げている20作を読むよりもこのシリーズを読みあさる方が、あるいは有意義でしょう。この項の題の元ネタでもある「巡礼」は、そんなシリーズのなかでも特A級の傑作。妻を殺した犯人の命を救った男、想像を絶する巡礼の旅が彼に底知れない慈愛の心を持たせたのか、それとも……。少年探偵がたどり着く結論は人間心理の深淵を覗くものですが、深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いていると云うことを忘れてはなりません。ひとりの人間についての物語であると同時に、これは彼について語ろうとするひとびとの物語でもあります。巡礼者とは果たして、誰のことでしょう。

 小川哲はわたしがいまもっとも期待している小説家です。ポルポトによる虐殺を題材にしたSF巨篇『ゲームの王国』を読んだときからその高い技量に注目していましたが、稀代のマジシャンが仕掛けた最後のトリックとその再演を描く「魔術師」で、ミステリを書くちからがあることを確信し、完全にファンとなりました。ただし「魔術師」がミステリかと云うと躊躇いがあります。ミステリやSFと云ったジャンルの枠を、あくまで軽やかに超越して《魅せる》ことが、その面白さの理由だからです。これもまた《ミステリに何ができるか?》を考えさせる作品と云えます。

 父の思い出話に出てきたその男は、放浪中の種田山頭火ではなかったか――丸谷才一「横しぐれ」における文学と歴史を紐解く旅は、やがて思いがけず家族の物語を浮かび上がらせます。わたしがここまで《人間と云う名の謎》や《巡礼》などと無理矢理に云い表してきたものが、本作には端的に描かれています。

 さて、余談ですが、わざわざ「巡礼者たち」なる項を設けたのにはわけがあります。実は「巡礼」と「横しぐれ」は、国内ミステリ短篇における私的オールタイムベスト、そのトップ2なのです*6。これに「魔術師」を加えてトップ3となり、わたしの自己紹介代わりのリストになることを意図するならば、この項は是非とも入れておきたいテーマでした。

嘘と正典

嘘と正典

  • 作者:小川 哲
  • 発売日: 2019/09/19
  • メディア: 単行本
 
嘘と正典より「魔術師」無料配信版

嘘と正典より「魔術師」無料配信版

 
横しぐれ (講談社文芸文庫)

横しぐれ (講談社文芸文庫)

  • 作者:丸谷 才一
  • 発売日: 1989/12/26
  • メディア: 文庫
 

 

忘られぬ幕切れ

  終わり良ければすべて良しなどと云うつもりはありませんが、小説にせよ映画にせよ漫画にせよ舞台にせよ、幕切れが良ければ作品の評価は高まるはずです。物語のプロットは得てしてそのラストに向けて駆動してゆくのであり、ミステリでもそれは変わらない。謎が解かれて終わるのではありません。謎解きの向こう側――ときとして謎が解かれる瞬間が最後に配置されることもありますが――に描かれるラストシーンはまさに画竜点睛であり、そのひと筆が物語全体を引き立て得るのです。

 そこでふたたび登場願うのがエラリイ・クイーン――作者の意味でも、探偵の意味でも。閉じた場におけるフーダニットではなく、無数の人間集まるニューヨークを襲った連続殺人に挑む『九尾の猫』は、探偵エラリイの悲壮な戦いの果て、いっそ神がかったラストシーンへとたどり着きます。終盤に想起されるホロコーストの記憶も見逃してはならないでしょう。謎解きの向こう側で、物語の射程は一気に広がります。なお、『九尾の猫』はよく、『十日間の不思議』のあとに読むことが推奨されます。個人的には単独で読めると思いますが、やはり『十日間』、そしてその前の『フォックス家の殺人』と併せて読むことで、あのラストシーンはいっそう美しく感ぜられるはずです*7

 ハードボイルドの巨匠として知られるロス・マクドナルドは、しかしハードボイルドと云うそれはそれで捉え難いジャンル名よりは、アメリカの悲劇、家族の悲劇、そして類い希なラストシーン、と云った言葉で紹介した方が手を伸ばしやすいでしょう。なんとなればハードボイルドを心なしか敬遠していたわたし自身が、そのような言葉で薦められ、読んで感動したのが『ギャルトン事件』だから。終盤の加速と、厳かなまでに美しい幕切れをご覧ください。

 上記2つの美しいラストとは違う意味で、ヒラリー・ウォー『生まれながらの犠牲者』のラスト数頁は《忘られぬ幕切れ》です。それまでの地道な捜査過程で仄めかされ、象られていったタイトル――《生まれながらの犠牲者》の意味が明かされてゆくこの静かな叫びのごとき独白と、その最後のひと言が、あまりに痛ましい。

生まれながらの犠牲者 (創元推理文庫)

生まれながらの犠牲者 (創元推理文庫)

 

 

過ぎ去りゆくもの

  得てしてミステリ、とくに本格と呼ばれるジャンルは、時間が静止してひとまとまりになった印象を抱かせます。作中で時間が経過しようとも、最後に明かされる《謎解き》がそれまでの物語をひとつの《構図》へと回収するからです。ではこの構図に抗って、とても回収できない時間を生み、とてもまとめられない幾つもの人生を描いたとき、どのような物語が書かれ得るでしょうか。それはともするとミステリの営みから離れる行為ですが、距離を取ることではじめて見えてくるものがあるでしょうし、遠くからミステリへ帰ってきたとき、新しい視座をジャンルへともたらすことができるかも知れません。

