鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/12/10~2021/12/15

 過去最高に創作意欲が盛り上がっている。何か書けると良いですね。
 感想は例によって例のごとく、ミステリ研のDiscordサーバーに投稿したものを転載した。

ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮クレスト・ブックス)

「冬のマヨルカ五日間の旅」に出かけるのでも、そこまでする。ならば人生の終わりに近づき、車で静々と火葬場のカーテンをくぐる最後の旅が始まろうとしているとき、同様のことをもっと大きな規模でやろうとしても不思議はなかろう。私を悪く思わないでほしい。いい人だったと思い出してほしい。私を好きだった、愛していたと、みなに言ってほしい。仮に事実ではないとしても、悪い人間ではなかったと思ってほしい。頼む……。

 つらい話だ。分量は短いが、物語はずっしりと重い。読後感の印象が近いのは『春にして君を離れ』で、本作もまた、過去を思い返しながら自分がいかに何も見ていなかったかを思い知らされるミステリである。と云うか、意識していないわけがないだろう。
 語り手のトニーは、自分ではそれなりに平凡で平穏な人生を送ってきたと思っているインテリ老人の男。前半では、彼の高校時代の友人エイドリアンおよび大学時代の恋人ベロニカについて回想され、やがてエイドリアンとベロニカが付き合うようになったことでふたりと疎遠になってしまい、それからエイドリアンが奇妙な自殺を遂げるまでが語られる。物語が動き始めるのは後半、トニーのもとに手紙が届いたところからだ。一度会ったことがあるだけのベロニカの母が亡くなったのだが、彼女はトニーにそれなりの金とエイドリアンの手帳を遺したと云う。なぜ彼女がエイドリアンの手帳を? 旧友の死の真相を知りたいと思うトニーは手帳を貰おうとするが、ベロニカがそれを拒む。それもまた、なぜ?
 遠ざけていた過去と再び向き合うことでトニーははじめ、感傷に浸ろうとさえするのだけれど(ベロニカと熱心に復縁しようとさえする)、結末に近づくにつれ、認めたくない過去を突きつけられ、捏造していた記憶を思い知らされ、自分の人生を再考させられる。慌てて取り返そうとしてももう遅い。理解のために歩み寄ろうとしても、かえって自分が何も理解していないことをいっそう晒してしまい、拒絶される。あまりに痛々しい。もちろん独善的だったのはトニーだけではなく、全員が自分の物語だけを生き、ゆえに互いが互いを理解していない。すべてが遅すぎたのだ。最後に至る真実の重みも相俟って、結末に対して抱くのは、もうどうしようもないと云う〝終わりの感覚〟。人生とは何か。それが自らの記憶の積み重ねでしかなく、記憶とはあとから改竄されうるものだとすれば、自らの人生はもはや不確かだ。たぶん年齢を重ねてから読むと更なる重みを感じる一冊だろう。
 本書において記憶は歴史とアナロジーで結ばれる。歴史は勝者の嘘の塊である一方で、敗者の自己欺瞞の塊でもあると云う問答がリフレインされる。自分のやってきたことを都合良く捏造しながら老いてきたトニーの姿に、老いゆく大国イギリスの姿を重ねることもできる――と思ってしまうのは、本書においてはかえって野暮かな。

 

スティーヴン・ミルハウザー『十三の物語』(白水社

セトーカスのカヌーや十九世紀の縄編み場も細心の注意をもって陳列するし、図書館に収めるべく町の創設期の文書、インディアン戦争に関する歴史書、農場や工場の生産記録も購入を継続するけれども、私たちの心は〈新過去〉によって何より深く揺さぶられる――開け放たれ陽がさんさんと注ぎ込むガレージに置かれた缶に垂れた赤いペンキに、白い板張りの家の壁めがけて投げられその壁に青っぽい影が見えもするゴムボールの描く弧に、濡れて光る自動車のボディに向けられたホースの水の中で震えている薄暗い虹に。

(「ここ歴史協会で」)

