感情をむきだしにした議論の際によくあるように、事実にのみ気を取られて興奮し、それゆえ事実をゆがめることもあえてしようとするある集団の現実的な利害は、それとは反対に事実にはいささかの興味も持たず、事実を単に〈観念〉への跳躍台と見なす知識人の奔放なインスピレーションとたちまちぶつかって、始末に負えない乱闘が生ずる。
以上を引用した理由はこの記事の本題である小説の感想とはなんら関係がない。ただ、アーレントがアイヒマンの裁判を報告するにあたって、そのあとがきでかなり念を押していたのは、この報告があくまでも報告であること、誰もがアイヒマンになり得ると云うような観念的な議論とは話が別であることだったと云うのを、最近twitterの嫌なニュースとそれを巡るアレコレを目にするにつけ思い出すからだ。安楽死の善悪の問題と、自殺幇助の事件およびその捜査・起訴・裁きは、決して無関係ではないとは云っても、同じものとして扱われるべきではない。人気漫画の連載が原作者の逮捕によって終了する事態と、逮捕された人間の処遇、事件の捜査・起訴・裁きもやはり、同じテーブルで同時に語ることには無理があり、ましてや、表現の自由だのポリティカル・コレクトネスだのフィクションを殺すのは誰かだのと云った問題をや。
終了してしまった漫画をぼくは読んでいないのでなにか云うべき立場ではないし、上記の理由からあくまで別の話として読んでいただきたいのだけれど、作品と作者についての個人的な考えを一部、述べておくと、読み手からすれば作品が全てであって作者など知ったことではないはずで、だのに作者の都合次第で作品がどうにかなってしまう、その「仕方の無さ」を理不尽だと思う。作品を創作することと作品を鑑賞することは決して、作品を間に挟んだ鏡映しの関係にはない。しかしそれでも、作者は(出版社などの周辺も作り手として含めれば)厳然として存在し、ぼく自身もなにかを書こうとしてしまう。そのいかんともしがたさが煩わしい。
そもそもフィクションと現実の関係(と無関係)と云うのは極めて厄介なシロモノであって、まずはその複雑さを受け容れるところから始めなければならない、と思う。けれどこの複雑さについて考え始めると、なにも読めないし、なにも書けない、なにも云えない。最近はそこのところ、うまく立ち位置を定められずにいる。
本題。山白朝子『死者のための音楽』と中田永一『百瀬、こっちを向いて。』『吉祥寺の朝日奈くん』を読んだ。いずれも乙一の変名による著作である。ここにも、作者と作品との関係の複雑さが垣間見える。
- 乙一=中田永一=山白朝子の小説は、ぼくの読み方がひねているのかも知れないが、その手捌きが見えるのがいちばん面白い。
- こう云う着想があって、このように展開すると面白くなって、こうやってツイストを効かせると良い感じにオチが付く――と云うのが、なんとなく透けて見える。その人工性が、作品自体の良い意味でのあっさりとした読み心地と相俟って、いまの自分には気持ち良い。
- たとえば、「ラクガキをめぐる冒険」なんて、オチを付けるために二段構えのツイストを用意したように思われる。「百瀬、こっちを向いて。」も、あるキャラクターの印象の転換と云う後半のひねりがあってこそ、尻切れトンボになりかねないラストを「語りきらないラストシーン」として描けているのだ。
- 「百瀬、こっちを向いて。」はタイトル回収を最後に持ってくると云う技法も使われている。これもラストシーンをラストシーンとして描くために用いているように思える。
- 重要なのは、実際に乙一=中田永一=山白朝子が狙っていようが狙っていまいが、そのように思えると云うことだ。こうして受ける人工的な印象は、必ずしも悪いものではない。
- 呼んだ三冊のうち、既読だった「鳥とファフロツキーズ現象について」(この作品でも、物語を結末へ導くためにミステリ的伏線回収&ツイストが利用されているように思う)を除いてベストを挙げるなら、「なみうちぎわ」だろうか。何はともあれ、ラストシーンが良いのだ。
これからいろいろなことがあるのだろうな、とおもった。でもわたしたちはだいじょうぶだとおもうよ、と小太郎に話をした。だって、わたしはあなたを見すてなかったし、あなたもわたしを見すてなかった。だからだいじょうぶだという気がするんだ。
- ええ、まあ、そう云うことです。彼らは「大丈夫」なんですよ。