鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/12/05~2021/12/08

 進路に悩んでいる。
 もしかすると来年で卒業するかも知れない。しないかも知れない。
 いずれにせよ、来年一年かけて、ミステリ研における「卒業研究」と云うべきものを残したいと思っている。
 それはさておき読書日記。ミステリ研のDiscordサーバーに書いたものを転載する。

スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(白水社

父は言った。「すべての文学の中で、偉大な書き出しが三つある。一つ目は『元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり』。二つ目は『俺をイシュメールと呼んでくれ』。三つ目は『はるか遠く、あらゆるところの西に、ロウワー・トレインスイッチの町があるのです』だ」。真剣で、笑える父親。顔をよく見ていないといけない。鯨の本。本棚のどこにそれがあるかは知っているし、手に持って、大きくなったら、と思ったこともある。鯨、神、大きくなったら。本、いつも本。十歳。

 最新短篇集。分厚い短篇集を二分冊で翻訳した、本書はその後篇。紹介文にもある通り、奇想やファンタジーを発端に置きつつ、想像を外へ外へと膨らませるのではなく、内省的な考察へ深入りする作品が収められている。典型的なのは「私たちの町の幽霊」と「場所」だろう。どちらもミルハウザーが初期から書いている、“ほかの町とは違う何かがある町”の話だけれど、「バーナム博物館」のような同様趣向の初期作品に較べると、町をほかの町と区別するその“何か”の存在が非常に漠然としており――いるのかいないのかわからない幽霊や、名状しがたい感覚を覚えさせる“場所”としか云いようのない場所――あるいは住民たちの錯覚ではないかとさえ思われる。オブジェクトそのものがもたらす驚異の影に伏流していた思弁性が前面に出ているようで、ちょっと好みがわかれるところかも知れない。個人的には、『ナイフ投げ師』から最新短篇集まですっ飛ばして読んだ結果、変わらない部分と変わった部分とそれぞれの発見を面白く読めた。とくに、現代を舞台に設定した作品の多さには驚く。iPhoneとか出す作家だったのか。
 外側への想像力が抑えられたことの長所として、プロット上のツイストなどは見当たらないものの“奇妙な味”としてミステリ新刊に推すことができるようになったことが挙げられる。間違いなく、ミルハウザーは現代の異色作家のひとりだ。
 最も面白く読んだのは表題にもなっている「夜の声」。ただこれは個人的な事情が強く関係していて、と云うのも、作中に登場するひとびとが眠れない夜に待ち続ける“夜の声”とは――そして人間の人生を決定的に変えてしまう“夜の声”とは、ぼくが蒼鴉城47に書いた「火星とラジオ」における“物語”と、かなり近い場所にあると思われるからだ。だから終盤は読んでいて唸った。そうか、こう書けば良かったのか。

 

マイケル・オンダーチェ『戦下の淡き光』(作品社)

ふたりの目が合い、そのまま見つめあった。今は何も言わずにいるほうがいい。僕たちの子ども時代は、見過ごすこと、黙ることばかりだった。明かされていないことは察するしかないかのように。荷造りしたトランクのもの言わぬ中身から、仕方なく何かを読みとったときよ要領で。あの混乱と沈黙のなか、姉と僕ははるか昔にお互いを失ってしまったのだ。でも今、この赤ん坊のそばで、僕たちは親密な空気に包まれていた。発作のあと汗まみれの顔をした姉を抱き寄せたときのように。無言でいることが最善だったときのように。

 1945年、うちの両親は、犯罪者かもしれない男ふたりの手に僕らをゆだねて姿を消した――。大人になったかつての少年は、断片的な記憶をたどり、様々な記録や再会を通じて、家族の真実に迫ってゆく。
 オンダーチェを読むのは『ビリー・ザ・キッド全仕事』『バディ・ボールデンを覚えているか』に続いて3冊目。良い作家であるのはわかるが、どうにも嵌まりきれないと云う印象があって、本書も首を傾げるところはある。作品が主人公に感情を喚起させ、情緒的に語らせ、そうすることで読み手に味わわせようとする読み味が、どうにも自分の好みに合わなかったり、説明しすぎてかえって醒めてしまったり。少年時代に経験した様々な出会いそしてそれを通して拡がってゆく世界は瑞々しく描写され、それらの記憶は戦時下の暗く緊張した夜のなかカーテン越しに灯る仄かな明かりのように想起されてなるほど美しいけれど、作品全体を見るとき、結果として拡がっていった世界すべてが引っくるめて主人公の内省へと丸め込まれてしまう退屈さを、物語は抱えている(だからラスト、アグネスを巡ってその内省が破れる瞬間がいちばん面白かった――けれどそれだけでは、全体の印象を変えられるものではない)。母をめぐる真相についても、どれだけ美しく語られたところでいまひとつ乗り切れず、まあこうだろうと思ったまま進み、決着する。本書の魅力のひとつだろう伏線による人物と人物、事物と事物の接続は、一般論で云うとその手法によって物語の記述する出来事が偶然を越えた“運命”として迫力を持つことがあるけれど、上述したように強く内省的な語りなのでどうにも効果を発揮しきれないまま終わってしまった感。とは云え、細部には驚嘆するシーンが散りばめられているし、読んでいてしっかり感じ入っていたのは確かだ。見方を変えれば、普段のぼくならからく評価してしまう作品をこれほどまでに“読ませた”細部の魅力は、掛け値なしに素晴らしい。断片によって構成された前出2冊に較べても、同じく断片的な記憶を羅列しながらもそれらが滑らかに繋がってひとつの人生の軌跡を結ぶさまが美しく、なんだかんだと云いつつも、それなりの感慨を覚えながら読了した。
 微妙な感想になってしまった。読む前に設定した期待が高すぎたのかも知れない。

