鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2021年下半期ベスト

だけど、もうだれも逃げられはしないんだ。トミーはポケットに両手をつっこみ、反対方向に歩きだした。はじめはゆっくりとした歩みだったが、しだいに速くなり、最後にはほとんど駆け足になっていた。まるで骨の中身がすっかり空っぽになってしまったようだった。今朝感じた全身の重みとは逆に、からだが軽く、どこへでも飛んでゆくことができた。頭は風船になり、足がちゃんと舗道についているかどうか、いつも確かめていなくてはならなかった。それは気味がわるい、それでいて妙に心踊る経験だった。もうだいじょうぶ、と陰気に思った。だいじょうぶだ。

ガードナー・R・ドゾワ「海の鎖」(傍点部分をボールドに置き換え)

 何かを考えるようで、何も考えていないことがわかったような一年でした。上半期ベストを書いたのがつい先月、去年の下半期ベストを書いたのもついこの間のことのように感じます。パンデミック以来、自分のなかで何かが止まったような感覚があって、しかしそれでも自分含めた世界は動き続けていることに戸惑いと胸苦しさを覚える日々ですが、読書がひとつの助けになっていることは間違いないでしょう。しかしそれを「救い」や「癒し」とまでは云いたくありません。読書とは常になんらかの切り結びでありましょう。
 そんなこんなで下半期ベストです。長篇と短篇で20作品ずつ。順序は優劣を意味しません。

