鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

読書日記:2022/01/11~01/15

 ミステリ研にいたこの4年間、ミステリを相対化するばかりで、〝本格ミステリ〟なるものと四つに組むことを避けてきたように思う。

大山誠一郎『記憶の中の誘拐 赤い博物館』(文春文庫)

 しかしそれは、警察官の問うことではなかった。

 一篇ごとの分量が『赤い博物館』無印に較べると落ちており、これを手軽になったと云うべきか読み応えがなくなったと云うべきかは好みのわかれるところだろう。無印の腰を据えた中篇の方が自分の好みではあるけれど、大山さんの文章は良くも悪くも情報を素のまま出してしまう、文体そのもので読み手を牽引しない淡泊なもので、長い話だとだれることもあり(たとえば「復讐日記」は偏愛している作品だけれど、けっこう長い序盤の手記パートがつらい)、今回のように最低限の記述に抑えられた分量の方が、解決まで急転直下と云う印象が強まってインパクトがある。表題作「記憶の中の誘拐」の、緋色冴子が捜査を引き受けてから解決するまでのスピード感を見よ。
 ただ、このシリーズの形式がいわゆる〝回想の殺人〟であることを踏まえると、その形式が要請するような時間の重みや人間の厚みが、この短さでは物足りない。ただその印象も、本書のもうひとつの読みどころである動機・心理面での驚き――5篇すべて〝愛〟と括ることができると思う――によってカバーされているし、ある程度の空疎さがかえって、その心理面を突出させているとも云えるだろう。ただやっぱり、もう一度「復讐日記」のような重たい斧で撲られるように切られる衝撃を、と無責任な読者としては期待したくなる。
 全体の印象としてはそんな感じ。サクッと濃いめのミステリ的快楽を得るにはうってつけ。
 個々の作品で云うと「夕暮れの屋上で」が犯人当てとしてのソリッドな作りに好感を持った。すれっからしの読者ならわかりそうなアイディアだけれど、そのアイディアのために状況を丁寧に整えることで反転の衝撃が波状に広がるような造りになっているので、当てても当てられなくても楽しい一篇。何より、この作品ならではの限定条件が良い。こう云う、ユニークな条件が出てくると犯人当ての読み手として喜んでしまう。そのほか、「連火」は流石にあからさますぎると思うけれど(ぼくでも冒頭で何をやりたいのかわかったので)、擦り倒された「八百屋お七」の趣向を最初から明かしてしまい、〝火事によって誰と会いたいのか?〟と云うこと自体を謎に持ってくる発想には膝を打ったし、意外な犯人を持ってきてやろうと云う気概を感じる。バラバラ殺人ものの「死を十で割る」は、死体を解体するユニークな理由より、そのアイディアから逆算されたのであろう、途方もない偶然と歪な行動が印象深い。死をめぐる、運命と人間との切り結びだ。「孤独な容疑者」「記憶の中の誘拐」は、真相に驚きはするものの、反転にこだわるあまり、その反転が作品内で空転してしまっているように思う。前者は、とってつけたような推理と、なにで読者を驚かせたいのかわかる前に結末まで一気に転がってしまうのが残念。後者は、スピーディではあるものの、スピーディすぎて厚みがなく、犯人の〝愛〟やその歪さが、ほかの作品に較べると空疎だ。前述した本書の短所が出てしまった二篇。

 

麻耶雄嵩『螢』(幻冬舎文庫

 それからしばらくは、二人ともぼんやりと雨音に耳を傾けていた。弔いの館に降り続ける雨。由来を知った今では涙雨に思えてくる。この涙雨が永遠に降り続き、建物を侵蝕し全てを無に帰してしまう。そんな錯覚さえ覚える。自分たちは一生ここから出られず、加賀の創った螢の想念の中に閉じこめられ死んでいくのではないのか。あるいは『夜奏曲』のレコードのように、それを聴いた加賀螢司のように、死さえ繰り返しを迫られ発狂して終わってしまうのか。

