鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

『九尾の猫』読書会レジュメ

 一年前、所属しているサークルでエラリイ・クイーン『九尾の猫』の読書会をおこなった。我ながら気合いの入った文章だと思うし、それなりに褒めてもらえたので調子に乗ってここに公開する。久しぶりに読み返したら「けっこううまくやってんじゃん」と思ったと云うのもある。最近ブログが更新できていないからと云うのもある。『九尾の猫』論としてはすでに各所で論じられている話題の表面をなぞったに過ぎないけれど、サークルの読書会としては十分すぎるのではないだろうか。
 もちろんここで書かれている読解について様々に反論はあるだろうし、いまでは自分でも考えが変わっている箇所もある。しかし加筆はせず、修正はサークル内に向けた一部の記述に留めた。面倒臭いし、そもそも、議論はここから始まるのだ。実際の読書会でも、様々な反論や意見をいただいた。ありがたいことです。

 当然ながら、読了者を相手に想定しているので、ネタバラシをしています。ご注意ください。

エラリイ・クイーン『九尾の猫』読書会(2020/4/23)

犠牲者はその死を悼む人々を残していった。殺人者は数値を残した。死亡後、大きな数に加えられることは、匿名性という川に溶け入ることを意味する。死後、たがいに競い合う国家や民族の記憶に組み込まれ、自分がふくまれる数値の一部となることは、個性を犠牲にすることにほかならない。それは、ひとりひとりの人間がかけがえのない存在であるところからはじまる歴史に切り捨てられることだ。歴史は複雑きわまる。それはわれわれみんなが持っているものであり、みんなが共有できるものだ。正確な数値が得られたとしても、われわれは気をつけなければならない。正確な数値だけでは不十分なのだ。
――ティモシー・スナイダー『ブラッドランド:ヒトラースターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房

長期的に見ると、多くの人々は仕事や職場を変え、外面的な友人や関心を変化させたり拡大したりして、世帯の大きさも変え、所得も上がったり下がったりして、嗜好でさえかなり変わります。ひと言で言えば、人々は単に存在するのではなく、生きるのです。
――ジェイン・ジェイコブズアメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会

「伯母さんのところの雄猫は死んだのかね?」
「はい」
「九つの命が一度に消えたわけだ。人間には一つしかない」
――ドロシー・L・セイヤーズ『殺人は広告する』(東京創元社

この読書会について

 今回の読書会では、『九尾の猫』について、担当者がどう読んだのかを、幾つかトピックを取り上げつつ語ろうと思う。そうして語られてゆく道筋は、『九尾の猫』を「読む」ことから、大きく外れることはないだろう。「傑作」と云う評価や、ジャンル内での定位は、あくまで読んだ後の作業である。
 表記について以下の点に注意されたい。

  • 『九尾の猫』を『九尾』と表記する
  • 作家としてのエラリイ・クイーンは「クイーン」と表記する
  • 探偵役としてのエラリイ・クイーンは「エラリイ」と表記する
  • 引用はすべて『九尾の猫〔新訳版〕』(早川書房、越前敏弥訳)による。頁数の表記もこれに基づく
作者について

 作者の略歴と作品リストについてはN回生E氏が前年に作成したわかりやすいものがあるので、欲しい方は氏に訊いてみよう。『九尾の猫』の位置付けについても新訳版解説で説明されているので、詳しくは述べない。強いて述べたいことがあるとすれば以下の3点。

