鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/11/25~30

 進路に悩んでいます。
 それはそれとして読んだ小説の感想。ほかにも研究書とか読んでますが、これまでと同様に省きました。そう、これまでも小説の感想しか取り上げていなかったのです。
 感想もいままで通り、ミステリ研Discordサーバーに投稿したものを再掲。

『BABELZINE Vol.2』(週末翻訳クラブ・バベルうお)

「今日僕は現実に穴が開くところを見た。あんなものに、いったいどう対処すればいいんです?」
「わめき散らすしかないね」
 ミランダが返事をする。
「そしてそのまま自分の道を進み続けること」
(A・T・グリーンブラット「バーニング・ヒーロー」)

 京大と東大のSF研OBで結成されたと云う、現代海外文学の読書・翻訳サークル〈バベルうお〉、待望の第二機関誌。こう云ってはなんだけれど、作品も全体としてパワーアップしている気がする。
 SF・ファンタジーを中心に、とくにテーマなく編まれているものの、現代海外文学全般に通じるある種の身振りとでも云おうか、どこか無国籍的な空気を持ちつつ、決して均質化されているわけではない、云わば各々の〝私〟が行き交う場所としての〝公〟にあるような作品たち。また、本書に限らず現代会外文学のSF・ファンタジーは、アイディアを突き詰めたり未来を外挿したりするのではなく、あくまで作品の切り口として卒なく扱っている印象を受ける。そんな作品の眼目は、アイディアから構築された物語が何を切り取るのか、と云うことにある。
 ゆえに、本書では唯一前世紀の作品を翻訳したと云うジェラール・クラン「終止符」が、アイディアそのもので勝負するかのようなショート・ストーリーで特異な印象を残した。
 以下、個人的に面白かった作品を挙げる。

  • G・V・アンダーセン「シュタインゲシェプフ」:石像に生命を吹き込み、生命を吹き込まれた石像を修復する職人の話。石像の設定で幾らでも遊べそうなところ、わかりやすい遊びは〝自由の女神〟くらいで、設定はあくまで主人公の若き職人と依頼者、そして石像との関係のなかで活かされる。そう、この、形式や設定の活かし方がひたすら巧みで、回想への持って行き方も、やがて前面に出てくる歴史的背景も、作品に対して不可分なものとして機能している。時制の技法まで使いこなして一気にテーマに踏み込んでゆくラストに打ちのめされた。
  • セス・フリード「メンデルスゾーン」:原文で既読。変わり者の父親と巨大アライグマの戦いを、エモーショナルに回想する。動物の扱いとして待ったをかけたくなる箇所もあるのだけれど、あるいはそれも作品の狙いであり、これは主人公家族の物語に過ぎず、このエモーションも彼らのものだ、と云うことなのかも知れない。変わり者の父親だけれど、彼なりに家族を愛し、家族もまた彼を愛している。それを否定することはもはや誰にもできない。
  • A・T・グリーンブラッド「バーニング・ヒーロー」:半端な異能力。だけど異能力には変わりない。変に皮肉っぽくなるでもなく、真正面からごりごりに押しきるのでもなく。総じて、踏み込みの加減が絶妙。
  • ヤツェク・ドゥカイ「レム外典」:ポーランド、ドイツ、日本、それぞれ違ったかたちでスタニスワフ・レムが再現・複製される。これが本国の『完全な真空』解説として書き下ろされたと云う初出情報からして面白い。レム風にアイディアをゴリゴリ進めながら、ユニークなレム論にもなっている。 

babeluo.booth.pm

ポール・オースター『ガラスの街』(新潮文庫

ずっとあとになって、自分の身に起きたさまざまなことを考えられるようになったとき、彼は結局、偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ、と結論を下すことになる。だがそれはずっと先のことだ。はじめはただ単に偶然があり、その帰結があった、それだけだ。違った展開になっていた可能性はあるのか、それともその知らない人間の口から発せられた最初の一言ですべては決まったのか、それは問題ではない。問題は物語それ自体であり、物語に何か意味があるかどうかは、物語の語るべきところではない。

