前回の読書日記が微妙に拡散されたらしい。念のために書いておくと、ぼくはまったく体系立てて読まないひとを批難するつもりはない。体系立てて読むべきだと強制もしない。自分の体力・気力・趣味嗜好と相談しながら、好きに読めば良いと思う。ただ、読んだ上で「語る」場合は、なんらかの取り落としを指摘される覚悟をするべきだ。もちろんこれは個人の心構えのだけの問題ではなく、なにかを語ると、ちゃんと耳を傾けてくれる、と云う信頼を構築できるか――ちゃんと耳を傾けてくれる相手には、幾らかでも気負わず、ちゃんと語ることができるはずだ――と云うあなたとわたしと愉快な仲間たちとそのほか大勢の問題である。
本来、このような話は、ぼくのブログを読みに来るようなひとたちならばとっくにわかっていただいていることだろうと思う。あるいは、もし反論があるとしても、以上の言葉に耳を傾けてくれていると思う、と云うか、信じている。
ただ、信頼は裏切られることもある。そんなもの知らない、と切り捨てられることもある。悲しいことだ。これからぼく以外の誰かがそのような悲しみを経験しないよう(注意していただきたいのだが、ぼく自身がそのように悲しんだことがあると云うことをこれは意味しない)、いちおう、書き添えておく。
高山羽根子『首里の馬』を読んだ。まだ芥川賞候補に挙げられる前、「巨きなものの還る場所」を読んで以来のファンだったから、と云うかぼくが新刊をチェックする数少ない現役作家だったから(ぼくが作家単位で嵌まることはあまりない)、このようなかたちで栄誉が与えられること、名前が広く知られ、作品が読まれることは素直に嬉しい。
以下、簡単な感想と、取り留めのないあれこれ。
- ぼくが高山羽根子の小説で好きなのは、全体にフォーカスが効いたような細やかな描写と、大いなる何かに触れている感覚である。両者はセットである。《巨きなもの》の皮膚を細やかな筆致でなぞる――以前ひとが高山作品を評した言葉を拝借すると――「群盲象を撫でる」ような小説。
- 細やかな描写、細やかなもの、それらが集められ、積み重ねられ、組み上げられ、《巨きなもの》を呼び出す、と云っても良い。ただ単に、大きな風呂敷に、大きなものを描き出すだけでは、そいつは呼び寄せられない。
- わかりやすい物語や《普通》の認識――それら解釈の格子からは取りこぼされるもの。そう云うものを見つめるとき、思いがけないものが呼び出されるような気がする。その大きさに圧倒される。街を歩いていて、少しばかり古い家の前で足を止めるととくに、そのような感覚に晒される。だから、高山作品の以上のような性質は、自分の感覚にとてもなじむのだ。
- 『首里の馬』は、この、ささやかなものと大いなるなにかとの接続それ自体を中心に取り上げている。一見すると関係が見えない様々な要素が、終盤にかけてひとつの主題を浮かび上がらせ、その主題自体がこの小説と呼応し、震えるような読書体験を生み出している。
- 沖縄や、60年代末~70年代にかけての時代など、ぼくの個人的な興味を知っているかのように取り上げているのも驚いた。ささやかで取りこぼされがちなものまで拾い上げること、断絶や破壊や大量死のあとの風景――などのテーマも、まるでぼくの心を読んでいたのかとさえ思える。これは錯覚だろうか。
- 錯覚かも知れない。けれど、錯覚でも良いから、本来繋がらないはずのものが繋がって、なにか大いなるものを呼び寄せられるかも知れない。「錯覚」を「虚構」と云い換えれば、それは小説のひとつの効力だと云うこともできる。
- あるいは、本作のような主題を語ろうとすれば、遅かれ早かれ、沖縄やあの時代に行き着くのかも知れない。
- 取り留めのない自分語りに終始した気がする。
- 本来なら、ひとりでこのように書き散らすのではなく、細かな部分を取り上げながらいろいろ語りたい、語るべき作品だろう。語り合うことでより豊かになる作品である(多くの良い小説がそうであると云えばそうだ)
はじめの話に戻ろう。ひとりで読むぶんには、小説なんて好きに読めば良いと思う、と云うのは本当だ。ひとの読みを抑圧するべきでない、とも思っている。けれど、そもそも、だれもひとりで読むことはできないのだ。誰かの真似をすることはつかれるが、誰かの読みを参照しない限り読み進めることはできないし、耳を塞いでひとりで読もうとも、自分のなかの様々な声が――小説のなかの声も入り混じりながら――その「読み」には響いているはずだ。
自分のなかで、あなたとわたしの間で、あなたとわたしと愉快な仲間たちとそのほか大勢のうちで、そのような様々な声が響き合えば良い、と願っている。