  • クイーンの作風は徐々に変化していくものであること
    • クイーンの作風の変化に注目すれば『九尾』はひとつのマイルストーンと云える。論理性からの逸脱、エラリイへの揺さぶり、小説としての踏み込みについてひとつの到達点を示した偉大な達成だろう。このあとは、本作でも見られるミステリとしての実験性や図式へのこだわりが前面へ出るようになっていく。
  • クイーンはひとりの人間の名前ではないこと
    • ダネイとリーだけでなく、エラリイ・クイーンの筆名は様々な作家にも名義貸しされている。複数の作家に共有され、小説やラジオ、映画と云った様々なメディアによってつくり出された一種の幻影としての〈エラリイ・クイーン〉は、メディアが作り上げた〈猫〉と対置することができるだろう。
  • ダネイとリーのルーツはユダヤ系であること
    • とくに『十日間の不思議』以降強く現れる宗教的な記述や、本作でも見られるホロコーストへの言及は、このことを踏まえれば無視できなくなるはずだ。

 しかし担当者はこの読書会で、クイーン論を語ろうとは思わない。そもそも、〈国名〉シリーズや〈悲劇〉四部作を読み通していない担当者はクイーンの良い読者ではない。〈後期クイーン的問題〉やら〈大量死理論〉やらもよく知らない。だから、もし以上の点を踏まえて作品を読むとしても、それは作品を読むにあたっての補助線に過ぎない。

プロットについて

 『九尾』のプロット、作品の構成について注目したい点があるとすれば、前作『十日間の不思議』との、前日譚/後日譚と云う関係にとどまらない対応である。

  • エラリイが一度失敗する
  • 犯人によるエラリイの操り
  • エラリイが祭り上げられる
  • 事件関係者の男女にエラリイが振り回される
  • ミッシングリンク(隠された規則性)がポイントになる
  • 宗教的なモチーフや言及

 以上をもって、『九尾』と『十日間』をセットにしなければならない、とする意見に与するつもりはない。しかし、ふたつをつい並べたくなるのは事実だろう。
 ミステリを読んでいると、並置したり、重ねてみたり、連結してみたりしたくなる作品の組み合わせと出会う。その関係は必ずしも、作家間の影響関係や、作品間の引用に限らない。複数の作品を並べ、星座のように結びつけることで、思いがけない構図が浮かび上がり、その構図がそれぞれの星――つまりそれぞれの作品に、新しい読みをもたらしていく。それもひとつの読み方ではあるだろう。
 複数の作品の間に何かしらの因果関係や規則性を見出していくこと、それ自体が、ミステリ的な営みでもある。

演劇性について

 クイーンの作品はしばしば演劇的である。少なくとも、『九尾』を読んだとき、担当者が抱いたイメージは、暗い舞台に積み重なる死体と、出入りする人間、その中心でもがくエラリイの姿だった。なぜそんなイメージを抱いたのか、理由は主に2つ挙げられる。

  • ダイアローグとモノローグ――つまり声が、小説を駆動すること
    • 描写そのものや、プロットの展開よりも、そこで描写される人間たちの声が、物語を牽引している。後半では、台詞以外の記述でもエラリイの心理、あるいは「ニューヨークの心理」とでも云うべきものをを反映した語りがより強く響いてゆく。
  • 概ね、閉じられた場所で物語が展開されること
    • エラリイは多くの場合、部屋で捜査し、推理する。ハードボイルドの探偵小説のように、脚を動かして、街の様々な場所をその目で見ながら捜査していくことはあまりない。あったとしても、ダイジェスト形式で流されてしまう。後半の捕物も、霧に包まれた都会の隅で、むしろ暗く狭く展開されている。

 もっとも、後者については終盤で破られることになる。それは、一箇所の舞台――どう書き込んでも書き割りに過ぎなかった舞台をエラリイが降りて、スポットライトからも離れて、ひとりの人間としてこのリアルで複雑な世界に立つことを意味する。

文体について

 先に述べた通り、『九尾』では様々な声が響いている。可能ならひとつひとつ具体的に取り上げたいが、ここでは序盤の印象的な二箇所を引いておこう。
まず冒頭、〈猫〉がもたらしたものを概説するシーン。