《そもそものはじまりは間違い電話だった》――探偵小説家のクインは私立探偵ポール・オースターを求める間違い電話に応じ、気まぐれか好奇心か、自らがオースターだと名乗って依頼を引き受ける。依頼主の命を狙っていると云う男を、クインは尾行し、観察しはじめるが、男は意味ありげな散歩をくり返すばかりで……。
 創作の参考になるかな、と思って読んだ。メタ探偵小説と云うか、探偵小説のトリビュート的な作品を書いてみたくて、とすればまず思い浮かぶのはこれだろう。一人称探偵小説の枠組を持ちながら、後半にかけて真実は霧散し、クインは、そして読者は、答えのない迷宮をさまようことになる。
 オースターにはちょっと苦手意識があり、と云うのも、ミステリのプロットを用いることでかえって、人間を記述することの不可能性や真実にたどり着くことの困難を書き出す手法は大いに興味をそそられる一方、真実を有耶無耶にするのが手前過ぎる気がするのだ(『孤独の発明』『インヴィジブル』を読んでの感想)。もう少し踏み込んで、謎に触れるか触れないかのところまで記述してくれなければ、不可能性や困難を覚える以前にただ茫漠とした印象しか残らない。そもそもオースターの眼目はそこからは少しずれているのだろう。
 本作についても、謎の輪郭が浮かび上がる前に物語は終盤へなだれ込んでしまう。ただ本作の場合、クインが異常なまでに事件にこだわる様は迫力があり、状況が不可解である一方で読み手を納得させるだけの展開の積み重ねも相俟って、ノートだけが――言葉だけが残されるラストには満足を覚える。本来はあまり好みでないはずの透明感溢れすぎる文体も、言葉の組み上げが周到で一気に読めた。オースターへの印象を、あらためる必要があるだろう。あるいはようやく、オースターも読めるようになった、これが成長だろうか。

 

スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(白水社

とはいえ、パラダイス・パークの短い歴史を伝説から切り離して考えるとき、どんなに慎重な研究者でも、こう自問せずにはいられないのではあるまいか。すなわち、ある種の快楽は、その本質上どんどん極端な形を追究していくものであって、やがてはついに、完全に力を出しきったもののいまさら止まることもできずに、滅亡の暗い恍惚に行きつくほかないのではないか、と。

 第4作品集。巻末で訳者の柴田元幸が指摘しているように、ミルハウザー自身がミルハウザーの作品になったかのようだ。徐々にインフレしてゆく事態を粛々と、執拗に記述する文体は、『バーナム博物館』で披露したようなあからさまにメタフィクショナルな仕掛けや、『三つの小さな王国』における緩急あるプロットを、もはや必要としなくなった。技巧と想像が暴走し、理解しがたい/受け容れがたい境地へとたどり着くのだ――ミルハウザーの描く人間たちも、そして、ミルハウザー自身も。ナイフ投げ師のパフォーマンスに引き込まれながらも最後に披露された芸に「やりすぎた」と感じる町の住人たちのように、読んでいる最中はひたすら魅入るものの読み終えて途方に暮れるような作品が多い。そのなかで、蛙と結婚していた古い友人との再会が帰り際には不思議と爽やかな印象を残す「ある訪問」、間男の内面描写と奇妙な外部状況とが噛み合ったり噛み合わなかったりしながら凄みのある幕切れの語りへ至る「出口」あたりはわかりやすく、面白く読んだ。とは云えやはり、名状しがたくも強い印象を残すのは表題作「ナイフ投げ師」や職人の凝らす趣向が極まった先の境地で見るものを困惑に陥れる二作「新自動人形劇場」や「パラダイス・パーク」になるだろう。
 もうひとつ、作品集を通して気になったのは「私たち」と云う一人称の作品が多いこと。いままでの短篇集にもそんな作品はあったけれど、本書では12篇中5篇なんだから尋常ではない。「私」でも「彼/彼女」でも「あなた」でもなく「私たち」。それはいずれも町の住人を代表するかのような一人称であり、自我の希薄な、あるいは一体化されすぎていて不気味な語りである。「パラダイス・パーク」にいたっては一人称が消える。それは一見すると歴史の叙述だけれど、むしろ、町そのもの、世界そのものが語っているかのように見える。