長篇

 12月の前半は文章練習と称して写真を挿絵に見立てて短い文章を起こす訓練に費やした。ものになっているかどうかはわからない。とは云えそこでお世話になったのがカモガワGブックスとSFマガジンの原稿料で買った『モダン・カラー』。カナダを中心としたそのカラー写真はときに奇妙でありながらどこか切なく、じっと見ているだけで泣きそうになる。
 文章練習と云えばル゠グウィン『文体の舵を取れ』。まだ全課題を終えていないけれど、実践例として挙げられる古典のなかにはハックルベリー・フィンの冒険も含まれていた。計算された拙い文体によって語られる、最後のフィンの決意が胸に迫る。語りの技巧で云えば『詐欺師の楽園』も絶妙で、エモーションや思弁を伏流させつつ飄々とホラを吹く。《プロチェゴヴィーナ公国のレンブラントと称せられる画家アヤクス・マズュルカ――美術史上最大の意義をになう人物のひとりとされているこの巨匠は、実はかつて実際にこの世に存在したことはない。彼の作品は後世の偽作であり、彼の評伝は虚構である》と云う書き出しからして大胆不敵だ。同じく真贋をテーマとしたハイスミスのサスペンスはまさしくその名も『贋作』。真贋と虚実のあいだにあるサスペンスがアイデンティティにまで食い込んでゆく。その裏にあるもうひとつのテーマは究極の愛だ。ニセモノとホンモノの転倒はイングランドイングランドでもテーマになる。こちらで贋造されるのは、なんとイングランドそのもの。そして本書でも、愛国心や家族の愛を含めた、愛がテーマとして伏流する。今年出会った作家のなかでも個人的に最大の収穫であるミルハウザーもまた、人工的な世界や虚実と云ったテーマに惹きつけられる作家である。エドウィン・マルハウス』はその後に読んだ幾つかの短篇集で繰り返されるモチーフやテーマをあらかじめ含んだデビュー作にして代表作。すべてのページが面白い。語り/騙りの技巧をこちらも虚実のあわいに仕掛ける『魔法』は具体的にどんな仕掛けなのか説明しづらい。微妙にずれた合わせ鏡のような、めくるめく像と交錯する視点、はかり知れない奥行きを自分の眼で確かめていただきたい。問答無用の超絶技巧が発揮された以上のタイトルと並べるには力不足な感もあるけれど、『ヨルガオ殺人事件』の作中作の出来とその使い方がユニークで、前作の『カササギ』を遥かに凌ぐ面白さ。あまり好きな作家ではないし、いい加減ホロヴィッツが新刊ランキングを総ナメするのは勘弁してくれと思うものの、今年に関してはこれを新刊ベストに挙げることを厭わない。下半期はこのほか、マクロイやカーなどクラシック・ミステリも読んだ。とくにカーは『緑のカプセルの謎』『四つの凶器』も面白かったけれど、やはりワンアイディアの切れ味と細部の冴え、そしてヴィジュアルイメージの美しさで『白い僧院の殺人』に軍配が上がる。真相の複雑さをも包み込むような雪の白。ロスマクも中期作品を集中して読んで、これまた甲乙つけがたいものの、一連の作品群の終着点として『一瞬の敵』を挙げよう。最後のどんでん返しは、もはやどうしようもないどん詰まりの一撃として、鮮やかさとは対極の混沌とした印象を残す。ロスマクと同様に張りめぐらされた構図を、蜘蛛の巣に見立ててすべて操ってしまう恐るべき犯人を作り出したのが『絡新婦の理』。これは果たして、人間が生み出して良いものなのか――犯人も、作者も。ミステリと云うジャンルが持つ特徴や奇妙さを誇張した可笑しな連作『探偵X氏の事件』はしかし、笑いの奥に一種の哀切を感じさせる。収録作品ではないが同系統の短篇「夕日事件」の切なさだ。全篇ロジックによって貫かれた〝本格ミステリ〟――普段は抵抗のあるこの言葉も、鮎川哲也作品についてつい云いたくなる――『黒い白鳥』もトリックや論理の冴えた切れ味だけでなく、解決篇におけるあの切ない対話があることによって、傑作になったと云えるだろう。あの対話の幕切れは、ミステリの技巧をいくら学んで真似しようと思ってもできない。
 今年最も話題になった漫画であろう『ルックバック』についてはしかし、多言を尽くそうと思わない。褒めることも貶すこともまだ、うまくできない。ただ、公開直後の数時間だけが〝ホンモノ〟だったのではないかと思う。もちろん、上述してきた作品にあるように、真贋は良し悪しと一致しない。
 ここからは研究書やノンフィクション。『「犠牲区域」のアメリカ』は、先住民族の聖地や居留地に焦点を当てたルポルタージュにしてアメリカ論だった。アメリカと云う混沌とした国の、複雑な文脈が作り出す、一見すると捩れた論理を解きほぐす。文体は明るいし扱う時代は広いし論じる舞台は主としてイギリスではあるけれど、『近代文化史入門』もわかりやすい歴史のなかで黙殺された複雑な文脈を取り出して解きほぐす刺戟的な一冊。饒舌すぎて話半分に聞くべきな気もするけれど、聞いている間はすこぶる楽しい。そのマクロで大胆な論とは正反対に、当時の文献にあたることで従来の歴史(=二十世紀写真史)の捉え方を覆そうと図るのがカルティエブレッソン。こちらも筆が走りすぎていて、とくに批判対象に過剰な攻撃を加えているのが気になるものの、同意できない箇所があるからこそ刺激されっぱなしの力作評論だった。写真史だけでなく広くはメディア史にも目を通そうと思って手に取った『グラモフォン・フィルム・タイプライター』もまたバチバチと閃光走るように刺激に溢れた大著。まあ、精神分析を用いた論、とくにタイプライターのあたりはよくわからないんですが。『批評について』は文体に外連味はなくいっそ退屈なほどだけれど、コンパクトに批評実践の再構築を試みた一冊。感想や批評の実践について思いついた雑語りを何か云うならたいていここに書いてあります。反論も多いものの、それでも参照される価値ある名著だと思う。
 そして年の瀬も迫りに迫って年間ベスト級どころかオールタイムベスト級となったのがまるで探偵小説のようなルポルタージュ『SS将校のアームチェア』だ。椅子のなかから見つかったナチの資料。誰が、なんのために隠したのかを追いかけるうち、ひとりのSS将校の人生と、彼を取り巻くひとびと、ひいては歴史が浮かび上がる。歴史書としての難点さえも、一人称捜査ものとして読みどころとなる傑作。

