鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/11/06~14

 今回の読書日記はテーマなし。読んだあとに振り返って浮かび上がってくるテーマがあるとすれば「虚実」あたりか。
 ミステリ研のDiscordサーバーに投稿した感想を転載。

ジュリアン・バーンズイングランドイングランド』(創元ライブラリ)

時が過ぎ、ひとつひとつの瞬間は流用され、つくりなおされ、複写され、劣化した。彼女自身がそれを手伝った。だが、そうした劣化はつねに起こる。真剣さはもともとのイメージを賞賛する。そこに立ち戻り、それを見て、それを感じる。(…)一部の人々は、魔術のような出来事はけっして起こらなかったのだと思うかもしれないし、少なくとも、今になって考えてみれば起こらなかったのだと思うかもしれない。だが、たとえ起こらなかったにせよ、そのイメージとその瞬間は賞賛しなければならない。そこにこそ、人生の大切な細部があった。

 とある富豪が思いつきで始めたテーマパーク事業。そのテーマは「イングランド」だった。イングランドよりもイングランドらしいイングランド的空間を構築する「イングランドイングランド」は内部に混乱は起こりつつも好調にスタートを切るが、やがてイングランドの歴史上の人物を演じるクルーたちは、自分たちを本物なのだと思い始めて……。
 ……と云う、いかにも寓話っぽい筋立てを、皮肉や誇張、ディテールへのこだわり、叙述の仕掛けやストーリーテリングの技巧を駆使して、御伽噺ではない、現代の物語として仕立てている。贋物と本物をめぐる議論はいかにも風景式庭園(絵画的な景色を庭として再現すると云う転倒した造園様式)を生んだ国と云う感じ。イギリスの文化も国の在り様ももはやネタになってしまい、パックス・ブリタニカももはや神話のように遠くなった現代英国の、諦観の滲む空気をそれでも「英国小説」としてシニカルに/コミカルに書いてやろうと云う姿勢は物語の愉快さとは反対に切実で、ひねりの効いた本編に比して陳腐でさえある結末――贋物が本物をすべて塗り替えてしまった世界に対置される、前近代的な田園風景――には、そんな思いが込もっているのかも知れない。あるいはそれもまた高度な皮肉なのか。
 正直、主人公が事業に携わる前までの半生を語る第Ⅰ部がいちばん面白かった。のちに効いてくるモチーフこそあるものの、短篇として独立して読めるし。「記憶」をめぐる最初と最後の呼応も、細部のエピソードの活かし方も抜群に巧い。 

 

スティーヴン・ミルハウザー『三つの小さな王国』(白水uブックス

何も変わっていなかった。革張りに詰め物をしたマホガニーのデスクチェアは机から少し外れた方向を向き、振り子はガラスケース入り時計の巻き鍵の上でゆっくりと揺れ、四角い広口瓶に入れたシーダー材のペン軸の束は、いまにも崩れそうな積み木くずしの山みたいに見えた。乾草の山がくり返し描かれた、色あせた壁紙の上で、小さな収穫者たちが目に帽子をかぶせて眠っていた。フランクリンはさっき最後に描いたドローイングを、傾斜のついたアニメーション・ボードの長方形のガラスに載せた。ガラスの下の電球を点けて、何も描いていないライスペーパーをドローイングの上に置く。四隅にある十時の印を合わせて、光を浴びた二枚の紙をぴったりと重ねた。月光の下の爽快な気分をフランクリンは思い出そうとしてみたが、何だかすべてが、ずっと昔に起きた出来事のように思えた。先の丸くなったヴィーナス鉛筆を鉛筆立てから選んだフランクリンは、疲労の最初の小さな疼きがこめかみで波打ち、血の律動に合わせて柔らかに脈打ち出すなか、ドローイング番号一八二七の背景をトレースしはじめた。

