鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2021/12/25~12/29

 たぶん今年最後の読書日記。年間ベスト記事を年内に書けるだろうか。

ジョン・ディクスン・カー『四つの凶器』(創元推理文庫

「見事ではありませんか? 逆蛍の老いぼれバンコランはたとえて言えば脱帽し、ゆがんだ道筋をたどるゆがんだ天の摂理に敬意を表しますよ。(…)」

 怪奇要素はまったくないけれど、つい〝複雑怪奇〟と云う形容をしたくなる作品。中盤あたりは、もう、何が何やら。本書はぼくが最近読んだカーである『白い僧院の殺人』や『緑のカプセルの謎』と同様、複数の人間の意図と行動が交錯した結果として謎が出現する話なのだけれど、『僧院』『カプセル』が〝雪密室〟や〝衆人環視〟などひとつのシンプルなシチュエーション――もちろんそこに、意外なほどの奥行きを作り出すわけだ――を提示していたのに対し、本書では〝四つの凶器〟と云うまず表面からして複雑な事態が呈される。事件現場に発見されたのは剃刀と銃と薬、そして短剣。どの凶器が用いられたのか? 使われなかった凶器は、ならばなぜ現場にあるのか? 事件はさらに、なりすましやスパイ疑惑などによって過剰なまでに複雑化している。一応、凶器をめぐっては(図式だけ見れば)鮮やかなアイディアが中核をなしているのだけれど、これは複雑な事態を解決するどころかいっそう複雑な印象を与えるだろう。そのアイディアが作品内で実現されるにあたって絡み合った意図と偶然の相互作用は気が遠くなるほどだ。しかも(!)、そのアイディアは本書の中盤で明かされてしまうのである。後半はいささか唐突な感もある賭博もの風の展開を経て、犯人をめぐって余計に複雑な構図が示される。自分は解決篇を読みながら、しばらく何が起きているのか把握できなかった。各々の意図と行動が絡み合い、支え合い、しかし根本的にすれ違い、途方もない偶然がその交錯を加速する。とりわけ最終的に明らかとなる犯人の目的については、いっそ不条理ですらある。山口雅也は『貴婦人として死す』解説で、本書における偶然の扱いについて〝神の領域〟と評しており、作中でも探偵役のバンコランが〝天の摂理〟に敬意を表する。本書の〝事件〟は人間の企図なんて超えているのだ。
 構図が偶然を〝運命〟にすると云うならば、本書では構図をさらに複雑にすることで〝運命〟さえも解体し、神の気まぐれのような不条理感を残す。その印象を踏まえれば、読んでいるうちは余計に思えて斜め読みしていた後半の賭博シーンにも含蓄が見出されると云うものだ。こうして感想を書きながら段々と評価が上がってきた、一読しての感想を書くのが――核となるアイディアを指定しづらいこともあって――難しい作品。
 それはそれとして今回も細部のアイディアが冴えている。事件現場の時計や、剃刀のロジックは膝を打った。全体が複雑だからこそ余計に、冴えたディテールが印象に残るのかも知れない。

 

滝口悠生『死んでいない者』(文春文庫)

 毎日毎日代わり映えのしない客の代わり映えのしない会話もまた、そこには必ず捨て置けない差異があり、その差異とともにこの店のささやかな時間が蓄積し歴史となる。彼女の趣味と意向で、店内の壁にはほとんど装飾がなされていないが、開店十周年を祝って常連たちが寄せ書きをした色紙がカウンターから正面の壁に飾ってある。カラフルなマジックで記された十名ほどの名前とメッセージのなかには、今日のこの四人のものもちゃんとある。その色紙がもう十年近く前のものになる。
 同じようでいて同じ会話は二度とない。

(「夜曲」)

 芥川賞受賞の表題作に「夜曲」を併録。「夜曲」は表題作を人数もシチュエーションも絞って再構成したような趣で、解説で津村記久子が本書のテーマを「夜曲」の一節〝同じようでいて同じ会話は二度とない。〟から見出しているように、表題作の種明かしと云う感もある。そして表題作は、素晴らしかった。ちょっとあざとい気もするけれど、終盤の途方もない美しさは忘れ難い。
 表題作の舞台はある老人の通夜。一堂に会した親戚たち(とは云えそこには、故人の友人なども出席しているのだけれど)のそれぞれの一夜をPOVがたゆたってゆく。この語りがなんともユニークで、三人称多視点のようなカメラの切り替えや神の視点のような俯瞰ではなく、幽霊のようにその場にいる者の視点に取り憑いては移ろう。それは記憶や思考、さらには時間を超越することもあり、果てはその場に存在しない、生きているかも定かではない音信不通の親戚にまで視点が広がってゆく。以前『同志少女よ、敵を撃て』について視点の不安定さが登場人物の身体・思考を空疎にしていると指摘した気がするけれど(ボイスチャットか何かの会話だったかも)、本書ではその不安定さを技巧として使いこなし、ひとつひとつの出来事、身体の身振り、それぞれの思考、喚起される記憶の数々、そして交わされる会話をかけがえのないものにする。マクロな歴史をミクロなひとりひとりにぎゅっと押し込んでしまうのではなく、ささやかなひとりひとり――もう死んで居ない者とまだ死んでいない者たち――の積み重ねとして歴史を起ち上げるのだ。急速に釣り上がる視点から語られる、聴き取ることのできない音までも記憶するラストシーンは、繰り返しになるけれど、途方もなく美しい。
 ただ、家族、と云うより「イエ」を前提にしたような話であり、個々人を縛るものであると同時に極言すれば他人同士の個々人を結びつけて居場所としてしまう家族なるものの両面性を自分は面白く読んだけれど、いまとなっては拒絶感を覚えるひとが多そうな前提ではある。顔も知らない親戚の葬儀で顔も知らない親戚と食事をした経験があるかどうかでも読み心地は変わってくるだろう(経験していなくともありありと想像させる作品ではあるけれど、自分の経験を想起することは本書の読書体験に強く関わってくる(まあ、どんな小説でもそれは同じか))。加えて、どの人物もいかにも「文学的」な内省をしたり、かと思えば少年少女に次々と酒を飲ませたりするのは、書こうとしていることはわからないではないとは云え――身体と思考の関係が云々――読んでいて気になった。これもたぶん、どう云う場を経験してきたかによって変わってくる読み心地に違いない。