そして、哲学者たちは世界観を持ち出し、窓を開いて時勢の壮大なパノラマを示した。(…)理解すべきは、住民は大混乱に屈したのではなく、それを歓迎したということだ。足もとで字面が揺れて裂けるような惑星では、不安ゆえに正気を保つのはむずかしい。空想こそが避難場所であり、救いだった。
 だが最後に、ニューヨークに住む二十歳のふつうの法学生がおおかたの人々にもわかることばで述べた。「ちょうど前世紀の政治家ダニエル・ウェブスターの話を読んでいたんですよ」学生は言う。「ジョーゼフ・ホワイトという老人が殺害された事件の裁判で、ウェブスターはみごとなストライクを投げたんです。〝ひとつひとつの殺人が見逃されれば、ひとりひとりの命が安全とは言えなくなる〟って。いまのばかげた世の中を見たらなんと言うでしょうね。〈猫〉と呼ばれる化け物が右へ(ライト)左へ(レフト)とつぎつぎ人間を吹っ飛ばして、だれも一塁までたどり着けないんですから。〈猫〉がこの街の人たちをしっかり(ライト)絞め殺していくのはどんな間抜けが見てもわかります。しまいにはエベッツ・フィールドの左翼(レフト)席をいっぱいにするだけのお客すら残って(レフト)いなくなりますよ。こんな話、つまんないですか? それにしても、ドローチャー監督はどうしたんですかね」このジェラルド・エリス・コロドニーという法学生の意見は、ハースト系新聞の記者の街頭インタビューに答えたものだった。これは《ニューヨーカー》と《サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー》と《リーダーズ・ダイジェスト》に転載され、〈MGMニュース〉はコロドニー氏を招いてカメラの前でもう一度話をさせた。それを聞いたニューヨークっ子たちはうなずき、まさにそのとおりだと言った。
(11頁)

 様々な言説が冒頭から積み上げられ、果ては哲学者が壮大なパノラマまで展開しながら、着地するのはひとりの学生の素朴な声、不謹慎ながら洒落も散りばめられた率直な意見だ。それまでのしかつめらしい語りは、この洒落と、メディアによる拡散と、ニューヨークっ子たちのうなずきで相対化される。語られる内容より、この知的な笑いがいかにもクイーンらしい。
 続いて、モニカ・マッケルの死について警視が語るシーン。

「仲間はタクシーに乗りはじめたが、モニカがひとり息巻いて、アメリカ流がいいとほんとうに思うなら地下鉄で帰るべきだと言って譲らなかった。ほかの連中に向かって噛みついたのに、ハンガリー人の伯爵がかっとなって――しかもウォッカのコーラ割りをしこたま飲んだあとだったから――百姓どものにおいを嗅ぎたければ国にとどまっていたとか、地面の下へ行くのもどんな意味で下に行くのもまっぴらだとか、そんなことを言い放った。そんなに地下鉄に乗りたければ勝手に乗って帰ればいい、とな。だから、モニカはそうした。
 だから、そうしたんだ」そう言って、警視は唇を湿らせた。
(36、37頁)

 ただの説明なら「だから、モニカはそうした」だけで良い。しかしそこで段落を変えて――おそらくは息継ぎをしたのだろう――もう一度「だから、そうしたんだ」と云う。そうすることで、無機質な事件の無機質な説明は、事件の無機質さに打ちのめされ、もしも彼女がそうしなかったなら――とむなしく仮定を考えつつも、打ち消すようにして説明を続けるクイーン警視の生きた声となる。ついでに、ツイストを効かせつつ段取りよく言葉を連結させていく手際にも目を瞠る。
 『九尾の猫』では全篇で、以上挙げたような、ひねられた言葉、奥行きのある台詞、生きた声が響いている。それらが響き合うことで起ち上がるのは、大都会ニューヨークの相貌だ。

