鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

書きやすい文体で書くとなると

 こうなる。パワーズの出来損ないみたいだ。
 きのうきょうと書き進めていたが、お話の方がどうにも掴めない。


 その報せを、わたしは早朝の東京駅で受け取る。父の死。音にしてたった四文字。ひと影の疎らなプラットホームで、すべてが静止したかのように灰色がかった薄明のなか、わたしはそれだけの情報に耳を澄ませる。ひと晩もたへんかった。兄は云う。声が震えている。その揺らぎ、抑えられた息づかい、舌と唇の発する湿った破裂音までもデバイスは捕捉してゆく。ほんま、いきなりやった……。携帯を耳に押しつけながらながらわたしは、兄が電話をしたと云う事実について考える。いつもメールを、それも事務的な文面でしか運用しない兄が夜明け、まだ相手が眠っているかも知れない時刻に電話を掛けた。その選択の方が父の死と云う文字列よりもずっと雄弁に、決定的に、父が死んだことを語っている。
 日付は五月一日、メーデー。なんの意味もない偶然だ。四月三十日でもいい、五月二日でもいい。しかしほかのどれでもあり得るにもかかわらず選ばれてしまった一日に、父の生涯は途切れて終わった。
 この一ヶ月はずっと安定してた。それが突然……
 墜落したの?
 え?
 エンジンが止まった飛行機みたいに?
 理解が追いつくまでの短い間。
 そう。
 携帯を持ち帰る音。
 落ちてゆくみたいに、すうっと。
 苦しんだかな。
 この一年に較べれば――。唾を呑みこみ、――ずっと安らかやったと思う。
 わたしは吐息ともつかない相槌を打つ。
 飛行機の喩えを最初に持ち出したのは兄だった。一年前と二ヶ月前、父が最初に倒れたとき。病院の喫茶室で、医者から渡された説明資料から紙飛行機を折りながら、父さんをこの飛行機やとしよう、と。はるか上空、その飛行機は制御系がすっかり壊れている。墜落はほとんど決定づけられ、エンジンの燃料は残り少ない。力業の修理は失敗に終わった。これから父が目指すのは、どこかにあるかも知れない着地点をさがすこと、たとえ不時着に終わるとしても、いつか訪れる燃料切れに向けてなるべく静かに滑空することだ。
 再浮上する可能性は?
 ある。
 でも、と兄は首を振る。父さん自身がそれを望んでない。
 兄は紙飛行機を投げる。ずっと昔に父から褒められたその技量は衰えていない。ジェット機のような十字のフォルムがわたしの頭上を越え、喫茶室の端まで届き、入院着の子供が歓声を上げ、壁にぶつかっていきなり落ちる。ああならないようにしようってこと。兄は肩を竦める。
 それからいままで、父は死に続ける。断続的に、ゆっくりと。
 一年以上もったのだ、とわたしなら思うだろう。けれども兄は、ひと晩もたなかったと嘆いた。
 最後に――結果的には、最後に――父が倒れたと告げる昨晩のメールは、いつものように素っ気なく、いつも以上に形式的だった。帰ってきても良いし、帰ってこなくても良い。夜を徹して駆けつける必要はない。お前は自分の都合に合わせてくれ。以前には語られていた、これが最後になるかも知れないと云う不安と警告は一切確認できなかった。フォーマットをコピー&ペーストしたような文面に、わたしはかえって深刻な病状を察した。文字列よりもずっと雄弁な、言葉以外の言葉。わたしはだから帰郷を決めた。もとより都合なんてものはなかった。
 携帯が鳴ったのは、始発の新幹線を待っていた矢先だ。
 通話の終わりに兄は謝罪を口にした。ごめんな。
 何が?
 間に合わせてあげられへんかった。
 兄さんに何ができたの?
 お前を無理やり呼びつけることもできた
 わたしがそれを悲しんでいると? わたしがそれで兄さんに怒っていると?
 自分の口調の厳しさに、自分でも驚いていた。このまま喋り続ければ、きっとわたしは泣いていただろう。言葉と、言葉にならない全てが鬩ぎ合い、前者が負けようとしていた。
 わたしは撤退する。つまり、形式的なやり取りの後方へ。
 ごめんなさい。
 いや……、すまん。
 ありがとう。
 何が。
 答えは不定だ。そこには形式しかないのかも知れない。
 白鳥のような車輌が目の前に滑りこむ。じゃあ、と携帯を下ろす。兄の声が遠ざかる。席に座ったときにはもう、通信は途切れている。
 駅舎を抜け出して加速してゆく車窓を、わたしは見るともなしに眺める。三時間も眠っていないのに頭は冴えていた。加速に合わせるように白々と明るくなる空を、電線から飛び立つ鳩が横切る。やがて電線は電線であることをやめる。うねりはじめた線は合流と別離を繰り返しながら、どんな鳥よりも早く滑空し、わたしの視覚さえも追い越して走る。そうして走り、走り続け、どこまでも伸びるかと思われた一瞬、ふつり、途切れて一切は影に呑まれてしまう。トンネルのなかに反響する車輪の音。切断される電波。握りしめた携帯電話の表示は、圏外。
 救難信号はもう届かない。


 書きたいテーマらしいものは見えてきたので、まあ、良しとする。