鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/05/05

 ゴールデンウイークは平日より生産性が低かった。それなりに忙しかった4月を切り抜けて、気も抜けたのかも知れない。

コリン・デクスター『死者たちの礼拝』
  • モース4作目。デクスターは好きな作家ではないことがわかってきているのでそろそろ読むのをやめたいが、気が付くと読んでしまっている。味が好きなわけでもない豚骨ラーメンをなぜか定期的に食いに行ってしまうようなものだ。
  • デクスターの長篇は、喩えるなら山盛りの豚骨ラーメンである。栄養バランスは偏っているし合わない人間には絶対合わない。何よりそれは「食事」ではない。何か、決定的におかしなものを、空腹感や美味しさではなく一種の中毒的な体験として味わわされている。
  • ラーメン好き各位を不快にさせる表現があったことをお詫び申し上げます。
  • このおかしさはどこから来るのだろうか? 本書の解説で宮脇孝雄は、デクスターは把握しているものだけを書いている、と推測しているけれど、把握していないものについては描写をすっぱり切り捨ててしまうそのアンバランスな叙述はモースの推理法にも見て取れる。
  • モースは僅かな事実から飛躍的に想像を巡らせ、細かな事実に裏切られる。これに懲りると事実に立ち返ろうとするが、それでも知りたいこと以外の事実を調べようとはしない。把握していないもの、推理の埒外にあるものを空白のように残しながら、与えられた空欄と鍵――もちろん、クロスワードパズルのことである――にぴったり一致するまで言葉をこね回す。
  • 根拠が推理を生み、推理が根拠を保証するようなそれは新たな事実の登場で簡単に覆るだろうし、現に本作では、モースの推理が一部または完全に間違っていることが結末で仄めかされる。
  • ケロロ軍曹』だったか、昔たまたま観たエピソードで、クロスワードパズルにみんなで挑み、文字も埋まってそれらしいかたちで完成するのだが、結果は大間違い、と云うものがあった。
  • とにかく文字を埋めること。ぴったりくるまで埋めること。そこには異様な執着を見せる一方で、文字が書き込まれることを想定していないマスははじめから黒く塗りつぶされているようだ。
  • 読み終えて、自分はいったい何を読まされたのか、と途方に暮れる感覚が、シリーズを減るごとに強くなっている。特殊な書き方どころか、別の世界の推理小説が突然眼前に現れたような異様さがある。
  • ところで、デクスターの長篇を読むときの個人的ピークはプロローグであり、事件関係者たちの意味深な前日譚が断片的に語られるこのパートは、ドラマ『刑事モース』でも導入として取り入れられているが、避けられない悲劇が起ころうとしている不穏な緊張が漲っていて引き込まれる。いつか真似しよう。

 

鮎川哲也『死のある風景』
  • デクスターの長篇を山盛りの豚骨ラーメンに喩えたが、それなら鮎川哲也の長篇は、さしずめ腹持ちの良いうどん定食と云ったところか。おなかいっぱいです。
  • 麻耶雄嵩の解説が良い。作品を読んで感じた魅力は、ここに述べられていることと一致する――《しかし鬼貫には論理を積み上げるための鉛筆が必要なのだ》。
  • 複雑な事件、複雑な小説の構成に対して、鬼貫の出番がほんの一章だけで終わるのはあまりに呆気ないが、事件を捜査する人間、事件の解決を望む人間、事件を解明する人間、事件の解決を説明する人間、どれもが(一部重なりつつも)独立していることが興味深く、謎とその解明の物語を長篇小説として書くにあたって、鮎川哲也の試行錯誤が垣間見える。
  • それは、推理小説の構築と解体を両立させるような作業である。
  • 鮎川哲也の文章の巧さを久しぶりに実感した。派手なところは全くないが、律儀で端正で、随所に洒落も含む、味わいのある文体だ。
  • 本格ミステリ》と云う言葉を使うことに躊躇いがあるのは、《本格》と云う言葉がどうしてもジャンルの性質を表現する以上のニュアンスを呼び込むように思われてならないからだけれど、鮎川哲也のミステリにだけは《本格》とつけたくなる。言葉の連れてくる過剰なニュアンスに引きずられないしなやかさ、悪い意味で特権化され得ない実直さ――同時にそれは厳しさでもあるが――そして、曖昧なこの言葉をそのまま受け容れてくれる懐の深さが、鮎川哲也の小説にはある。