鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/03/31

 青山文平『泳ぐ人』を読んだ。以下、雑感。ミステリ研のdiscordに投稿した感想を転載した。

  • 文章が巧い。わけても料理描写は卓越している。これは大変重要なことです。
  • それはさておき。
  • 19世紀江戸のシステマティックな社会で起こる様々な刃傷沙汰とその裡に秘められた人間心理を書いたのが『半席』だった(これを《ホワイダニット》と呼ぶことにはいささか語弊があるだろう)。本作はその続篇で、『半席』の軽やかに芯を断ち切られる気持ち良さはなくなり、分量も内容も「肥えた」。問題は、それを贅肉と見るか、豊穣と見るか、だ。個人的には後者を取りたいが、もっと巧く、もっと凄まじいものを見せられたのではないか、とも思う。単体で評価しても、これは変わらない。
  • 『半席』では富士山の見える風景を絵に喩えてしまう転倒した描写があったけれど、進んで背景を書き割りにしてゆくその手つきは、切り詰められたプロットや文体も相俟って、武家社会のシステムに居場所を見出すと同時に苛まれる武士たちの軋みを聞き取っていた。
  • しかし本作で武士や武家社会は問題にならない。彼らが身を置く政治の力学は、当時日本に迫っていた諸外国勢力との対応に結びつけられ、背景へと退けられている。焦点が当たるのは、武士の妻や商人、さらには、乞食だ。システムの外側にいる彼らを前に、主人公は一度、挫折する。しかし彼は、自らも政治・制度のシステムへ退いてしまうのではなく、解きえない人間心理の《闇がり(くらがり)》へと分け入ってゆく。江戸を駆け回り、さらには飛び出して、物理的に旅までしてしまう。《闇がり》のそこに待っている悲劇は惨い。それは生半可な共感を拒むものであり、そこから湧き出でてきた《鬼》の悽愴さ、さらには《鬼》と切り結んできた人間の凄まじさも想像し得ない。しかしそこに主人公は目を凝らし、自らの挫折も呑み込んでゆく。
  • 文章は申し分ない。話の筋立ても、多少無理な造りをしているけれど、壊れてはいない。連載で発表されたのだから、若干ごたついている手振れにも目をつぶろう。すると、以上の物語の描き出すものにじゅうぶん満足させられるし、語るべきことを語る、と云う意気込みも感じて気持ち良く読了できる。ただ、語り得ないことに沈黙する姿勢がその意気込みの陰になってはいないか。あの悲劇を語らないのは良い、容易には語ることが出来ないのだから。しかし、そこにぽっかり開いた穴は、まだこちらを圧倒するに至っていない(悲劇の性質が強すぎるが故の悩ましさではあろう)。その一点の穴を残していっそすべてを説明しきるだけの思い切りや、あるいは、その穴の淵がすべてを引き寄せると同時にそこから湧き出した《鬼》が場所を越え時代を超えてゆくイメージがまだ足りない。そこは構成や書き込みの問題だろう。語りすぎない、切り詰められた文体が、かえって、くどいところや立て付けの悪さを浮き上がらせてしまっているのが惜しい。
  • とは云え、本来これを書くのは青山文平の仕事ではなく、『半席』を受けたわたしたちの仕事だったのかも知れない。それはそれで余計なお世話か。

 

泳ぐ者

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