鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

リュックサックのなかのきかんしゃトーマス、ものを詰め込むことが得意な母、あとグレアム・グリーンや瀬名秀明についていくつか

 その日の朝、背伸びして書棚のいちばん上の段に初めて手が届きました。グレアム・グリーン全集がそこに並んでいて、私は黒い背の部分にこうして指先を引っかけて、重力の助けを借りて手元に落としました。

――瀬名秀明「希望」

 

 子供の頃から荷物を詰めるのが苦手だ。まず、荷物を詰めるにあたってなにを詰めるべきなのか選別することからして得意ではない。必要なのかもよくわからないものをとりあえず手にした順に詰めて、ぎゅうぎゅうになったその箱なり鞄なりを無理矢理閉じた途端、詰めるべきだったものを詰め忘れていたことに気づいたりする。
 小さな頃、祖父母の家へ旅行する際、なにをリュックサックに詰めるべきか迷ったぼくは、当時よく遊んでいたきかんしゃトーマスのおもちゃを詰めた。もちろん線路の模型も何本か。確か、リュックサックもトーマスの絵柄だったのではないかと思う。たぶん、祖父母宅で遊ぶために詰めたのだろうけれど(なにせ幼い感覚からすれば、祖父母の家は僻地中の僻地にあったから)、祖父母宅でトーマスのおもちゃを遊んだ記憶はない。たんに忘れてしまったのか、祖父母や兄とじゃれているうちに旅行が終わったのか、旅立つ前に母に没収されたのか。いずれにせよ、その頃からぼくは荷造りが下手だった。よく遊んでいたと云ってもことさら愛着があったわけでもないトーマスのおもちゃをわざわざリュックサックに詰めたのは、荷造りのときに目についたからと云う以上の理由はないはずだ。
 成長してからも、旅行の荷造りが最小限の荷物で済むことはなかった。いまも克服できていない。

 対照的に、母はものを詰めるのがうまい。あの量の荷物をどうやってこの容積に詰められるのか、と、あとから箱や鞄を眺めて首をひねったことが何度もある。一切の隙間なく、ひとつひとつの荷物が、まるではじめからパズルのピースとして用意されたかのようにぴったり詰められた鞄や収納箱や押し入れは、母以外に誰もパズルの解答を知らないから、わが家では母以外が触れることを許されていない。一度なにかを取り出したら最後、もう元通りには詰められなくなる。もしそうなったとき、困った挙句に助けを求めると、母はいつも、幾つかの中身を入れ替えたりずらしたりするだけで綺麗に、美しく戻してしまう。こんな特技を持ちながら、空間把握能力が卓越しているわけでもないのがなおさら不思議で、その魔法のような荷物捌きには子供の頃から興味が尽きない。
 たぶんぼくは父に似たのだろう。本棚に本を詰められず居間にまで浸食してきた父の蔵書が、幼いぼくと本の出会いだった。

 本来は無関係だったはずのものたちが、はじめから定められていたように噛み合い、組み合わされ、ひとつの容れ物にすっぽりと詰められる。それはすぐれて愉快でありながら、崩壊を一歩手前に控えた、危うい光景でもある。危ういからこそ愉快なのだ。
 その愉しさは、ときとして小説でも見られるものだろう。
 瀬名秀明「希望」はグレアム・グリーンの話から始まって、重力、科学のエレガンス、痛みと共感、テロリズム、ジャーナリズム、祈り、そして希望……様々な要素を中篇のサイズに詰め込みながら、しかし奇妙に《無理矢理》とは感じさせず、いっそ綺麗なまでにまとめてみせる。あまりの要素の多さ、主題のわかりづらさ、何より内容の難解さから、評価は分かれるだろうけれど、こんなに幅の広い要素を鮮やかに詰め込んだ小説はなかなか見られるものではない。
 これは決して、その尖り具合や、異形っぷりを好んでいる、と云うわけではないのが重要だ。やたらめったら詰め込んで、ほとんど崩壊寸前まで行きながら、むしろ強固なまでに物語が起ち上がってしまう不思議。ぼくが好きな作家であるリチャード・パワーズで云えば、『舞踏会へ向かう三人の農夫』の筆致の熱量、ここに全てを詰め込むと云う勢い、ずっと破裂し続けているような圧力ではなく、『エコー・メイカー』の、様々な分野を横断的に参照しながら、卓越した筆致で綺麗にまとめてしまうことの面白さ、これである。
 あくまで個人的に感じる面白さだから、言葉でぴたりと一般化できない。だから代わりに、例を幾つか挙げておこう。最近読んだなかでは、桐山襲「風のクロニクル」は、学生運動から内ゲバの時代を中心に置きつつ、複数の語りの形式を織り交ぜながら波状的に物語の射程を拡げ、沖縄や南方熊楠、そして《神々》までも捕捉し、かなり無理がありつつもまとめ上げた力作だった。この《無理》も、ひとつの明確な思想ではなくそれぞれがそれぞれ自分でもわからないままに流れを作り出していった「あの時代」を描いたこの作品にあっては、必ずしも瑕疵になっていない。
 野田秀樹の戯曲「オイル」も良かった。出雲=イスラムと云うような言葉遊びが散らかりかねないエピソードをギリギリで結びつけながら、神話の時代から第二次世界大戦、そして9・11までを転がり抜け、テロルと復讐の凄絶な物語を起ち上げる。最後の「助けて」は、ただ一点の悲劇を衝いただけでは、ここまでの迫力と痛ましさを持ち得なかったはずだ。
 それから、「希望」でも言及されていた作家であるグレアム・グリーン。短篇集を読むと、おおむねコンパクトにまとめつつ毒や針を仕込む、と云う印象を受けるけれど、「庭の下」と云う中篇は明らかに毛色が異なる。入れ子構造の物語を通して幻想のノスタルジーと輝かしさと不気味さ、あるいは現実の苦さ、そしてそれらの言葉では拾いきれない強烈なシーンや言葉を、ひとによってはすでに崩壊していると云うかも知れないプロットに詰め込み、豊穣で、底知れない、圧倒的な読書体験をもたらすこの作品は、しかし読後、ぼくの母がいつかそうしたように、すっぽりと鞄の蓋を閉めるのだ。わからないことはたくさんある、得体の知れないものがたくさん詰まっている、けれども不思議と鞄は閉まっていて、ずっしりとした確かな重みがかえって心地良い。
 少しばかり長い旅から帰ってきたとき、手にした荷物の重さが、旅の記憶を確かめさせる。これは、そう云う心地よさである。

 ところで、「庭の下」が収められた『見えない日本の紳士たち』には「旅行カバン」と云う、まさに、なタイトルの短篇が入っている。ここまで語ってきた面白さがあるわけではないけれど、開かれない鞄の存在が特に事件が起きないなかでただただ不穏に、強烈な印象を残すこの忘れ難い短篇から、本記事は発想された――と云うわけでもないのが、偶然の《符合》の面白さだろう。

見えない日本の紳士たち (ハヤカワepi文庫)
 
希望 (ハヤカワ文庫JA)

希望 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:瀬名 秀明
  • 発売日: 2011/07/08
  • メディア: 文庫