 追記。やはり、戦争と云う巨大なものを扱うならば、もう少し何か、もうひと越えを、と思う。戦争と云う巨大なものに較べて、人間は粉粒ほどにしか過ぎないのか、あるいは、人間は戦争よりずっと大きい(© アレクシェーヴィチ)のだとすれば……。やはりたぶん、ぼく個人の感覚と、作品がどうにも合わなかったと云うことなんだろう。

 

逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房

「私の知る、誰かが……自分が何を経験したのか、自分は、なぜ戦ったのか、自分は、一体何を見て何を聞き、何を思い、何をしたのか……それを、ソ連人民の鼓舞のためではなく、自らの弁護のためでもなく、ただ伝えるためだけに話すことができれば……私の戦争は終わります」

 まず前提として、本書のような作品が新人賞に送られてきたら獲らせるしかない。新人としてはあまりに破格で、作品の正体を捉えようとすればドーアパワーズ、国内なら小川哲や真藤順丈と云った、現役の実力派を比較対象として持ってくるしかない。そして彼らのように、絶賛を受ける一方で無数の検討・批判を受ける作品になるだろう、そうすることでますます作家・作品が豊かになるだろうと思う。それだけの強靱さがある。第二作がいまから楽しみだし、むしろ第二作ではじめて、読み手としても真正面から切り結べるのではないか、そうあってほしい、と期待しています。
 ドーアパワーズ・小川・真藤を挙げたのは四人に共通点があるからで、つまり「ジャンルフィクション的な仕掛けのある」「歴史小説」の書き手であること。ジャンルフィクション的な仕掛けは「ミステリ的構造」と云ってしまっても良い。超常現象が起こるかどうか、メタフィクショナルな語りかどうかは関係ない。ひとつの構造によって作品をまとめ上げ、「歴史を語ること」と云うこと自体を主題として語る、または、問いとして投げかける――そう云う小説の書き手。円城塔ドーア歴史小説『すべての見えない光』について、この小説が存在することが善か悪かさえわからない、とまで評する。構造によって貫くことは同時に様々なものを取りこぼし、踏み潰すことであり、ゆえにこそ語られるものもあって、どうであれぼくはそこに自覚的な小説を望む。では本書はどうか。その境地に至ることはできなかったと感じるものの、そこに至ることなく云ってしまえば開いた傷を開いたまま終えるような結末は、さらに階層立てれば「ひとつの問いを投げかけた」と評せるだろう。明らかにガルパンから引用しているふうの試験シーンほか、積極的に「エンターテイメント」の文法や構造を利用しながらそれを敢えて崩すような素振りも見せつつ独自のものとして再構成する手つきは巧みだし、とくにラスト、死者は語ることができず/生者しか語ることができない/しかし生者は口を閉ざす――と云う図式をミステリの企みに取り込む展開は、本書の主題と構造を一致させているかに見える。その先のエピローグでメタな仕掛け(たとえばアレクシェーヴィチらしき記者によってすべては再構成された物語だったのだ!と云うような)があれば、是非・巧拙は別としてまとめ上げることはできただろう。しかし本作はそうしない。そこに難しさがある。敢えてそうしなかったことも、ひとつの選択ではあり、その是非を結論することはいまはできない。
 ただ個人的に気になった点として、文体面での洗練が足りないのは擁護できない。三人称の名の下に錯綜してしまうPOV、それによってしばしば抜け殻のようになる人物の身体(抜け殻にさせることは本作の目的とは思われない)、結果として失われる語りの迫力。リーダビリティは高く、そことは多分にトレードオフな面があろうが、個人的には読んでいて引っかかる箇所がかえって増えてしまったように思う。
 ……と云うようなことをひとと話しつつ書いていて、結局、長さと内容がまだ噛み合いきっていないんじゃないか、と思えた。長すぎるのではない。短すぎるのだ。ミステリとか歴史小説とかなんかもうそう云うジャンルやら構造やらが無意味になるほどに、あるいは語りの問題もそう云う語りとして読ませるほどにまで長い、作品ではなくもはや大河のような長さがあれば、あるいは読後感はまったく変わっていただろう。
 しかしそれは、まあ、別ものである。