都市について

 探偵小説の祖「モルグ街の殺人」で特筆すべきは、(もちろん密室は重要だが)そこで提示されるのが、複数の外国語と云うすぐれて都市的な謎だったことだろう。
 都市とは複数の声が縦にも横にも並んで響く。だからそれぞれの声の響きがニューヨークを浮かび上がらせるのだし、ニューヨークと云う場所がそれぞれの声を力強く響かせるのだろう。
 しかし、無数の、数多の声が巨大なひとつの声になってしまったら。そこに現れるのは実体のない〈大衆〉の声だ。『九尾』は都市の多様性・複雑性を描くと同時に、それらがひとつの〈大衆〉へ呑み込まれてゆく恐ろしさを描いている。
 もちろん、無数のひとびとから起ち上がる〈大衆〉なるものは、ここで〈猫〉と対置される。

ミッシングリンクについて

 『九尾』がシリアルキラーもの、ミッシングリンクものとして独特なのは、そのルールの性質においてだ。
 たとえば、被害者の選定がランダムだったら。たとえば、木を隠すなら森のなかと云う風に、ひとりを殺すために複数人殺したなら。たとえば、目的を達成するためにやむを得ず複数人殺すことになったなら。『九尾』のルールが持つ異様さはなかっただろう。
 この異様さとは、ルールそのものが持つ理不尽――ルールが存在すると云うこと自体の理不尽である。多様で複雑な無数の人間たちを、彼らの持つそれぞれの人生や、かけがえのない存在、あるいはそれぞれの持つ無二の声を問わず、貫いてしまうルール。犠牲者選定の規則性が明かされたところで、彼らが殺されたことの理由になりはしない。
 序盤、エラリイは〈猫〉をこう評する。

「〈猫〉にとって大事なのは数量です。すべての人間を平等にするのは数ですからね。建国の父祖たちやエイブ・リンカーンもただの人間と変わらない。〈猫〉は人間性というものをあまねく平らにならす。」
(34頁)

 木を隠すなら森、と云う方式は、まだぎりぎり、ひとりの人間を特別視して殺そうと云う意志がある。快楽のための殺人だったなら、被害者に選ばれるのは一種の偶然としてすませることもできる。しかし、『九尾』では厳然としてルールが存在するからこそ、人間は平らにされ、数字にされてしまう。
 同じく序盤、クイーン警視のこの言葉は、図らずも〈猫〉の性質を云い当てている。

「エラリイ、このメリーゴーラウンドにはじめから乗っていた者として言わせてもらうが、この連続殺人ではナチスの遺体焼却場と同じ程度の道理しか通らないんだ」
(48頁)

 「ユダヤ人だから」と云う理由によって無数の命が「処理」されてしまった、その理不尽と同質の理不尽が〈猫〉にはある。出生についての、自分ではどうしようもない性質をルールとして、被害者は殺されたのだから。

エラリイについて

 〈猫〉が人間を平らにしていると評する一方で、エラリイはこうも口にする。

「共通の分母を探してるんです。被害者は種々雑多な人間の集まりだ。でも、そこにはきっと共通した特性、経験、役目が……」
(48頁)

 エラリイもまた、人間を数字にしているのだ。
 実際に殺人を犯すわけではないけれど、ここでの彼の眼差しは、意図せずして〈猫〉と一致してしまう。それぞれが違った人生を生きる人間を人間として見つめず、数字として、図式のなかで捉えてしまうその眼差しは、たやすくカザリスによって操られるうえに、カザリス「夫人」と云う図式に収まった彼女の存在を見落としてしまう。何よりエラリイは、図式に囚われるあまり、アリバイと云う「事実」に気付くことができない。
 これは決して、ただ単にエラリイがすぐれていない、と云うことではない。
 複雑で多様なこの世界にルールを見出し、わかった気になってしまう――これは、チェスタトンならば「狂人」と評する存在だろう。それは神様気取りの眼差しであり、そこには理性=数字しかない。人間はいない。
 終盤、エラリイはこう語る。