短篇

 叢書〈未来の文学〉の完結はSF界にとっても、ぼくにとっても事件だった。この叢書はぼくがSFも読むようになったきっかけでもあり、感慨に耽ると同時に、感慨に耽る間もなく全レビューとトリビュートの仕事も引き受けた。上半期の主たる活動が「よふかし百合」だとすれば、下半期の主たる活動は「カモガワGブックス」と云うことになるだろう。あらためてお礼申し上げます。企画にお誘いいただきありがとうございました。さて、『カモガワGブックスVol.3 〈未来の文学〉完結記念号』のレビューでも指摘されているように、〈未来の文学〉を締めくくるアンソロジー『海の鎖』の、これまた最後を締めくくる中篇「海の鎖」は、ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」と対になるような、新たに〈未来の文学〉を代表する傑作。また文体も味わい深い。読みながら傑作だと確信できる数少ない例のひとつである。事件と云えば少しささやかではあるけれど『裏切りの塔』の刊行も今年の出来事として印象深かった。傑作「高慢の樹(驕りの樹)」を収める本書は、ずっと出して欲しいと思っていた。全体としてチェスタトン濃度の高いこの一冊にあって、訳し下ろしの戯曲「魔術」は、戯曲なだけあっていつもの描写が薄まった一方、描写の印象の陰に隠れがちな会話の切れを堪能できる中篇だ。《僕は盗みよりも悪い罪を犯しましたか?/この世で一番残酷な罪を犯したと思います。/一番残酷な罪とは何です?/子供の玩具を盗むことです。/何を盗んだんです?/御伽噺を》――。そう云えばミルハウザーは、チェスタトンの子孫に位置づけることができる作家だろう。邦訳は全部読もうと云う勢いで彼の短篇集を何冊か読んだ。「幻影師、アイゼンハイム」「ナイフ投げ師」「夜の声」なども捨てがたいものの、ここでは御伽噺のような「J・フランクリン・ペインの小さな王国を挙げておく。急速に幻想の度合いを高めてゆく結末に圧倒された。現代海外文学の活きの良い短篇を水揚げするアンソロジー『BABELZINE』のvol.2からは「シュタインゲシェプフ」「レム外典を双璧としたい。前者は設定と叙述技法を物語と噛み合わせるのがとても巧み。後者はユニークなレム論にしてレム・トリビュートで、以上2篇ともどちらかと云えば技巧に感心していた。逆に小手先の技巧では通用しない迫力で圧倒してくるのがラファティであり、今年はベスト盤が2冊刊行された(来年は完全訳し下ろしの短篇集が出るらしい)。再読のはずだけれどほとんど新鮮な気持ちで読めた「クロコダイルとアリゲーターよ、クレム」は分身テーマの傑作。笑えて、怖くて、何よりカッコいい。結末の語りはとくに見事だ。ラファティと、それからウルフ、カソリックの作家たちに捧げられた〈未来の文学〉トリビュート「衣装箪笥の果てへの短い旅」。坂永雄一作品なら『NOVA』に載った「無脊椎動物の想像力と創造性について」も素晴らしかったのだけれど、自分も寄稿した〈未来の文学〉トリビュートに寄せられた本作は、ぼくが真っ先に逃げてしまった〝古典ファンタジーを題材に書く〟ことに挑戦してみせ、成功を収めたと云う点で感服&恐縮するほかない。お見事です。『NOVA』からは代わりに、こちらも力の入った中篇「おまえが知らなかった頃」を挙げたい。腹にどすんと響く、迫力のあるナラティヴと骨太なストーリー。全体の安定感で云えば中短篇の書き手として、比較的近い書き手であろう小川哲をも凌ぐだろう。安定感で云えば、奇想天外な書き手と云う印象だった三方行成が真正面からファンタジーを書けることも示した「竜とダイヤモンド」も忘れ難い。〝ドラゴンカーセックス〟と云う着想こそイロモノだけれど、語られる物語は意外なほど多面的で、痛切にして痛快だ。へんな話の書き手としてもうひとり、千葉集も見落としてはならず、「へんなさかな」はまさしく〝扁(へん)〟なおはなしだった。奇想から始まった物語が当初の印象を裏切って切ない――しかしやっぱりへんな、けれど最初のへんとは違った情感を湛える結末にたどり着く。