鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

文体の舵を取れ:練習問題⑩むごい仕打ちでもやらねばならぬ

 ここまでの練習問題に対する自分の答案のなかから、長めの語り(八〇〇字以上のもの)をひとつ選び、切り詰めて半分にしよう。
 合うものが答案に見当たらない場合は、これまでに自分が書いた語りの文章で八〇〇〜二〇〇〇文字のものを見つくろい、このむごい仕打ちを加えよう。
 あちこちをちょっとずつ切り刻むとか、ある箇所だけを切り残すとかごっそり切り取るとか、そういうことではない(確かに部分的には残るけれども)。字数を数えてその半分にまとめた上で、具体的な描写を概略に置き換えたりせず、〈とにかく〉なんて語も使わずに、語りを明快なまま、印象的なところもあざやかなままに保て、ということだ。
 作品内にセリフがあるなら、長い発言や長い会話は同様に容赦無く半分に切りつめよう。


 感動の最終回。
 原文には練習問題④の問二を使用した。

washibane.hatenablog.com

 

原文

 お兄さんが帰ってくるまで、きみは自分に兄がいることを知らない。よく晴れた春の午後、上がり框に腰掛けている薄汚れた服の男のことを、だからきみは怖いと思う。たまにお母さんが駅の方まで連れて行ってくれるとき、駅舎の柱にもたれかかったり風呂敷を広げたりしている男たちと同じ服だ。同じ服の同じ男たちが、きみは以前から怖くてたまらない。そう云うひとを前にするときと同じように、だからきみはお母さんの躰の陰に身を隠す。二本の脚の間から様子をうかがう。薄汚れた服の男はきみに笑いかける。お母さんは彼を拒絶することなく、それどころかきみを引き摺って前に出そうとする。きみは叫ぶ。お母さんがどなる。お兄ちゃんやよときみのつむじを小突く。
 そんなん嘘やときみは云う。
 嘘云いな!
 男が声を上げて笑う。四月馬鹿やな。そんなん嘘やな。そう、嘘でもええ。
 照れくさいだけや。
 知らんもんは知らんもん。誰やの。
 きのうも云うたやない。お兄ちゃん帰ってくるよって。
 無理ないわ。おれが出てったとき、こおんなちいちゃかったもんな。男は右手のひとさし指と親指を近づけて輪っかをつくる。そんなん嘘やときみは云う。四月馬鹿やなとまた男は笑う。きみはその言葉を知らない。
 早よ帰って来たんやねえ。
 神戸で車持っとる友達と会うてな。無理云って乗せてもろうた。外に駐まってるやろう。
 車? きみは頭を出す。
 お? なんや、車、好きか?
 反射的に、きみは頷く。
 フォードやで、フォード。誇らしげに兄が云う。この辺やと珍しいやろう。
 この子はいつも外の車ばっかり見とるんよとお母さんが云う。排気もあんまり躰に良くないんやけどねと溜息をつく、きみの頭を撫でる。それこそがきみが頷く理由だ。もし頷かなければ、窓さえ閉められるときみは知っている。
 だからきみは、車が好きなふりをする。
 外国の車だ。シートは革が張られて高級に見える。お兄さんの友だちは外で煙草を吸っている。お母さんが眉を顰める。お兄さんはきみを運転席に乗せる。腕をいっぱいに伸ばしても、きみにはハンドルに手が届かない。それぞれの計器がそれぞれの数字を示している。お兄さんはお母さんと喋っている。お兄さんの友だちも混じって、三人は玄関で話し込む。きみがミラーを覗き込んだとき、お母さんたちが家に入るところだ。待ってときみは声を上げる。ドアに身を乗り出す。硬いものが足に当たって落ちる。潜り込むと、シートの下からきみは本を取り上げる。
 日本語で書かれた本だ。厚くて硬い板が切れるように鋭い紙を挟んでいる。芥子色に塗られた表紙には車がたくさん描かれてある。
 車、好きか?
 そんなん嘘やと君はつぶやく。シートに凭れると服がこすれて小気味良い音をたてる。本を腿の上に載せ、きみは最初から読まないで、好きなところのページを開く。

提出作品

 お兄ちゃんやよ。お母さんがきみのつむじを撫でる。
 嘘や。
 この子は!
 男が笑う。四月馬鹿やな。そう、嘘でもええ。
 云うたやない。お兄ちゃん帰ってくるよって。
 おれが出てったとき、こんなちいちゃかったもんな。男は右手の指で輪っかをつくる。嘘や、ときみは云う。四月馬鹿やなと男は笑う。きみはそんな言葉を知らない。
 早やかったね。
 神戸で友達と会うてな。車に乗せてもろうた。
 車? きみはお母さんの陰から顔を出す。
 なんや、車、好きか?
 きみは頷く。
 肺に良くないんやけどねとお母さんは云う。この子いつも外の車ばっかり見とるんよ。それこそきみが頷く理由だ。頷かなければ窓さえ閉められる。
 玄関先に外国の車が駐まっている。艶々したボンネットにお兄さんの友だちが腰掛けて煙草を吸っている。お母さんが眉を顰める。彼はきみを運転席に座らせてくれる。きみが腕をいっぱいに伸ばしても、ハンドルに手が届かない。計器がたくさんの数字を示す。フロントガラス越しにお兄さんたちが見える。三人は家に入ってゆく。待ってよ。ドアに身を乗り出す。硬いものが腰に当たって落ちる。本だ。足許から取り上げる。芥子色に塗られた表紙に車がたくさん描かれてある。
 車、好きか?
 嘘や、ときみはつぶやく。シートに凭れると服がこすれて小気味良い音をたてる。通りには誰もいない。本を腿に載せ、きみは物語を途中から読みはじめる。

コメント
  • 図らずも時期にあう内容になった。
  • みんな練習問題④の問2を使用していたのが面白い。長いので削りやすいし(実際はそんな目算は当てにならなかったのだけれど……)、ほかの回では文体の制限が厳しすぎて削るどころか手を加えることさえ難しいからだろう。
  • ル゠グウィンはチェーホフを引いているけれど、短篇を推敲するならまず書き出しを削れ、と云う教えをぼくはテリー・ビッスンから聞いた。導入をすっぱり削って読み手を小説にほうりこむ手法として、広く共有されているのだろう。
  • ぼくはその教えを無批判に受け容れ、今回は冒頭を削ることからはじめた。合評会での反応を聞く限り、おおむね圧縮には成功したかと思う。
  • とは云え削ればなんでも良いわけではないようで、原文の細部が失われたせいで時代背景が一切伝わらない、空白に突然少年と車が出現するような作品になってしまった。会話もどこか説明的だ。
  • とは云え、書いた文章を全面的に見直す訓練にはなると思う。
  • ぼくはこう云う断片を書くことがけっこう得意らしいと最近わかってきたのだけれど、その「語り」を「物語」にする方法がわからない。アンソニー・ドーアとか断片を積み上げる作家だと思うのだけれど、どうすればああ云うふうに書けるのだろう。
  • そこから先はぼくらへの宿題か。