「その単純さこそが事実を見えづらくしていたと思います。単純であること、殺害件数が多く、事件が長期に及んだという事態のせいです。そのうえ、殺人が度重なるにつれ、被害者の特徴はしだいにぼやけて混じり合い、ついには、振り返れば均一の死体の山、処理場送りの九頭の牛に見える、そんな事件でした。ベルゼン、ブーヘンヴァルト、アウシュヴィッツ、マイダネクで撮られた強制収容所の死体の公式写真を見るときと、人は同じ反応を示しました。だれがだれだか見分けがつかない。死があるだけです」
(455頁)

 虐殺は人間を数字にするし、死体の山を見る眼差しも、人間を数字として捉えかねない。
 さらにこの場面はこう続く。『九尾』でもっとも重要なくだりと云って良い。

「だが、問題は事実だよ、クイーンくん」かすかな苛立ちとほかの何かが入り混じった声だ。ベーラ・セリグマンのひとり娘がポーランドユダヤ人の医師と結婚し、トレブリンカの収容所で死去したことをエラリイは急に思い出した。それぞれの死を特別なものにするのは愛だ、とエラリイは思った。愛だけかもしれない。
(456頁)

 ここでの「愛」は、広い意味で使われている。人間を尊ぶ心、とでも云おうか。
 人間を数字と見做し、複雑で多様な世界を貫く図式を見出そうとするエラリイの眼差しは、確かに殺人者のそれへと漸近するけれど、そうすることによってようやく掬い上げられるものがあることも事実だろう。重要なのは、そこに「愛」があるのか、だ。
 幕切れ近く、カザリス夫妻の自殺を耳にして壊れかけるエラリイに対して、セリグマンはエラリイの仕事を「昇華」と表現し、この仕事を続けるよう励ましてみせる。「昇華」とは何か? 担当者は、複雑として多様で――混沌とした世界から人間を掬い上げる営み、と読んだ。人間を数字にする眼差しを通して、数字を人間に戻すこと。これは極めて危うく、至難だ。だからこそ可能な人間は限られる。それがエラリイだ。
 しかしエラリイも人間である以上、この眼差しの完璧な運用はできない。完璧を目指せば壊れるだろう。あるいは自らを神だと思い込んでしまうかも知れない。そうならないよう、セリグマンはエラリイに教訓を授けるのだ――「神は唯一にして、ほかに神なし」。
 『九尾の猫』と云う物語のここが到達点である。忘れ難い幕切れだ。
 ここから「名探偵」論を一席ぶつのも面白いが、『九尾』を読むから離れる必要がある以上、いったんおいておこう。

 

名前について

 人間を数字にすると同時に、数字を人間に戻す。この営みは、『九尾の猫』と云う小説そのものの営みでもある。本作では、響き合う複数の声と、「大衆」の暴走ないしそれがもたらす数字とが対置されている。
 また、エピローグの代わりをなすようにして最後に置かれた名前の一覧は、人間が数字にされ、数字が人間に戻される、その交叉点であると言える。並列された名前は、無数の声や無数の人間、無数の人生を平板なリストへ貶めてしまうものであると同時に、数字にされてしまった人間たちについて、彼らが確かに生きていたことを示す最後の砦でもある。
 ひとを名前を呼ぶことは、個人を個人として見做す、もっとも端的な行為であるはずだ。

小説の役割のひとつが人生を鏡に映すことだとすると、登場人物も場所も、実生活と同様に明確なものでなくてはならない――となると、名前が必要になる。
(487頁)

 

落ち穂拾い

 以下、読書会中に触れるつもりはないが、分量の都合で切り捨てたり、自分のなかでまとめきれなかったトピックを幾つか書き残しておく。

a.    パニクる都市

 得体の知れない死の恐怖に怯え、パニックを引き起こし、かと思えば何も解決していないのに沈静化し、けれどそこには相変わらず死の恐怖が根を張って、ひとびとを逃避させる。――9.11を経て、COVID-19のパンデミックが進行中のこんにち、『九尾』における都市像は、まだまだ新しい読みがなされていくだろう。

