鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「面接」

あなたの名前を教えてください。

 文子。文子と書いて、あやこ。戸籍はそう登録されているはずだけれど、母はわたしをふみと呼び続けた。父に名前を呼ばれたことは一度もない。近しい友人はわたしをぶんちゃんとかあやとか名付けた。大学では烏丸と呼ばれることがほとんどだ。あやこと呼ばれたのはたった一回。彼にだけだった。一度だけ。彼だけに。唇を震わせながら短く、あやこ、と。

大学では何を専攻しましたか?

 家のリビングの壁の棚には文学全集が収められていた。記憶の限り、母も父もそれを読んだことはなく、作家の名前を口にしたこともない。一種の見栄、嵩張るインテリアとして置かれたそれを読むことができると理解したのは小学校三年生のとき。憶えている。夏の日の午後、母も父も不在の、だからおそらくは平日。わたしは最下段に並んだ文字を文字として読むことができ、読むことができると云うことに驚いた。一冊、取り出し、箱から抜いてページをめくった。読むことができたとはとても云えない。けれどもわたしは、そこに本と云うものがあると知った。そんな原体験とも呼べる記憶に反して、中学でも、高校でも、熱心な読書家だったことはない。本を読むことは習慣になっていたし、同級生に較べればよく読む方で、国語の成績はいつも良かった。それでも、息をするように本を読むようなクラスメートに話を合わせることはできず、国語の教師が朗々と語る読書の悦びもいままで共感できずにいる。その大学のその学部を選んだのも、成績と周囲の推薦に諾々と従ったから。ただ、願書に鉛筆で希望を書きこむとき、あの夏の日のがらんどうの家で読んだ、もう名前も思い出せない作家の文字列を、ほんの一瞬でも思い出さなかったとは云えない。結局わたしは大学で文学を学び、アメリカの小説を論じた。大学を卒業する間際、母はわたしの進路をはじめて褒めた。小説への素朴な憧れを、自分にはそれが読めないのだと云う諦めを、母はわたしに語った。ふみ。母はわたしをそう呼び続けた。ふみ。ねえ、ふみ。あなたはわたしの自慢の娘。ふみ。母はわたしをあやこと呼ばなかった。

学生時代、打ち込んだものはありますか?

 小説を書いたことがある。大学二年生の夏休み、自分はいまありあまる時間を抱えていると思って、しかしどう使えば良いのかわからずに、文学徒だからと云う理由だけでわたしはペンを執った。死んだ父親の書斎を掃除するうちに出生の秘密を知る。確かそんな筋立てだった。落ち着きのない語りと具体性に乏しい描写、私小説もどきの退屈な構成。わたしはその小説を彼にだけ読ませた。面白いねと彼は云った。書店のバックヤードで、わたしたちはふたりきりだった。彼の指が原稿用紙をなめらかにめくる。HBの鉛筆が綴る文字列は作品に不足した自信を喩えるかのように薄い。文字数にして5000字弱。それでもわたしにとっては途方もなく長い旅路だった。面白いねと彼はまた云う。小説が? それとも、この状況が? 給湯室で薬罐が沸騰し、笛の音が聞こえる。わたしは最後の原稿用紙を奪い取る。どうして、と彼は云う。やっぱり、とわたしは云う。恥ずかしいから。彼の手は残された紙束を握る。文字列に皺が寄る。彼は顔を上げる。わたしを見る。薬罐が沸騰している。

学生時代、バイトをしていましたか?

 暮らしていたアパートから交叉点を対角に渡ると大きな書店があり、雑誌や文庫なら生協よりもそこで買っていた。雑誌の棚の隣の柱にバイトを求める張り紙があって、ただし募られていたのは高校への教科書の搬入だったはず。春のはじめ。ちょうどスーパーのレジ係を辞めたばかりだったわたしはこんなに近くでバイト先があったことにようやく気が付き、その場で彼に声を掛ける。わたしは右手に買うつもりの文芸誌を抱えている。小説が好きなんですか、と彼は問う。好きでなければ務まりませんか、と不安を述べる。まさか。彼は笑う。本との付き合い方はいろいろありますからね。簡単な面接がすでにはじまっている。

あなたの名前を教えてください。

 エプロンに付いた名札から、わたしは彼の名前を知る。

あなたを成長させた経験について、具体的に述べてください。

 大学を卒業しても、わたしは就職が決まらなかった。面接を受けるたびにわたしは自分が読書家だったと主張した。小説が大好きだったので文学部に進んだと述べた。本を愛していたので書店でバイトしていたと語った。はい。家の本棚には文学全集がありました。はい。両親も熱心な読書家でした。わたしは御社で刊行されている小説に導かれるようにして育ちました。はい。あやこと名付けたのは母です。嘘をつくことに躊躇いはなかった。それが嘘であることもわたしはよくわからなくなっていた。書店のバイトをしながら、わたしは出版社や印刷業者に断られ続けた。本を読まなくなった。修士論文にかかりきりになった彼は書店に顔を出さなくなった。

あなたの好きなものについて語ってください。

 実家のリビングは庭に面していた。午前中は陽の光が窓に切り取られて綺麗な菱形をカーペットに投げかける。そのカーペットの温かな感触。柔らかな毛先。その先端ひとつひとつがきらめくようだ。最下段に引っかかった光が文学全集の背表紙を照らす。わたしは寝転がって、そのタイトルを、作家の名前を、逆さまに読み上げる。本を手に取るたびにタイトルと作家名を口にする癖を彼に指摘されて、わたしは初めて、目の前の物体を本だと理解したあの夏の日を鮮明に、ひと続きの記憶として思い出す。本好きな家庭だったんだね、と彼は云う。わたしは頷くことができない。わたしの手に持っている本の背表紙を彼はなぞる。タイトルと作家の名を呼ぶ。帰りのバスは空いている。彼はわたしに僅かに近寄る。彼がわたしの手に触れる。わたしの名前が呼ばれる。

質問は以上です。ありがとうございました。お帰りはあちらから。