鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

文章練習:2021/12/05

説明
  1. 写真に何が写っているのかを書く
  2. 出来たものを半分くらいまで削る
書く

 なんでもない写真に見えた。なにかを記念したわけでも、なにかを目撃したわけでもない、ただカメラを構えてシャッターを切ったような一枚。並木が枯れているから冬だろう。川沿いの道路わきに三人の男性――ふたりの少年と、彼らより少しく年嵩に見える青年――がたむろしている。構図の中央に収まっているのは厚手の淡茶色したセーターを着た少年で、両手が冷えないように腕を組んで手を脇に挟んでいる。マッシュルームカットされたブロンドの前髪が縁の太い眼鏡の上に乗っかっている。少年は口角を上げて笑っているけれど、カメラを見つめるその眼は細められ、そちらを一瞥したに過ぎないと云うふうだ。笑顔も撮影に際してつくった表情ではないのだろう。友だちと談笑していたところをカメラに撮られ、たまたま撮影者に眼をやった、そんなところかも知れない。背後の低木が爆発するようにこんもりと膨らんで、なにをするでもなかった少年は、図らずも写真の主役かのように構図のなかに収まっていた。いちばん手前に写っている青年は薄青の着古したシャツの上からこれまた着古したベージュの上着を着ている。ちょうどカメラと同じ方向を向いていて、その表情はうかがえない。頬の筋肉が微妙に浮き上がっていることから、笑っているのかも知れない。左手を腰に当てて、気取らない姿勢でリラックスしている。さらさらとした短い髪が風に吹かれて揺れ、動きのない写真のなかでそこだけ像がぶれていた。青年の隣にいる少年は上半身の半分がフレームに切り取られてしまっている。薄い黄色に染められたワイシャツの裾を捲りあげてジーンズのポケットに突っ込まれた手には、袖を捲り上げるようにして腕時計が巻かれてある。少年の横顔は眼鏡の彼の方へ向いている。寒さで耳が真っ赤だ。三人が何を話しているのか、いったい彼が誰なのか、写真は何も語らない。(768字)

削る

 無造作にカメラを構えてシャッターを切ったような一枚だった。場所は川沿いの道路わき、木々も芝生も冬ざれた褐色の景色。少年がふたりと年嵩の青年がひとり立ち話をしている。厚手の茶色いセーターを着込み寒そうに腕を組む少年は背後で低木が膨らんでいる構図も相俟って写真の主役かのように中央に写されているけれど、彼はカメラに眼をやっているだけで、浮かべた笑いは撮影者ではなく友だちふたりに向けられている。三人は一方的に撮られたのだ。手前に立つベージュのアウターの青年は顔をカメラの反対に向け、隣のワイシャツの少年も寒さで真っ赤になったその横顔はカメラに気づいた様子もない。ふたりは真ん中の男の子を見ている。青年の表情はうかがえないけれど、頬の僅かな盛り上がりからして笑っているのだろう。しかし写真は彼らが何に笑っているのか、彼らがいったい誰なのか、何も語ってくれていない。(379字)

反省
  • 写真なかのイメージを物語の一場面として描写するのではなく、写真そのものとして描写してみた。後述するが、Egglestonの写真はそのような記述の方が合うと思ったのだ。が、案外うまく行ったので、今後はEggleston以外でも同じようにやるかも知れない。
  • そもそも写真とは、撮影者の見たものとイコールではないので、いままでの方法だとうまくいかないのは当然なのだけれど。
  • どこまで描写を削れば良いのか、と云うことを考えている。写真から感じられるエモーションを、どうすれば文章で近似できるか。
出典

William Eggleston, Tallahatchie County, Mississippi, 1972.

www.moma.org

Egglestonの写真はそれまでモノクロームが支配的だったアメリカ写真芸術にカラーと云う新しい潮流を生んだ、と云うのがおそらく教科書的な説明。その作品の特徴は、これまで取り上げてきたHerzogやShoreに較べて、「素人っぽい」ことだろう。写真は一見すると無造作に撮られている。中央に消失点があるような素朴な構図に、素人写真のようにややくすんだ発色。「素人っぽい」写真は写真を撮ると云う行為そのものをかえって意識させ、写真そのものがもつ痕跡の感覚――残された物質としての側面を強調する。けれどもちろんそれらが生むノスタルジックなエモーションだけが魅力ではない。彼の作品はただの記念写真として見ると奇妙で、シュールだ。
……と、偉そうなことを語りましたがすべて半可通の聞き囓りでございます。『William Eggleston's Guide』ほしー。