鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

文体の舵をとれ:練習問題⑥老女

 今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
 テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている──食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい──そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
 ふたつの時間を越えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が、若かったころに起こったなにかの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
 この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。

一作品目:人称―― 一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。

二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

提出作品(一人称・過去時制)

 汗が眦を濡らした。視界が霞んで手許が覚束なくなった。いや、手許はずっと覚束なかったのだ。唇が震えた。大きく息を吐いた。躰はとうに限界を迎えていた。シャベルを投げ出し、顔を上げた。穴の深さは一メートルほどあった。もう一メートル。まだ一メートル。時刻はとうに真夜中を過ぎて、住宅街の灯りはなかった。月だけが庭を照らしていた。
 ――どうしてそんなに掘ったの。
 いつだったか、わたしは彼にそう訊ねた。彼はいまのわたしのようにシャベルをほうって、花壇を作るんだと笑った。土壌ごと入れ替えるのさ。えくぼに泥がついていた。でも少し休憩したいねと彼は座りこみ、穴の側面に凭れて瞼を閉じた。もう一メートルじゃない、わたしは云った。まだ一メートルだよ、彼は呟いた。
 背中に土の冷たさを感じた。慌てて立ち上がったけれど月の位置はほとんど変わりなかった。眠っていたのは僅かのあいだらしい。いつ眠ったのかもわからなかった。気を失っていたのかも知れない。
 視界の隅に光を捉えた。頭を下げた。車が一台、通りを抜けていった。テールランプが曲がり角の向こうに消えてから、心配のしすぎだと気づいた。生け垣もあるんだから、と彼なら呆れたはずだ。
 けれど、そもそも庭に埋めようとすることが馬鹿げていた。何を心配するべきで、何が妥当なことなのか、自分でもわからなくなっていた。
 穴から這い出た。車の下に押し込んでいた彼を引きずり出した。軽かった。老いて痩せ衰えたのはわたしだけではなかった。穴の底に彼を横たえた。掘った時間の十分の一の時間もかからなかった。
 あの日も彼はこうして土に身を横たえていた。
 ――この家はぼくらの家になるんだ。だから花を植えよう。
 彼は云った。彼の声音はまるで歌うようだった。春の日だった。花は年を越す前にすべて枯れた。一年中花を咲かせられるようになったのは、確か十年も経ってからだった。
 わたしは穴に入った――あのときも。彼にキスをした――いまも。
 次の春はスミレを植えよう。彼が好きな花だった。

提出作品(三人称・②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制)

 冬だと云うのに額から噴き出した汗が彼女の眦まで垂れた。彼女は眼を擦ろうとしてつかのま躊躇い、シャベルを放って、手袋を外した。喘ぐように彼女は息をした。疲労はとうにピークを越していた。宵からずっと掘って、穴はやっと一メートルの深さになっていた。もう一メートル。あるいは、まだ一メートル。月の光が穴へ斜めに差し込んで、彼女の顔を、手を、胸を照らし、けれど足許は暗がりに沈んでいた。膝が震えた。彼女は倒れ込んだ。
 どうしてこんなに掘ったのか、自分に訊ねた。
 同じ問いを訊いたことがある。あれはそう、春の日だ。この家に引っ越してから最初の春。抜けるような青空。陽射しに照らされて汗をかく彼の姿はけれど涼しげで、疲れたと笑う表情も活力に満ちている。えくぼに泥がついている。彼女はそれを拭ってやる。
 花壇を作りたいんだ。彼は云う。そのために土を丸ごと入れ替えるのさ。
 休憩のために彼は座り込む。顕わになった土に凭れて瞼を閉じる。もう一メートルじゃない。彼女は云う。まだ一メートルだよ。彼が云う。
 でも、少し休みたいね。
 彼女は眼を覚ました。土が背中にこびりついて冷たかった。起き上がった。気を失っていたのは一時間ほどだった。
 遠くに光を見た気がして、彼女は穴のなかに隠れた。生け垣の向こうで車が一台、駆け抜けていった。深夜の住宅街を走るには乱暴な運転だった。テールランプも見えなくなってから、彼女は心配のしすぎを自嘲した。垣根があるのだから見えるはずがなかった。そもそもそうまで心配するならば、庭に穴を掘るべきではなかった。
 自分が何を心配しているのかも、彼女にはよくわからなくなっていた。
 もう彼を埋めてしまおうと思った。穴から這い出た。車の下に手を突っ込んで、彼を引きずり出した。そのまま穴まで移動させた。押すにも引くにも軽かった。彼は彼女と同じく、老いて、痩せて、衰えていた。穴の底まで落とすのに、十分もかからなかった。彼は土の上に横たわった。あの日と同じように。
 涼やかな穴の底で彼は彼女と寝転がる。口調は楽しげだ。いまにも歌い出しそうに、彼は将来を話しはじめる。いつか庭を花で埋め尽くそう。一年中色鮮やかに花が咲き誇るんだ。
 彼女は彼にキスをする。新しい家。新しい庭。新しい暮らし。
 若かった。
 彼女は彼にキスをした。ずっと住んだ家。古びた庭。終わった暮らし。
 来年は花壇にスミレを植えようと、彼女は思った。

コメント
  • 過去と現在が最後に重なり合うと格好いいな、と思って書いた。
  • 書いてみると、一人称よりも三人称の方が文章を迸らせやすい。もちろん一人称でも可能なのだが(実際、普段書くときはそんな感じである)、このシチュエーションと抑制された文体だと、一人称はなかなか自由が効かない。まさしくそれが、一人称と云う絞られた視点の特徴であり、もたらされる技巧と効果である。
  • ミステリや「老女」と云う文脈を共有していないと、何をしているのかよくわからない話である。とくに今回の提出作のような仄めかしや語り落としを使うならばなおさら、読み手との情報共有に気を払うべきだった。
  • しかし自分、仄めかしや語り落としの技巧、好きすぎないか。
  • 明確な落ちを用意しなくても、敢えて欠落を作ることで話全体をまとめやすいんですよね。