鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

創作「帝国と云う名の地図」

 突発的に書いた掌篇。地図小説です。元ネタはボルヘスのアレ。



 過去のあらゆる地図よりも正確な地図をもとめたのは四人目の皇帝だったとされる。この頃、帝国の版図は建国以来最大を更新し、千年間で最も権勢を誇った。皇帝が地図を求めたのは、この治世を確かなものとするための道具にしようとしたからだとも、皇帝が自らの栄光を地図に記録しようとしたからだとも云われる。いずれにせよ皇帝がもとめたのは、帝国の版図を端から端まで収める地図であり、寸分の狂いなく帝国を写し取る地図だった。
 測量隊が組まれ、帝国の隅々へ派遣された。山を越え、海を越え、砂漠を越え、彼らは測量した。帝国の空白は彼らによって埋められ、帝国の境界は彼らによって引かれた。十年がかりの測量は無事終わり、作製された地図が帝都に集められた。並べられた地図は宮殿の広間いっぱいを埋めた。臣下は誰もが自信を持って地図を皇帝に捧げた。皇帝は地図の上を、国境に沿って端から端まで経巡った。
「これがわが帝国か」
「はい、陛下」臣下はこうべを垂れた。「これよりいっそうの拡大を目指しましょうぞ」
 皇帝はちょうど帝都の位置に立った。
「……違う」
「は」
「これはまったく正確ではない」
 皇帝は地図を踏みにじった。「ここには帝都がない。西の商業都市も、東の海港都市も書かれていない。お前はこのような、地形図に線が引かれただけの代物を、帝国の写し絵と云うのではあるまいな?」
 臣下は首を刎ねられた。
 地図製作は振り出しに戻った。測量士が集められた。数学者が集められ、天文学者が集められた。宮殿の広間に集まったなかには、哲学者や占い師もいた。困惑した様子の彼らに皇帝は、「従来の測量では不十分である」と云った。学者たちを眺めながら続ける。「測量は完璧でなければならぬ。新たな方法が、新たな道具が、新たな計算が、新たな製図法がなければならぬ。帝国を完全に複製するのだ、あらゆる意味において」。皇帝は哲学者や文学者を指さした。「そのためには、新たな世界観もなければならぬ」。
 学者たちは跪き、帝国のために使命を果たすと誓った。
 測量が始まった。器械によって、計算によって、言葉によって、あらゆる方法で学者たちは帝国を測ろうとした。点と点の角度から長さを割り出す方法が編み出され、その計算式が幾何学を発展させ、いっそう正確な測量法へと反映された。音によって距離を測る器械や、光を定着させて視覚そのものを複製する装置も発明された。何をもって国家を定義するのか検討され――「敷かれた国境は現実なのか虚構なのか?」――都市の本質とは何なのか議論され――「地図上に打たれた点が都市ではないとすれば、道路と建物の集合が都市なのか?」――結論ひとつひとつが地図の書き方を変えた。そのたびに地図は拡大と縮小を繰り返した。
 そうして十年が経ったとき、天文学者が皇帝に云った。「陛下、どうやらわれわれは絶対に、正確な地図を紙に書くことができないようです」。
「確信があるのか。なぜだ」
「われわれの大地は平らではないからです。海を埋め、山を均しても、大地は僅かに曲がっております。帝国各地から集められた星の観察結果から考えて、これは明らかです。われわれは盤の上に生きているのではありません。おそらく大地は球であり、球面を平面に書き写すことはできないのです」。
「ならば球面の地図を作れ」。皇帝は命じた。「地図は正確でなければならぬ」。
「しかしそれでも、おそらくは」と天文学者は云った。「完璧に正確な地図はできませぬ。どんなに硬い物差しも曲がります。音と光も歪みます。計算尺も狂います。そして、人間は必ず誤ります」。
「余は誤らぬ」
 天文学者は首を刎ねられた。
 さらに十年経ったとき、歴史学者が皇帝に云った。「陛下、どうやらわれわれは絶対に、正確な地図を紙に書くことができないようです」。
「それは一度聞いた」
天文学者とは違う理由でございます。たとえ球面を正確に写し取れたとしても、完璧に正確な測量がおこなえたとしても、帝国の姿は刻一刻と変わっているのです。辺境では小競りあいが絶えず、諸外国からは常にどこかと交戦しており、版図の境界は測量開始からいままでに何度も更新されました。新たな都市が建設され、幾つかの都市が廃れました。たくさんの道路が敷かれ、隧道が掘られました。埋め立てられた海岸や、拡幅された河川もあります。帝国は静止することなく動き続け、その一瞬を切り取ることはできません」