 実は読んでなかった枠。しばらくこの枠が続きます。
 離して見るとごくごく素朴なフーダニットin嵐の山荘なのに、近づいてみるとどうも細部の構図が、筆致が、技巧が歪んでいる。解説でも云われている通り、地味であることが異形、と云う不思議な読み味。何が凄いのかわかりづらい系麻耶雄嵩。ただ、高校生~大学1回生の頃くらいに読んどきゃ良かったな、と後悔した。もっと素直に面白がれただろう。
 そもそも私的に偏愛している麻耶作品は「禁区」をはじめとして「答えのない絵本」や「加速度円舞曲」、『隻眼の少女』であり、要するに自分はアイディアのインパクトよりは構築された論理の造形美を求めているきらいがあるので、本書は犯人特定のあの箇所を除いていまひとつ面白がれなかった。逆に云えば、あの奇妙な限定条件ひとつだけでお釣りが来る作品ではある。しかしそうやって評してしまう時点で良き読者ではなかったんだろう。
 そのアイディアについても、作者本人がのちにいろいろな形でセルフリメイクしているものなので、強い衝撃を受けたわけではない。どちらかと云えば、それを犯人当ての限定条件に活かすかたちで書いてあることに面白さを感じた。ただ、仕掛けのための仕掛けと云う感は少なくとも一読した限りでは拭えず、ヌケヌケ具合ではのちのアレの方が好み。もちろん、本書のこの少々長い、悪く云えばいささか冗長な、良く云えばがっしりと重い物語にあってこそ輝くものではあり、本書独自の面白さを獲得してはいる。だからやっぱり、こちら側の読む順番や時期の問題だったのではないかと思う。
 鍾乳洞とか屍蝋とかはそこまでやるのかと云う驚きがあった。本書の奇妙な読み味は、むしろそのあたりから生まれているのではないかと思う。あのアイディアを成立させるだけならシンプル&ソリッド&オーソドックスな短めの長篇として仕立てても良かったはずで、しかしそうはせずにいっそ蛇足とも映りそうなレベルで物語を(あくまで館のなかで)膨らませた、しかしその膨らませ方自体は決して異形なわけではない、と云う微妙なラインに、最初に書いたような、遠くから見ると普通でも近づくと異形、と云う印象が由来している。
 本気なのかパロディなのか、直球なのか変化球なのか、人工的なのか天然なのか、開いているのか閉じているのか。裏の裏は果たして表とすっかり同じなのか。その、逸脱と遵守が一緒くたになってしまったようなつかみどころのなさがミステリの技巧としてあらわれたとき、あのアイディアとして結晶している。

追記。あるいは、このつかみどころのなさ、パロディなのか本気なのかいまひとつわからない理由は、本書が綾辻行人の《館》シリーズへのトリビュートだからではないか、とか思ったり。 

 

綾辻行人『霧越邸殺人事件〈完全改訂版〉』(角川文庫)

 この家は祈っている。

 実は読んでなかった枠その2。『螢』とは逆に、急いで読むことなく、自分のなかで読む機が熟すのを待っていて良かった作品だと思う。高校生の頃に読んでも、もちろん傑作だけれど、その正体がいまひとつ掴めないままだったに違いない。まあ、今回掴み切れたとも云えないのだけれど。その曖昧模糊とした雰囲気こそが本書の魅力だ。
 お話としては王道も王道、〝閉ざされた雪の館〟の〝連続殺人〟であり、しかも〝見立て〟と来た。終盤には素人探偵による華々しい推理もあり――みんなを集めて「さて」と云う!――全篇に横溢する怪奇的な雰囲気と衒学的なまでの〝名前〟をめぐる考察は、〝本格ミステリ〟であることに過剰なまでに自覚的である。しかし本書の面白いところは、そう云った〝本格ミステリ〟の構造がかえってそれに捉えきれないものを呼び込むことだろう。ミステリと幻想の融合と評されることの多い本書は、どちらかと云えば巻末のインタビューで作者本人が述べているように、ジャンル越境と云うよりミステリとしての要請に応えた結果――ミステリであることに過剰に自覚的になった結果として突き抜けた作品だと思う。すべてが図式に回収されてゆくことの不思議さを浮かび上がらせ、図式に回収してゆくことの危うさへと至り、これ以上はミステリがミステリでなくなるかも知れない臨界点に触れている。探偵の推理とは畢竟、起こった出来事についての解釈に過ぎず、点と点を線で結びつけてゆくその営みは必然的に現実から遊離してゆく。それを踏まえると本書のユニークなところは、そうした探偵の営みはともすると犯人のそれへと近づくことを、いわゆる〝操り〟とは異なるかたちで示している点であり、むしろ探偵と犯人をめぐる構造をすっぽりと覆うように事件があり、館があり、世界がある。ここにクイーンの残響を聴き取ることだって可能だ。巽昌章綾辻作品のなかでもこれだけを色んなところで言及するのも頷ける、蜘蛛の巣のように暗合を張り巡らせた傑作。