鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2021年上半期ベスト

ですからお爺さんがもしも又奇蹟を見たいならば、それは僕等の周囲で常に発見されるのです。至る所で。世界は無量の謎であり、お伽話の中にある幾ら経っても減らない打出の小槌なのです。毎日毎日が新らしい奇蹟の啓示です。
                         ――地味井平造「魔」

 
 単行本と短篇で20タイトルずつ。順番は優劣を示すものではない。取り急ぎ、タイトルだけを挙げる。そのうちコメントします。

 

長篇

  写真論を囓るだけじゃなく呑み込みたくなって、そのためにはまず写真を見なければならず、いまどき検索すれば画像なんて幾らでも見ることができるんだと云う囁きに、しかし写真集で読むこととディスプレイにピクセルで描画される写真は違うんだと囓ったばかりの写真論を振りかざし、気合いを入れて買ったアメリカン・フォトグラフス』は二十世紀アメリカ写真の偉大な古典。二十世紀アメリカ写真とはエヴァンズであり、エヴァンズとは二十世紀アメリカ写真である、云々。顔と顔、ものともの、画像と画像。繋がらない要素を接続し、繋がっていた要素が切り離される、その絶え間ない閃きのなかで瞬く「アメリカ」とは何か?
 最後の一文があまりに鮮烈な中篇「ミッドナイト・ブルー」も良かったけれどやはりロスマクの本領は長篇だろう。『縞模様の霊柩車』は誰が誰なのかさえわからなくなってくる複雑な事件のなかで「霊柩車」の姿が思いがけないかたちで浮かび上がってくる。大傑作『ナイン・テイラーズ』の解説で触れられていた『殺人は広告する』は謎の組織に諸々の都合を投げている気がするものの、作品の眼目はあくまで「広告」なるものの暴走に置かれている。広告するか、潰れるか。みんなでウィフろう、ウィフれよ、ウィフれば、ウィフるとき。このあたりから後期クイーン認定されるのか、よくわかりませんが中期作品群とは違うものを感じた『帝王死す』。世界の暴力をあまりに抽象化しすぎではないか、これが『九尾の猫』を書いた作家の作品か、と思いつつも、『九尾』を書いた作家だからこそこれを書いたのかも知れない。悪魔が来りて笛を吹くにおいて漂う怪奇趣味や不可能興味は、極言すれば装飾である。背景として繰り返し強調される戦後の混乱期。発端に大量の死を散らしながら、「血」なるものに引き裂かれた家族の惨劇を描く。ロスマクかよ。第二次世界大戦は、『敗北への凱旋』では背景に据えるどころか、主題として問い直される。自らを呑み込む運命を自ら作り出すような連城の「犯罪」が、ぼくは時折こわくなる。連城のトリックを「犯罪」(たとえ法学的な意味で犯罪でなくとも)とするなら、泡坂のそれは「魔法」になる。『湖底のまつり』は単純に趣向だけ考えるならばもっと強烈なものはあろうが、この発想からどうやってこんな話を作り上げられたのか、この眩暈をどうやって呼び起こしたのかわからない。西条八十の詩集と古びた帽子を持って死んだ、アメリカからの異邦人――そのあらすじに惹かれて読んだ人間の証明。肌感覚で合わない古臭さや浅薄な人間社会観に鼻白みつつ、ここまでそれらを徹底されると一種の迫力を帯びる。何よりそのすべてを「運命」として昇華するような過剰なまでの偶然の接続が凄まじい。『首無の如き祟るもの』は読書会の課題本。首切りテーマにはそんなに食指が動かないのだけれど、この作品でもまた、徹底することでの迫力を獲得している。その結末は、もうミステリがミステリではなくなってしまうような臨界点だ。映画化されるから読んだわけでもないのにミーハーのようになってしまった『鳩の撃退法』。この作品でも偶然が運命にまで昇華されるような接続が鮮やかだけれど、叙述のレベルを軽やかに移動するようなメタな書きぶり、それをまったく厭らしいものにしない飄々とした文体、すべての気に入らない要素を許容させる調律され切ったリズム、――要するに文章が良いのだ。
 フレデリック・ダネイとマンフレッド・リー、ふたり合わせてエラリー・クイーンの往復書簡エラリー・クイーン創作の秘密』は、創作の裏話どころではない数々の驚きを与えてくれる。ダネイによるリーの「操り」とその反逆。構造と文体の狭間、両立しないふたりの書き手の鬩ぎ合い。驚くほどにそれは「クイーン」的だったのだ。十九世紀後半のアメリカ芸術を論じた『褐色の三十年』は、「アメリカ」は南北戦争によって「もう一度生まれた」のではないかと思わせる。19世紀終わり~20世紀はじめあたりのアメリカに興味があります。《ひと言で言えば、人々は単に存在するのではなく、生きるのです。》――『九尾の猫』の読書会でも引用したアメリカ大都市の死と生』は都市計画論の古典。そんなに衝撃的なことを云っているのかなと読んでしまった、その印象こそが本書の重要性を語っている。装幀に惹かれた『チョンキンマンション』は内容も興味深かった。国家や大企業によらない下からのグローバリゼーションと、人間の交流・信頼のもとで取引がおこなわれる属人的な新自由主義経済とが作り出す、案外に平和な場所。とは云え逞しさは必要だけれど。『踊る熊たち』は失われゆく「熊踊り」の伝統とその倫理をめぐるルポを前半に、後半は冷戦後の体制転換に揺れる主として東欧の国を取材したルポと云う構成。一見別の話題である両者は共通の章題によって接続されることで、「自由」のなかでもがくひとびとの姿が立ち上らせる。そして彼らはまた、踊る熊たちに重ね合わされるのだ。与えられた制度つまり権力の網目、それらが日常のなかの人間の手によって編み直されると云う見方を示す『日常的実践のポイエティーク』。楽観が過ぎるように思うし、論も実証的ではないけれど、構造に操られながら操り返すようなその「日常的実践」には魅せられた。一見するとポピュラーサイエンス、しかしその正体は一種の思想史である『理不尽な進化』は、進化論を直感的に理解できないことを無知蒙昧として切り捨てない。むしろその理解しがたさにこそ「進化論」の重要性を見、世界の「理不尽」に対して人間が取れる態度を考えてゆく。量子力学バージョンも書けないか知らん。北村薫がいままで出会ってきた詩歌を自在に語る『詩歌の待ち伏せは、エッセイながら北村ミステリのエッセンスがある。物語は人間を待ち伏せし、人間は物語を見いだしてゆく。『待ち伏せ』とエッセイのスタイルとしては近いはずなのに『推理日記〈Ⅰ〉』は大きく異なる印象を残す。いちミステリファンとしての佐野洋、プロの作家としての佐野洋、読書家としての佐野洋、書評家としての佐野洋、「ご意見番」としての佐野洋、何より佐野洋としての佐野洋。論として整理されていないためにそれらの観点や問題意識が散らばって、しかしそれぞれは鋭いゆえに無数の反論や同意、不遜ながら同情さえ喚起される。〈Ⅱ〉も読みたいが、体力とこちらの覚悟が必要だ。しかしそんなふうに読むべき時を待っていたら何年も読まずにいてしまったのが『小説のタクティクス』。人間が自分の顔を持つことは、近代の空約束に終わってしまった。ザンダーやエヴァンズが写したような、一瞬の「顔」はどこに消えたのか。それをふたたび捉えることは、手にすることはできるのか。そんな二十一世紀で、小説に何ができるのか。

短篇