実家に帰った途端、体調はずいぶんマシになった。自分の部屋を取り返せたのも理由だろうが、やはり下宿との大きな違いは、誰かとの接触、それにともなう単調な毎日の揺らぎだろう。
あまりにも予定を崩されると苛立つこともあるけれど、こちらから積極的に調和を求めずとも単調で退屈になってゆく毎日のなかではむしろ、調和が少し崩されるくらいが丁度良いのかも知れない。朝食、講義、昼食、講義、おやつ、夕食、食後のコーヒー――下宿でこのリズムを再現してもかえって疲れるだけだとわかった。重要なのは、その単調さのなかに生れる揺らぎなのだ。
日々、ニュースやインターネットを通して、嫌なものが目に入る。厄介なのは、耳を塞いで目を閉じたところで、自分自身から逃れることができないことだ。膨らむ嫌な想像、回転する被害妄想。頭の中でおこなわれる自分と仮想敵が切り結びに脳のリソースは使い果たされ、うまく小説を読むことができない。
まあこれは、今回のパンデミック以前、去年あたりからずっと悩まされていたことだ。仮想敵が生れる種はミステリ研内にもある。誰かと繋がり続ける限り彼は生れ続けるのだろう。いまよりも楽にひとと接することができた中高生の頃が、いまは少しばかり懐かしい。
W・G・ゼーバルト『移民たち:四つの長い物語』と東雅夫=編『平成怪奇小説傑作集〈2〉』を読み終えた。ゼーバルトは好むと好まざるとに関わらず、その主題と手法の点でずっと読みたかった作家だ。
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— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月16日
低い声で静かに、しかし決して寡黙にならずむしろ饒舌に語られる幾つもの人生。記録は失われ、記憶は忘れられ、事実と虚構は曖昧で、書くことそれ自体も胡散臭い、それでも死者たちは不意に、眩いばかりに想起される。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月16日
文章と写真が見事に共鳴――と云えば良いのか、互いが互いの読みを促し、直接的に繋がっていないはずの両者、あるいは写真と写真、あるいは文章と文章の間隙、空白に読んでいる自分の溶かし込まれそうになる錯覚。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月16日
過去の経験を遡っても思い当たらない読書体験だ。けれどもちろん、その真価は新鮮さにあるのではない。むしろどこかで誰かが成し遂げていてもおかしくないと考えていた偉業をようやく目の当たりにした、そんな納得を覚える。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月16日
もっと淡々とした、最近読んだ中ではたとえばそう『アメリカ大陸のナチ文学』のような語りが好きなのだけれど、あの語りではこの写真と一緒に生み出す効果は得られないのだろうな。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月16日
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— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
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総じて、文体レベルで新鮮に感じる。解像度の粗いどこか現実味が欠けたような語り――そう、まるでビデオテープのような!――がかえって不気味な「空に浮かぶ棺」など。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
傑作集ゆえ全体的に面白く読める一方で、どうにも趣味ではないとも感じる作品もあり、けれどそれを知るためにでも読んで良かった。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
はじめて読んだなかでとくに面白かったのは、壮大で哀しくて感動的な風景をあくまで仄めかすに留める勝山海百合「軍馬の帰還」、イメージやモチーフ、プロットを扱う手捌きが憎たらしいほど鮮やかな山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」。山白は乙一の変名と知って納得。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
「鳥とファフロッキーズ現象について」はツイストと伏線が一見余計に見えるほど出し抜けだけれど、それによって物語がこうして綺麗に折り畳まれ、山場も落ちも作られているのを見ると、本当に、憎たらしいまでにうまいと云わざるを得ない。まあそれでも、口を滑らせたくだりは唐突すぎるが。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
映画『若おかみは小学生!』を見た。映画そのものは、積極的に褒めることはしないが、総じて、とくに終盤は興味深い。ただそれとは別に、映画を巡る《わかっている大人》たちの(肯定的にせよ、否定的にせよ)態度が気になってしまった。もちろん《わかっている大人》とは皮肉だ。少女の選択を大人の態度だと言祝いだり、それは労働に人間性が剥奪されただけだと憤ったりする彼らが、本当にわかっているとは思えない*1。
映画『若おかみは小学生!』観た。終盤、振り向いた彼女が涙を流して若女将を名乗る場面は、『天気の子』のラストシーンを想起させる。彼女はかくして大丈夫になった、なってしまったのだ。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
前半はあまりの手捌きの良さに騙されている気分になって、けっこう批判的に見ていたのだけれど、終盤でその手つきは、あまりのきつさとぎりぎりで切り結んでいるように思える。そして最後には競り勝つわけだが、あの場を扱いあぐねて無理矢理手札をすべて場に出しているような手捌きは嫌いになれない。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
グローリー某の無理矢理な投入とか。よっぽど処理できなかったんだろう。逆に云うと、それだけ扱いかねてもなおあれを描こうとした結果、ある意味とんでもなくグロテスクで悲しい、しかしある意味では感動的な、あの場面に至った。そこは評価したい。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
すぐに名前が出てこなかったので《某》でごまかしてしまった。彼女はグローリー水領と云うらしい。
いやでも、本当にあれは《大丈夫だ》ですよ。ぼくは彼女に云うべき言葉を(いまだ)持たない。その選択を言祝ごうが、それは間違っていると叫ぼうが、あるいは周囲の大人を告発しようが、きっと彼女には届かない。なぜなら彼女は《大丈夫》なので。うわあ。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
全篇通して語られているのは《死をどう受け止めるか》と《人生をどう引き受けるか》。その答えとして(いまの)彼女は、若女将になることを選んだわけだ。これが彼女の人生になった。それは悲劇かも知れない。けれどその物語を彼女は生きることにした。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
小学生に労働させてんじゃねえ、と云う批判については、それはそう。小学生に労働させてんじゃねえ。とは云えその辺は作中における小学生の描かれ方も踏まえないと、妥当な作品批判にはなり得ないだろう。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
全体としてキャラクターではなく人間を描こうとしている――まあ両者の違いをまだ明文化できていないので感覚的な話になってしまうんですが、属性や一貫性に囚われず人間の複雑さを捉えようとしている、ように思う。個人的には、まずその複雑さを受け止めたい。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
彼女の選択を見て《偉い、大人だ!》と褒め称える前に、あるいは《間違っている、騙されるな!》と憤る前に、それが彼女の引き受けた人生であり、死の受け止め方であることを忘れたくはない。そもそもいまのところ、そんな反応を示したくないが。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
ちょっと気になるのはあの運転手の心情だったりする。どこか繊細な心を持ち得ないあたりにいやな質感がある人物描写だが、彼はどんな気持ちであのあとを過ごしたんだろう。地獄ではなかろうか。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
これは雑語りですが、短篇直列のプロットが気になる。せっかく旅館が舞台なのだから、ひとりひとりの客を相手にした物語を並列しても良かったのでは。複数の筋がまとまる気持ち良さは堪らないものがあるので、終盤ももっとぐっと押し切れたかも知れない。それが吉と出るか凶と出るかは知らないが。
— Washoe1.9 (@archipelago1999) 2020年5月17日
改めて感想を見返すと、自分の問題意識に引き寄せすぎた感がなくもない。それのなにが悪い、と云い返せるほど、まだぼくの樹冠は強くない。
*1:文脈を取り違えられる危険の比較的少ないブログと云う場に甘えて、少々攻撃的なもの云いをしました、正当だろうがなんだろうが刺々しい表現なのは変わりがないけれど