鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記2020/08/03

 伴名練=編『日本SFの臨界点』の[恋愛篇][怪奇篇]を読んだ。ナンバリングしていないのはあわよくば続篇を出そうとしているからだろうか。
 このところしばらく、小説を読むことができない、なにが面白くて小説を読んでいたのか思い出せない、と云う状況が続いていた。それでもやはり面白い小説を読めばそんな気分はどこかへ散ってしまうもので、あっと云うまに読むことができたし、早速ほかの小説にも手を付けている。ただ、小説への問題意識を一度でも抱くと、自分で自分の感想の妥当性がよくわからなくなってしまうのはいまも続いている。
 ある程度の鋭さを失うことなく、しかし決定的な部分にはむしろ鈍感でいること。楽しく小説を読むコツはそんなものなのかも知れない。
 以下、簡単な感想を箇条書きで。

  • 一般的にはタイトルの裏1ページで抑えるはずの著者紹介が3ページも続くのが特徴。情報量と意気込みが伝わる。
  • 長い著者紹介と云えばハーラン・エリスン『危険なヴィジョン』。あの饒舌っぷりに較べれば伴名練もまだまだと云う感じだが、これは較べる相手が強すぎる上に、あれを真似したところでエリスンを越えられるわけでもなし、『臨界点』の紹介文はこれはこれで丁寧かつ確かな熱が伝わってくる良い解説だと思う。
  • 具体的に作品を見ていくと、[恋愛篇]は中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」、和田毅「生まれくる者、死にゆく者」、小田雅久仁「人生、信号待ち」、新城カズマ「月を買った御婦人」が、[怪奇篇]は中島らも「DECO-CHIN」、岡崎弘明「ぎゅうぎゅう」、中原涼「笑う宇宙」、石黒達昌「雪女」が面白く思えた。
  • 「死んだ恋人からの手紙」は宇宙の彼方で戦死した恋人のもとから、手紙が時系列をバラバラにして届く、と云ういかにも切ない設定が、主題を反映しているのが鮮やか。解説でも言及されているとおり、海外の有名作品でも同様の設定が使われているけれど、あちらは家族を、こちらは恋人を主役にすることで、異なる味わいがでている。単に主題と形式だけでなく、《恋愛》と《友情》の話であることが重要なのだ。恋人の戦友の話は主題をわかりやすくするとともに物語を多層的に起ち上げる効果があるが、相似形が露骨と云えばそうかも知れない。
  • 「生まれくる者、死にゆく者」は生死が確率で表されると云う設定とあくまでさりげない描写が見事。ただ、落ちはもっと読者に委ねてくれて良い。
  • 「人生、信号待ち」を読んで真っ先に思い出したのは山野浩一「メシメリ街道」。あれも道を不条理に渡れない話だったはずだけれど、思索が冷え冷えとした印象を抱かせる山野浩一と異なって、こちらはエモーションに振っている。それでも若干、怖いのだが。メタファーとして現実の感覚を想起させながら、いざメタファーとして読もうとするとするりと手から抜けてゆく感覚は「11階」同様。
  • 「月を買った御婦人」は終盤の手捌きが素晴らしい。「ありがち」だとか「陳腐」だとかを「これ以外ない」にできるかどうかと云う賭けに、この短篇は、あの御婦人は、勝ったのだ。
  • 「DECO-CHIN」はグロテスクな身体描写で無理矢理こじ開けられた五感に音楽描写を流し込み、陶然としているうちにとんでもないものを《挿入》してくるとんでもない話。どこから読んでも良いと伴名練は云っているけれど、これを巻頭に置くのはたぶん狙っている。
  • 「ぎゅうぎゅう」は、なんだろうな、好きなんですよ、こう云うの。中井紀夫にも通じる魅力だけれども、凝っているのにどこか素朴で、それゆに深く潜り込んでくる。
  • 「笑う宇宙」は結末でふうんなどと思ってしまいつつ、それ以外にないと云えばそうかも知れない。狂った状況の盛り上げ、その段取りが抜群。
  • 「雪女」と云うか石黒達昌と云う作家を読めたのがこのアンソロジー最大の収穫だろう。レポートの形式でディテールを積み上げつつ、核心的な部分を語らない(語り得ない)手法は、いつか書いてみたいと思っていたひとつの理想を体現している。ただ感心する一方で、叙情を排した語りによってかえってエモーショナルにすると云う手法のためにジャーナリズムが採用されているようにも思え、それはジャーナリズムの欺瞞を開き直ってはいないか、などとも感じる。いろいろな意味で学ぶべきところの多い作品。
  • 気になった点。[怪奇篇]の編集後記での《「SFファンを名乗りたいなら千冊読め」というタイプの人間は丁重にお引き取り願いましょう》と云う言葉には賛同するものの、そう云うタイプの人間が良くないのはひとを抑圧するその態度であって、そう云うタイプの人間を「教養主義」などと呼んでしまうことはいささか危険だ。「教養主義に基づいてひとを抑圧してくる読み手を排除する行為」の次に待つのは「教養主義の排除」ではないだろうか。それは容易く、「ある程度系統立てて読んでいるひとへの抑圧」に転じうる。あるいは、系統立てて読む行為じたいが忌避されると、古典などに遡ることなく「好きな作家だけを読み続ける」「好きな作品だけを読み続ける」「好きなジャンルだけを読み続ける」ような事態を招くだろう。個人で読むならまだしも、たとえば文芸サークルで一部でもそのような事態になれば、集団としての風通しが悪くなってしまう。
  • 義務感を持って読み進めることによって開かれる扉は、ある。それによってはじめて得られる愉しさも、ある。楽しく読むことを否定するつもりは一切ないけれども、そのことを忘れてほしくない。
  • たとえば、伴名練はV巻から読み始めて良いと云う〈日本SF短篇50〉だが、瀬名秀明きみに読む物語」を50篇の最後に読むと、おそらく単体では得られない感動を得ることができる。ぼくはできた。なぜならアンソロジーはただの作品の寄せ集めではなく、それ自体がひとつの作品だからだ。〈20世紀SF〉全6巻も、通して読み切ることでまるで大長篇を読み終えたような確かな満足と昂奮を得られる。
  • 要するに、体力や気力、興味と相談しつつ、もし可能ならば系統立てた読みや何らかの権威や教養に身を委ねる読みもしてみたって良いのではないでしょうか。無理に教養を深める必要はないけれど、教養を深めることを妨げられるべきでもない。