そして奇妙さの最果てに行きつくのが円城塔の探偵小説、または非探偵小説「男、右靴、石」。これまでの作品のように煙に巻いたり韜晦したり仕掛けを凝らしたりするのではなく、直球に不可解なものを投げつけ、ぎゅーんと飛んでゆく。あの男は、右靴は、石はどこへ? こたえの明かされないミステリとして書かれたSFと云う点では、レポートの形式で横書きに綴り、架空の写真まで用意して凝ったつくりの「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」も面白かった。長いタイトルは便宜上のもので、本来は無題の小説とのことだけれど、エイズと云う死因がここでさり気なく示されているのは無視しできない。彼は何をしたかったのだろう? 超能力要素があると云うことで「サマードッグ」もSF短篇に入るだろう。いっそ爽やかなタイトルと裏腹に人間の身勝手さと残酷さを描き、けれどニヒルに終わることなく、その残酷さを前にしても砕けない気高さや優しさを残す。さらには静寂さを湛える美しい冒頭から、サスペンスフルな展開と社会への眼差し、いずれも疎かにせずまとめあげた非の打ち所がない一篇。そう云えば今年の後半はミステリ短篇をあまり読めず、ここにはメルカトル鮎シリーズ久しぶりの単行本『悪人狩り』から「メルカトル式捜査法」を挙げることしかできなかった。神か、悪魔か、メルなのか。これはメルカトル鮎にしかなし得ない推理だろう。フィクションからは最後に、直前の読書日記でも感想を書いた「死んでいない者」を挙げる。ある通夜のひと晩を舞台に、さまざまに視点が移ろいながら、家族それぞれの身振り・思考・記憶を綴る。あざといまでに良くできた結末が美しい。
 ベンヤミンのメディア論として有名な「技術的複製可能性の時代の芸術作品」は幾つかの稿があるけれど、読んだのはベンヤミンのもともとの思考が強く出ていると云う第二稿。決して長くない分量に、こんにちまで広く深く検討され続ける問題を収め、一気に駆け抜ける。写真論ではこちらも古典的な一篇「『写真家の眼』序文」。こんにちではむしろ否定的な文脈でフォルマリストとして紹介されることの多い(気がする)シャーカフスキーだけれど、少なくともこの一篇を読む限りでは、決して一面的な評価だけで退けられるべきではないと思った。意外にもその射程は長く、広い。逆に云えば、未だにここから抜け出すことは難しい、と云うことでもある(が、ぼくは写真論はまだ詳しくないので頓珍漢なことを云っているかも知れない)。「象の絞首刑」アメリカ史の論文だけれど、扱っている題材がタイトルの通り、象が首を吊って殺された事件と云うのだから面白い。ある見世物一座の象がひとを殺し、その罰としてなぜか象が吊される。この奇妙な事件の真相を突き止めるのではなく、むしろ外側へ、その奇妙さを解体するようにして、事件を世紀転換期アメリカと云う時代のなかへ位置づける。長篇の方で挙げた『絡新婦の理』は解説も素晴らしく、「『絡新婦の理』解説」はより範囲の広い京極論、さらにはミステリ論としても読めると思う。親しみやすさも含め、巽昌章のベストワークのひとつだろう。そして解説では、ようやく完結した巨大アンソロジー『短編ミステリの二百年』を締めくくる、解説の終章「誰が謎を解いたのか」も、ともすれば収録作以上に、謎解きとして面白い。クリスチアナ・ブランド「ジェミニー・クリケット事件」の英米版両方を読み比べながら、その正体に迫り、そしてこれまでのアンソロジー収録作が、この双子に収斂することを明かしてみせる。これまで読んでいるうちに見出されてきた作品間の共鳴や接続、その張りめぐらされた糸の奥に「ジェミニー・クリケット事件」があったと云うわけだ。畏怖と感嘆を込めてつい、あの傑作にこう云いたくもなる。
「あなたが――蜘蛛だったのですね」

 以上、20作品ずつ計40タイトル。強いてベストを挙げるなら、長篇が『エドウィン・マルハウス』か『SS将校のアームチェア』。短篇なら思い入れも込みで、「海の鎖」になるだろう。

 それではみなさん、良いお年を!