「一瞬の光景を紙に定着させる装置があると聞いたが?」
「もし帝国すべてを収める巨大な装置で写し取ったとしても、それは過去のある一瞬の帝国であり、いまこのときの帝国ではありませぬ。帝国は生きております。なんとなれば、われわれが生きているからです」
「ならば地図も常に更新し続けよ」
「お言葉ですが、陛下。それでは地図はいつまでも、帝国そのものに追いつきませぬ。完璧に正確な地図はあり得ないのです。完璧に正確な地図ができるとすれば、帝国そのものが過去となるときだけです」
「帝国は永遠である」
 歴史学者は首を刎ねられた。
 そして十年経ったとき、ある学者が皇帝に云った。「陛下、われわれはついに正確な地図を書くことに成功しました」。
 最初に測量隊を派遣してから、四十年が経っていた。
「前置きは要らぬ」。皇帝は床に伏せながら云った。「見せよ」。
 しかし、皇帝の眼は焦点が合わず、瞳は濁っていた。
「いま見せることはできませぬ。なんとなれば、地図はこれから書かれるのですから」
「ならば、書くが良い」
 皇帝は学者を見もしなかった。
「お前は誰だ」。
生物学者でございます。人間は生きており、都市も生きており、帝国が生きていると云うのであるならば、地図も生きていなければなりませぬ」
 生物学者は説明した。ほかの地図製作者たちにも繰り返した説明だった。
「地図は紙に書かれますが、紙は植物から作られます。製造の過程を工夫すれば、生きたままの紙を作ることは可能です。地図を書くのはその生きた紙でございます。南方の密林にいる、周囲の景色に合わせて肌の色を変える蜥蜴のように、生きた紙は模様を変えることで地図を書くのです」
 生物学者は紙片を取り出す。羽ばたくように紙片が身を震わせると、表面にはインクを垂らしたような斑点がにじんでくる。
「植物を繊維まですり潰し、また合成したものが紙です。器械の部品を解体し、自律する装置に改造することと何が違うでしょう? われわれは、自ら地図となる地図を作ったのです」
 紙片は蝶のように生物学者の回りを飛び始める。翼の斑点が集まって、宮殿の、皇帝のいる部屋が浮かび上がる。紙片が鼻の先まで飛んできたとき、皇帝の朧気な視界にもはっきりとそれが見える。そこには皇帝自身の、老い、やつれた顔が映し出されている。
 皇帝は咄嗟に命じる。「その者の首を刎ねよ」。
「わたくしが死んでも、地図は生き続けます。地図は自己増殖します。能う限り迅速に、転写と複製を繰り返し、新たな地図を作り続けます」
「首を刎ねろ」
「地図はすでに帝国中にまかれました」
「誰もいないのか」
 地図は部屋を埋め尽くし、側近たちを呑みこみ、生物学者を覆っている。
「陛下。完璧に正確な地図とは何でしょうか?」
 皇帝の唇を地図がわけいる。生きているものの感触がある。
「それは、一分の一の地図です。帝国そのものと同じ大きさの地図です。帝国とともに生きる地図です」
 生物学者の顔に貼り付いた地図に、生物学者の顔が書かれる。
「あるいは、帝国自体となる地図です」
 窓から、扉から、地図があふれ出す。
 蒼穹が地図で埋め尽くされ、帝国は地図に覆い尽くされる。
 長い時間をかけて、または永遠に較べれば一瞬のあいだに、空白のすべてを地図が埋める。民の多くは何も気付かないうちに地図へ呑みこまれ、地図から逃げようとしたものもその逃げ惑う姿を含めて地図に記述される。
 地図はようやく帝国に追いつき、帝国は静かに息を引き取る。

 地図を燃やしたのは帝国の外に出ていた皇子とも、侵略の好機と見た諸外国の兵士たちだとも伝えられる。あるいは、森林の豪雨や砂漠の灼熱に耐えられず、地図は勝手に朽ちてしまったとする物語もある。東方の渓谷の奥地に、石膏型のように人間の姿だけ抜け落ちた、地図の死骸の塊が残されていると云う。北方の雪原や西方の砂漠には、地図の遺骸がいまも断片的に見つかるそうだ。その断片には言葉も記録され、以上の物語はその記録を再構成したものだと、砂漠の民の語り部は話した。
 果たしてその言葉は、誰かが地図に書き残したのか、それとも地図自体が語っているのか。
「解釈はそこでも分岐します。わたしが語ったのは、無数の枝葉を辿ったうちの一本に過ぎません」
 そう云って語り部が握りしめる紙片はすっかり黄ばみ、何が書かれてあるのかは読むことができない。



 もうちょっと捏ねればもっと伸びそうだし、地図に覆われてからの話も書きたいけれども、そうなると別ものなので。