b.    卓越した筆力

 クイーンはもともと文章の巧い作家だが、『九尾』ではその文体が完成に至っていると思う。声の力強い響きは前述した通り。決して短くない物語を一気呵成に読ませるだけの構成力もあり、たとえば後半の逆転していく攻勢やそこにミスディレクションを仕込む手捌きには目を瞠る。とくに中盤、捜査が暗礁に乗り上げてから、猫暴動が起こり、大波が去ったニューヨークでプロメテウスから神託じみた声が響き、8人目の被害者が現れるまでの一連の流れには惚れ惚れする。

c.    「オッターモール氏の手」

 トマス・バークによる短篇小説。邦訳は『世界推理短編傑作集〈4〉』で読める。夜の都会で起こる連続絞殺事件の話で、クイーンが主催したアンケート企画では短篇ミステリのオールタイムベスト1位に輝いたらしい。クリスティーABC殺人事件』とあわせて『九尾』の元ネタになっていると思われる。

d.    天城一

 探偵小説が人間を数字にしてしまいかねないと云う危うさに、自覚的だったかはわからないが、敏感だった作家。彼は『Yの悲劇』を傑作だと認めたうえで、あの結末を肯定することはナチズムの肯定に繋がるとして、作品を退けている。また、「クィーンのテンペスト」と云う『九尾』論も書いた。『天城一傑作集〈4〉風の時/狼の時』所収。

e.    「大量死と密室」

 法月綸太郎による評論。笠井潔作品とクイーン作品を並置し、相互に参照させながら、両者の小説を読み解いていく。笠井潔ハイデガー柄谷行人もろくに知らないので触れなかった、もとい、触れられなかった。『法月綸太郎ミステリー塾〔日本編〕名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』で読める。

f.    『殺人は広告する』

 冒頭でも引用した、セイヤーズによる長篇小説。引用した部分に深い意味はなく、ただ最近読んでいたら出くわしたこのシーンに面白みを感じたに過ぎないが、メディアの生み出した怪物と云うテーマで両作品を結びつけることもできるだろう。『九尾』で〈猫〉の恐怖が新聞やラジオで煽られる一方、『殺人は広告する』ではばらまかれたナンセンスな言葉が大衆を扇動し、商品が流通していく。また、イギリスの探偵小説でもっともエラリイ・クイーンに近い存在が『殺人は広告する』でも探偵役を務めるピーター・ウィムジイ卿ではないか、と担当者は睨んでいる。エラリイもピーターも都市の階級から遊離した、「探偵役」としか云いようのない存在だ。しかしピーターは貴族階級と云う後ろ盾がある。エラリイには、と云うかアメリカにはそんな階級がない。似て非なる両者を較べることもまた面白いだろう。

g.    メディア

 オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』騒動が言及されていることも見落としたくはない。また、ラジオドラマのヒーローとしても人気だったエラリイ・クイーンのシリーズには、戦時中プロパガンダに加担した作品もあるし、後期の長篇『第八の日』ではプロパガンダ用の脚本を書きすぎたエラリイが病んでしまうところから物語がはじまる。『殺人は広告する』同様、ここにはメディアとミステリの微妙な関係性が見て取れるだろう。また、〈猫〉を生み出し、ひとりひとりの死者を猫の尻尾にくくりつけて「n番目の被害者」としてしまったマスコミも、図式化に嵌まっている、と云うか、誰より率先して図式化を推し進めている存在であることは注意したい。

h.    エラリイが書こうとした小説

 終盤でエラリイが書こうとしていた小説の題材は「群集恐怖症と暗所恐怖症と失敗恐怖症の深い関係性」だったと云う。なぜそれを題材にしようと思ったのか、と云うことからエラリイは自分のミスに気付いていくわけだが、ところでこの小説はどんな小説なのだろう。群れたもの。暗いところ。失敗すること。それらへの恐怖の関係性。――あるいはこの小説とは、『九尾の猫』そのものではないだろうか。

