なんだか気分が乗らなくてブログを更新していなかった。比較的暇な時間である夜はYouTubeでポケモンのゆっくり実況とかを眺めていた。人間の生の声・息遣いが直接聞えるゲーム実況は申し訳ないがよほどの美声でなければ(つまり声を職業にしているわけでもないかぎり)聞いていられないので基本的に実況の類いはゆっくり実況を観ている。
ウオノラゴンと云うポケモンがカッコカワキモい。なんでも化石が間違って接続されたまま復元されてしまったポケモンだと云う。エグい。カッコカワキモエグい。俄然、ソード/シールドに興味がわき、真剣に購入を検討し始めた。
以下、最近読んだ本について感想を簡単に述べる。こう云うのはやはりtwitterより断然ブログで書くべきだ。twitterは書き手も読み手も基本的に雑だ(ぼくも含めて)。140字×nでまともな文章を書けると思う/まともに文章を読めると思うのが間違いのもとである。しょせんあそこは「つぶやき」の場に過ぎない。
取り上げたい本は少なくないので、書けるところまで書いて疲れたら次回に投げる。
『イメージのヴァナキュラー――写真論講義:実例編』前川修
- 写真はこの夏の個人的テーマのひとつで、写真史や写真論の本をちょこちょこと読んでいる。どのように実を結ぶのかはわからない。ただ、楽しいから読んでいる。
- ちょこちょこと読んでみて驚いたのだけれど、写真に対しては「読む」と云う動詞がよく使われる。ディテールを、とくに写真だからこそ捉えられるともすれば人間の認識が届かないディテールを拾いながら全体の構図も把握し、写真が写しているもの、その写し方、写っていると云うことそのものを「観者」は「読む」のだ。
- 自分の狭い視角ゆえに容易く結びつけてしまうのかも知れないが、その「読み方」は自分にとっての推理小説の「読み方」に近い。どちらも全ての要素がひとつの構図へと回収されるのを眺める一方で、回収されることによって押しつぶされる、あるいは回収されないことで取りこぼされるディテールを見つめようとする、と云うこと。このことはいずれしっかり考えたい。
- 写真はその衝撃的な登場以来、ずっと様々な中間地点(美術か技術か、尊称か侮辱か、個人か全体か、現実か虚構か……)で論じられてきた。そうした写真論を論じるメタ写真論と云うべき論文集が『イメージを逆撫でする』で、本書『イメージのヴァナキュラー』の姉妹篇にあたる。ただ『逆撫で』も一応読んだのだけれど、こちらの勉強不足のためによく議論を追えなかった。
- 『イメージのヴァナキュラー』は写真論の中でも比較的新しい潮流――ヴァナキュラー写真論を実践するための視点・論点を提供する。実際にその視点から切り込んでいくわけではないのは物足りないけれど(具体的に写真を検討し論じるのは第1部のトルボット『自然の鉛筆』*1論くらいだ)、写真の新しい読み方を得られただけでもじゅうぶん刺激的だった。
- ヴァナキュラー写真論と云うのはそれ自体が曖昧なものだけれど、自分が本書を読んで理解した範囲で云えば、「メディアとしての写真」だけでない「モノとしての写真」にも注目した上で、「モノとしての写真」が与える体験も写真を読むと云う行為に含めて論じることを云う。
- 東日本大震災の被災地で著者が経験した写真洗浄のボランティアの話から本書は始まる。この話だけでも抜群に面白い。
- 写真について語られるとき、いつも「写真家」の撮った「作品」の、「イメージ」が取り沙汰される。けれど名も知られない個人たちが残した、技術的にも芸術的にも決して優れているわけではない幾つもの写真――アルバムに挟み込まれたりカンカンにしまい込まれたり壁に貼られたりするそれらは、挟み込まれたアルバムのページをめくる感触や箱の中から、一枚を選び取るときのがさごそと云う音や壁から剥がしたときに残される穴や破れまでも含めて、じゅうぶんに語るべき体験を与えるはずだ。
- 本書は他にも、暗い部屋のなかでスクリーンに投影されるスライドとしての写真や、ペンダントなどに故人の髪の毛と一緒に収められた肖像写真などを取り上げる。写真論の縁に追いやられたそれらもまた、写真である。
- 連想。ヴァナキュラー写真論ならぬ、ヴァナキュラー小説論と云うのはもう論じられているのだろうか。テキストを読むだけでない、紙媒体ならそのページをめくる指の動き、電子書籍なら端末の画面をタップする感触、古書のページを開くときに舞う埃とくしゃみの予感、本や端末を片手で支えるのかテーブルに置いているのかによって変わる手に感じる重さや身体の姿勢――それらも読書体験のうちに含めることができれば、面白いものが得られるだろう。
『ならずものがやってくる』ジェニファー・イーガン
- 「現代アメリカ文学」感。
- アメリカ文学を読むと「こいつらいつもアメリカってなに?ってことばっかり考えてるな」と思う。そこが惹かれる理由でもある。アメリカってなに?
- 登場人物たちがゆるくリンクした短篇集で、A面・B面にわかれた構成はアルバムのレコードを思わせる。比較的素朴な筆致で日々の痛みを捉える作品もあれば、奇抜な設定や特殊な叙述を採用した作品もあってヴァラエティ豊かだ。
- これだけヴァラエティ豊かに様々な声が様々な手法で語られてもなお、語られることからは「アメリカ」が起ち上がってくるあたりが、「現代アメリカ文学」感の理由である。
- いちばん面白かったのはパワポのスライドショー形式(!)で書かれた「偉大なロックン・ロールにおける間(ポーズ)」。見映えが重視されたのであろう無駄に立体的で肝心の情報が見えてこないクソグラフに感動する日が来るとは思わなかった。
『疫病/断頭台』山村正夫
- 「獅子」は犯人当て小説として発表されたらしいが、どのように出題されたのか気になるところだ。何を問い、どう答えさせるつもりだったのだろう。
- 「暴君ネロ」は歴史と宗教そのほかいろいろな方面から刺されそうな小説だけれど、ネロが使徒パウロを「快楽堕ち」させようとするエロ同人だと思って読むと少し面白い(ろくでもない感想)。
疲れた。いったんここまで。
*1:世界初の写真集として知られる