 

小森収・編『短編ミステリの二百年〈6〉』(創元推理文庫

 エドガー・アラン・ポオが「モルグ街の殺人」を書いて、もうすぐ二百年です。短編ミステリに未来があるとするなら、それは「ジェミニー・クリケット事件」を目指すのではなく、?としか形容できないミステリを目指すところにあるのだと、私は思います。

 やってくれたな、小森収(敬称略)!

 アンソロジーとしての打率は相変わらず高く、とくにルース・レンデル「しがみつく女」やパトリシア・ハイスミス「またあの夜明けがくる」、ローレンス・ブロック「アッカーマン狩り」あたりは面白く読んだけれど、何より本書の目玉はクリスチアナ・ブランド「ジェミニー・クリケット事件」の英米両バージョン――この希有な作品は面白いことに、読み心地のかなり違う、優劣つけられないふたつのバージョンが存在するのだ――と、巻末の解説「誰が謎を解いたのか」だろう。と云うか、このアンソロジーの眼目こそがこれであり、この結末のためにこのアンソロジーは編まれていたと云って過言ではない。
 小森は「ジェミニー・クリケット事件」を20世紀最高の短篇ミステリと評し、これまでの収録作やエッセイで触れてきた短篇ミステリの美点がこの一篇に詰まっていると云うけれど、真相は逆ではないかと思う。つまり、「ジェミニー・クリケット事件」を20世紀最高の短篇ミステリとして位置づけるために、全6巻かけて小森収は、短篇ミステリ史を編み直し、短篇ミステリの美点を文脈づけたのだ。思わず「あなたが――蜘蛛だったのですね」などと云いたくなる。しかしそれでもなぜか、いや、だからこそ、小森が蜘蛛なのではなく、蜘蛛は「ジェミニー・クリケット事件」である。読むものに強烈な印象を与えながらその正体を捉えがたいこの短篇は、小森の解説で論じられている通り、謎解きに重点を置いた安楽椅子探偵もののパズル・ストーリーであると同時に緊迫感漲る進行形のクライム・ストーリーであり、なおかつ、そのどちらでもない。それでいて奇妙な味と評して躱すにはあまりにパズルに徹していると同時にサスペンスフルだ。そんな変幻自在の蜘蛛を、小森は全6巻分のアンソロジーで取り囲むことにより〝20世紀最高の短篇ミステリ〟として確保しようとする。しかし全巻を通して読み終えたとき残る印象は、むしろなおさら底知れなくなった「ジェミニー・クリケット事件」から、ほかの作品へと蜘蛛の糸がわたされてゆく感覚ではないだろうか。これまでこのシリーズを読んできたなかで作品間に感じてきた繋がりや共鳴――真実を相対化したり、謎解きに多様な役割を持たせたり、場合によっては謎解きを排除してもなおミステリとして成立させる文体やサスペンスの技巧であったり――の奥、そうして張りめぐらされた巣の真ん中に「ジェミニー・クリケット事件」が待っていたわけだ。
 小森は短篇ミステリの未来として、だからこそ「ジェミニー・クリケット事件」の真似ではなく、新たな「ジェミニー・クリケット事件」となり得るような――「?」としか表現できないものを求める(近年の、とくに21世紀に入ってからのエドガー賞などはあまりお気に召さないようだ)。悪い意味で「?」がしばしばくっつく解説は相変わらず良質とは云えないものの、すべての根本に、「ジェミニー・クリケット事件」を通して示したような態度があるならば、こちらとしても納得できないではない。エリスン評でゼロになった信頼を、ちょっとだけ見直してやらないこともないなと思った。
 最後は何様なんだと云う感じですが、ま、それが偽らざる本音でございます。ナニサマになれるのは若者の特権と云うことで、ここはひとつ。

 

 それでは、良いお年を。