i.    リフレインされる言葉、失敗、死

 『九尾の猫』では、様々な場面でリフレインが使われる。同じ言葉を繰り返し、強調し、微妙にそのニュアンスを変えて響かせるこの技法は、文章レベル以外でも用いられていないだろうか。『十日間の不思議』とあわせれば、エラリイは同じ過ちを繰り返しているが、これは普通に考えて奇妙だ。前作で失敗したエラリイを成功体験によって立ち直らせるのではなく、同じ失敗をさせていっそう追い詰めるとは。しかし、『十日間』では引っかかっていたかも知れない地図の星座や殺人間隔などの図式をエラリイは拒絶しながら、最終的にはふたたび図式に囚われる――この繰り返しを踏むことで、主題のより深い追及を可能にしていると云えるだろう。また、本作では死が何度も繰り返される。ここで、それぞれが異なる「死」であることに注意しなければならない。ところで、カザリス夫妻の子供は、二回死産している。

j.    図式化された読み

 「図式」と云う言葉で『九尾の猫』を読もうとする、この読み方もまた図式化されている。数字には、図式には、抗いがたい引力がある。このレジュメについて、各表題が「~について」で統一されていることに気付いただろうか。これもまた、図式の誘惑だ。結局、人間は何かしらの図式に則ることでしかものを考えられないのかも知れない。しかしそこでひとつの硬直した図式に陥ることは、退屈であるどころか危険であろう。絶えず自分の物差しを作り直さなければならない。……もちろん、われわれは人間なので、無理のない限りでほどほどに。

k.    「名探偵」対「犯人」と云う図式

 名探偵と犯人の図式に基づいてミステリを捉えること。この図式を複雑化したり投げ出したり引きのばしたりするのではなく、この図式そのものを解体しようとする試みとしても、『九尾の猫』は読めるだろう。〈後期クイーン的問題〉や〈操り〉テーマなどを追い切れていない担当者にとって、これは今後の宿題である。

l.    抽象と具体

 最後の方で述べた、数字にすることと数字から戻すことの同居した眼差しを、抽象化と具体化のせめぎ合いと云い換えてみよう。エラリイ・クイーンの小説は――と云うか、すなわちミステリと云うものは――大なり小なり、このせめぎ合いの場と見做すことができる。たとえば、初期の『オランダ靴の謎』は、一見すると『九尾』のような問題意識とは無縁だが、換えのきかない具体的な手掛かりから推理を引き出してゆくことで《ひとりの犯人を指摘する》と云う、パズル的で抽象的な運動が浮かび上がってくる。逆に、後期の問題作『盤面の敵』や『第八の日』では、最終的に物語が描き出したい図式を導くためなら何でも良いかのように手掛かりや推理の具体性が欠けてしまっている(もちろん、このスタンスにこそ作品が放つ強烈な迫力があるのだが)。そもそも推理によって物語を《真相》と云う名の図式へと回収することは、クイーンに限らないミステリ本来の営みであるはずだ。この営みの場であるせめぎ合いにこそミステリの面白さがあり、危うさがあるのではないか。これを踏まえると、『九尾の猫』は、そのせめぎ合いに身をさらし、解決不可能な困難とぶつかりながらも最後にはその失敗をも受け容れてみせると云う点で、クイーンの、ひいてはミステリの、ひとつの到達点と云えるだろう。
 ここで止まっていれば、と思う。ここで引き返していれば、と思う。たらればを考えて、書かれたかも知れない作品を想像することもある。しかし、『九尾の猫』を書いてしまった以上、クイーンは後期の方向へ進まざるを得なかったのかも知れない。――もちろん、以上の想像は、クイーンと云う存在しない作家・ダネイやリーら、クイーンを作り上げた人物に対しての過剰な言及と云うべきだし、恥知らずなふるまいである。
 『九尾の猫』を書いた作家に、何を云うべきか、ぼくはいまだに答えを持っていない。