 中篇3本収録。いずれもフィクションを語ることについて自覚的な作品だと思う。とくに面白かったのは、凡庸な選択ではあるが「J・フランクリン・ペインの小さな王国」。ミルハウザーでもいちばん好きな作品に挙げるひとが多い気がする。1920年代のアメリカ、アニメーションの黄金時代の幕開けに、商業主義へ背を向けるようなアマチュアのアニメーターがいた。新聞社づきの漫画家でもあった彼、フランクリンは、描くものすべてに命を宿らせるような緻密なアニメを追求し、妻や友人に裏切られてもなお、あるいはだからこそ、アニメーションにのめり込んでゆく――。1920年代はアメリカの時代の始まりでもあるだろう、そんな時代にあってフランクリンの生きる世界はどこか現実味に欠けた、それこそアニメのようで(屋根の上を歩くシーンや、上司のオフィスの描写などにそれは顕著)、朴訥としたフランクリンの人柄も相俟って、残酷な現実から避難するように彼の世界=アニメの世界は密度を増してゆく。とは云えここで、ままならない社会に排除される無垢な芸術家と云う紋切り型に収まらないようにしていることも見逃せない。彼は彼なりに社会と折り合いをつけようとして、一定程度成功している(風刺漫画のくだりとか)。彼は現実を嫌っていたわけではないのだ。だからこそ、最後のあの〝喝采〟があるのだろう。アニメの世界を周到に構築しながら、終盤にかけて急速に虚構度を上げてたどり着く幕切れは圧巻。
「王妃、小人、土牢」は話の筋書である〝おとなの童話〟より、これがまさしく説話であると云う仕掛けの方が面白い。結末は開かれ、物語は語られ続ける。ある画家の作品について順に、その内容と制作背景を解説することで画家の物語を浮かび上がらせる「展覧会のカタログ」も、そんな特殊な叙述を過不足なく活かす手捌きにこそ惚れ惚れする。 

 

パトリシア・ハイスミス『贋作』(河出文庫

バーナードの傑作とはつまり、何千ポンドもの金をもたらす〝ダーワット〟のことだ。もし画家が自分自身の作品よりも贋作のほうを多く描いたとしたら、その画家にとっては贋作が自作よりもずっと自然な、ずっとリアルな、ずっと本当のものになるのではなかろうか? 贋作を描こうとする努力が最後には努力の域を脱し、その作品が第二の本性になるのではないだろうか?

 自殺した画家ダーワットの死を有耶無耶にしたうえで〝新作〟を贋作する――ダーワットの生前の友人たちが企んだこの計画は思いのほかうまく運び、いまやダーワットは名の知られた天才だ。計画を提案したトム・リプリー――前作『太陽がいっぱい』で完全犯罪を成し遂げた、本作の主人公――も、ダーワットの亡霊のお陰で巨大な利益を得ていた。しかし新しい個展で、ひとりのコレクターから疑問がつけられる。危機を切り抜けるため、リプリーは自分がダーワットに変装して彼がまだ生きているよう偽装を図るが――。
 贋作をめぐる物語だが、コン・ゲームのキレや爽快感はなく、サスペンスの源泉となるのはあくまで〝犯罪露見の危機〟そして〝アイデンティティの危機〟だ。前者の緊迫感が、後者を主題として描いていると表現しても良いだろう。既存の作品を贋造するのではなく新規の作品を贋造する犯罪計画をはじめとして、本書ではサスペンスのプロットのなかに、随所で〝真贋〟をめぐる問いが埋め込まれている。芸術の真贋。その価値の違い。死んだ画家の完璧な新作をつくる贋作絵師。別人への変装。生きていることになっている死者と、死んだことになっている生者。偽装される真実。終盤の追跡劇は緊張に欠ける代わりむしろ幻想的で、その終わり方もリプリーによって都合良く偽装される。それでも、リプリーの〝芝居〟はまだ終わらない――。
 伏流するもうひとつのテーマ〝他者との繋がり〟は、本書では自分自身が相手に成り代わると云う究極のかたちで達成される。犯罪小説としては杜撰どころかプロットとして理屈が通っていない箇所も見られるけれど、それでもなおこう書かれるべきだったのだと読み手を説得する、主題を多層的に浮かび上がらせることに成功した傑作。
 実は『太陽がいっぱい』って映画をちょっと見たことあるだけで原作未読なんですよね。だから次読むとすればそれになるけれど、結果として『アメリカの友人』から遡るようにしてシリーズを読むことになっている。