 第六作品集。名匠の手になるものだとしても、流石に飽きてきた。ミルハウザーは一気読みするものではないな。
 細かな記述が生み出す驚異、過剰なまでに発達した技芸については『ナイフ投げ師』でひとつの極地を示したわけで、穿ちすぎた読みかも知れないけれど、本書ではその先を模索する様子がうかがえる。驚異自体で勝負するのではなく驚異がもたらす思索を眼目に据えたり、驚異に魅了され、翻弄される人間たちを主題にしたり。ミルハウザーがいままで試みてきたことを再話し、それと同時に今後の展望を思わせる作品が並ぶ本書は、「オープニング漫画」「消滅芸」「ありえない建築」「異端の歴史」と云う四部仕立ての構成もあいまって、さながら〝ミルハウザー博物館〟だ。『トムとジェリー』らしきアニメーションをひたすら、ひたすら、ひたすら文字に起こしていきその野暮なまでの細かさに驚嘆する巻頭作品「猫と鼠」からして、〝一見さんお断り〟的な雰囲気を感じなくもない。
 ある女性の失踪事件が初めはミステリふうに語られ、しかしもちろんそこからすり抜けるような結末へたどり着く「イレーン・コールマンの失踪」や、暗闇のなかでしか会えない少女とのボーイ・ミーツ・ガール「屋根裏部屋」などは、いままでと共通のテーマを感じさせつつこんなこともできるんだぞとあらためて確認させるよう。ただどちらも結末が、そうなるならそうなるだろうな、と云うところで収まってしまっていて、ちょっと食い足りないきらいがある。ある町の隣でその町をそっくり複製している町について語った「もうひとつの町」はこれがさらに発展すると『夜の声』の「場所」へ至るのか、と云う点で面白かった。ミルハウザーバベルの塔伝説「塔」は、天にまで届く塔よりも、塔をとりまく人間たちの動きに焦点を当て、それによってかえって塔を聳え立たせるような一篇。テッド・チャン「バビロンの塔」と読み較べても面白いだろう。ふたりは案外、作家として近いんじゃないかと思うことがある。ちなみに別のアンソロジーで既読だった「ハラド四世の治世に」は、『蒼鴉城 第47号』に書いた全員執筆の元ネタです。
「映画の先駆者」と「ウエストオレンジの魔術師」はどちらも世紀転換期アメリカにおける失われた発明を描く。やっぱりミルハウザーは、あの時代が好きらしい。ぼくも19世紀末~20世紀初頭アメリカの文化には興味惹かれるところがあって、案外これが、ミルハウザーが好きな理由かも知れない。不遜ながら思うけれど、たぶん問題意識が近いのだ。歴史に名を残すものではなく、なんでもないような、しかしかけがえのない過去――《開け放たれ陽がさんさんと注ぎ込むガレージに置かれた缶に垂れた赤いペンキ》とか――を蒐集する組織の意見表明「ここ歴史協会で」を読むと、とくに強くそう感じる。

 

ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)

もつれからまるバラの茂み、壊れたブランコ、濡れた砂場、朝の光に痛々しくむきだしになった赤い家。そんな周囲に目をやって、わたしはあのとき、ここを出ずじまいだったのかもしれない、とスマイリーは思った。この前きたときから、ふたりでずっとここにいるのではないか。

 引退生活から呼び戻された元スパイのスマイリーに託された任務、それは英国情報部その名を〝サーカス〟に潜り込んだソ連の二重スパイをさがすことだった。サーカスの中枢にいると云う裏切り者を追うなかでスマイリーは、いまは亡き上司が関わり、同僚のひとりが撃たれることになったある計画の全容にも迫ってゆく――。
 歯ごたえじゅうぶん。正直、かぶりついてみたものの、味わえたとはとても云えない。濃密で芳醇な香りと舌触りを感じただけだ。数年来の積ん読だったが、買った当時に読んだらさっぱりわからなかったに違いない。あと数年経てば、もう少し味わえるだろうか? それでもとりあえず、いま読んだ感想を書き残しておこう。
 物語の軸にあるのは二重スパイさがしと云う名のフーダニットだけれど、物語はじっくりと進み、なかなか核心にいたらない。細部の情報が順番に明かされ、ようやく何が問題なのか見えてくる。このもどかしいほどの鈍重――と云っても、悪い意味ではない――こそが小説全体の基調だ。群盲象を撫でると云うけれど、細部や断片が見えるばかりで、何が起きたのか、いま彼らが何をしているのかよくわからないまま翻弄される。それはまた、冷戦と云う全貌の見えない怪物のなかで情報をかき集め、ひとつの駒として身を捧げてきたスマイリーたちスパイにも当てはまることだろう。家族、友人、組織、そして国家。何重にもその身を取り囲む糸のなかでプロとして仕事をこなすスマイリーの姿は格好良いと思うか、それとも、痛々しいと映るか。そんな物語のなかでときおり表出する彼らの内面、とりわけ二重スパイ=犯人がわかったときの叫ぶような語りが印象深い。全容がわかったとはとても云えないけれど、模索する暗中にバチッと閃く細部に痺れる。