 アガサ・クリスティー『五匹の子豚』は過去の謎を当時の記録や証言、現在の記憶をもとに推理する、いわゆる《回想の殺人》ものです。この様式を採用することでクリスティーは、過ぎ去ってしまった時間、取り返しのきかない人生をミステリのなかで描くことに成功しました。インタビューを通して浮かび上がる容疑者ひとりひとりの人間像、再構成される事件、忘れ難い風景、ダブルミーニング、転換――華々しいどんでん返しこそありませんが、時間と人生を描くことでいっそうその魅力を増した、それらクリスティーが得意とする要素すべてがひとつの到達点を示した傑作です。

 複雑な人間、無数の人生、取り返しのつかない時間、それら構図にまつろわぬものについて考えるならば、この世界の複雑性に思いを巡らせずにはおれず、自ずと、現実をいかにして語るか、と云う問題に突き当たります。それはつまり《物語に何ができるか?》と云うさらに踏み込んだ問いと向き合うことであり、そのうえで、フィクションとノンフィクションのあわいに立って、中国人移民の家族を豊かな表現と想像力で語り上げたマキシーン・ホン・キングストン『チャイナ・メン』はきっと重要な示唆を与えてくれるでしょう。歴史と云う濁流にかき消された声が響き合うと云う意味では豊かで賑々しく、彼らの声なき声に耳を澄ますと云う意味では静かで厳かな、力強いナラティヴです。

 『チャイナ・メン』をさらにノンフィクションへ寄せ、あくまでジャーナリズムを意識しながら、声なき声に耳を傾けたのが龍應台台湾海峡一九四九』です。島自体が歴史の濁流に翻弄された台湾のひとびと――大陸からの移民、あるいは欧米人や日本人も含めて――の人生を語ったこの本を大学1回生の春に読んだ経験が、いまのわたしと云う樹冠において幹に近い、重要な位置を占めています。

チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)

 
台湾海峡一九四九

台湾海峡一九四九

  • 作者:龍 應台
  • 発売日: 2012/06/22
  • メディア: ハードカバー
 

 

樹冠の美しさ

  ここまで、《樹冠》と云う表現を何度か使いました。念頭に置いていたのは冒頭にも引用したパウル・クレー『造形思考』ですが*8、もうひとつ、アメリ現代文学の代表的作家にして個人的にもっとも好きな海外作家のひとり*9であるリチャード・パワーズの最新作――『オーバーストーリー』のことももちろん、意識していました。アメリカの原生林を救うため、何かに導かれるようにして集まった男女の物語を、樹の構造になぞらえて描いた本作は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』や『エコー・メイカー』など、ほかの作品でも用いられていた、主題と物語の構造を一致させる鮮やかな手法がとりわけわかりやすくあらわれています。圧倒的な密度の文章、印象的なキャラクターたち、彼らを繋げ、導いてゆく力強いストーリー、胸の底から湧き上がる感動、不思議な静けさ、漲る熱、それらを味わうだけで精一杯かも知れませんが――読んでいる途中、わたしは精一杯でした――主題と物語の構造の一致と云う点に眼を向ければ、これまでしつこいくらいに語ってきた《構図》と云う言葉がまた、立ち現れてきます。

 それでは、最後にこの《構図》について語った評論を紹介して終わりましょう。

オーバーストーリー

オーバーストーリー

 

 

構図と云うこと

  ミステリの営為としての構図、その抗いがたい引力をあくまで平易な言葉とわかりやすい例示で論じた「暗合ということ」は、それ自体がまるでミステリのようにひとつの構図を描き、読んだ者はその引力の影響を受けずにはおれません。かく云うわたしもそのひとり。

 おそらくミステリ研に入ると、自分の考えを言葉で表明するのを求められると思います。多くの場合、それは思想・感想の共有のためでしょう。自分の樹冠を明確に認識するためでもあるかも知れません。しかし言葉にすることで、もしかすると相手の樹冠を揺さぶれるかも知れない。巽昌章の評論・エッセイは、そんな《語ること》の凄みがあります。この面白さ、凄み、あるいは恐ろしさを理解するためにも、自分じしんの樹冠を意識し、茂らせ、伸ばしてゆくことが重要なのです。

 

 以上、20作品の紹介を終わります。思いのほか長くなりましたが、何かの参考になれば幸いです。

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

造形思考(上) (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:さらにその前に、大刀洗万智と云うひとりの人間であることを忘れてはならないでしょう

*2:この対比もまた構図です、構図を示すことでわかりやすく、受け容れやすくなります

*3:逆に、留まらない基礎教養的古典があるのでしょうか? 時代を超えた古典作品は得てして、そのような強度、膂力を持っているものです

*4:個人的なおすすめは「裏切り者と英雄のテーマ」

*5:この作品に満ちる静かな怒りは、ブラウン神父の説教とは異なる、重く、烈しい印象を刻みます

*6:「巡礼」には、《巡礼者》の謎を追ったノンフィクション作家の娘が登場しますが、もしも彼女を中心に置いて物語が再構成されたなら、「横しぐれ」に近い読み味になったはずです。もちろん、そうはならなかったことに、「巡礼」の独自性と魅力があるのですが

*7:ここで朗報。今年から来年にかけて『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』の新訳が刊行されるそうです(訳者のツイート→https://twitter.com/t_echizen/status/1250341274005078018?s=20

*8:《芸術家のする仕事は、定められた地点で、つまり樹木の幹として、深部から上昇してくるものを集約し、さらにそれを上方に導くこと以外のものではありません。一言でいうならば、芸術家たちは支配者でも、召使いでもなく、単なる仲介者にすぎないのです。/ですから、芸術家とは、何というつつましい存在なのでしょう。樹冠の美しさ。それは決して芸術家その人の美しさではなく、ただ彼を媒介として生れたに過ぎないのです。》(パウル・クレー『造形思考〔上〕』)

*9:とは云え、まだ3冊しか読んでいないのですが……、一作一作が長い上に高い……