鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

2022年上半期ベスト

 これくらい単純なことがあるだろうか?

――リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』(みすず書房

 複雑に延び、繋がり、分断された露地を進んだ。

――小川哲『地図と拳』(集英社

 上半期ベストの季節がやってきました。やって来てしまいました。いままでは半期につき長篇短篇20作ずつ挙げていましたが、読書量が著しく落ちたので今回は10作ずつです。例によって例のごとく、順番は優劣を意味しません。

長篇

 中村訳がいつまでも出ないので越前訳で読んだクイーン『シャム双子の秘密』。真相を堂々と示しながら読み手を騙す手管は手品のようなのに一切の気軽さはなく、極限下のシチュエーションと痛烈な問題意識によって深遠を垣間見てしまう。逆に、パワーズ『黄金虫変奏曲』はようやく翻訳が出た。アナロジーによる接続、それ自体が主題となることで、小説は自立してしまう。これまた手品のようだけれど、やはりこちらも弩級の手品だ。パワーズを読むとパワーズを読みたくなってしまうと云うことで手に取ったオルフェオは、単に音楽がテーマと云う共通点を持つだけではなく、『黄金虫変奏曲』を裏表ひっくり返したよう。いずれにせよ、パワーズは音楽を描写しているときがいちばん良い文章を書くと思う。なんとか6月中に読み終えたガルシア゠マルケス百年の孤独。豊穣すぎる。巨大すぎる。そしてここにも大仕掛けがあって、血と土の百年を見事に閉じてしまう。凄すぎる。満州版『百年の孤独』のようでいて、実はかなり違うんじゃないかと思う小川哲『地図と拳』。これは一種の実験小説であり、調査報告だ。以前小川哲が、パワーズを評した言葉を思いだした――《たったひとりで、そして彼にしかできないやり方で、文学とそして世界と戦った》。けれどもきっと、小川哲はひとりきりではない。あなたは大河のごとく過ぎ去る半世紀を一緒に走り抜けても良いし、傍流から新たに流れを辿っても良い。その流れもいずれ、新たな大河と合流するだろう。
 やっぱりミステリって面白いなあと思わされた綾辻行人『霧越邸殺人事件』。すべてが図式に回収されてゆくことの不思議さを浮かび上がらせ、図式に回収してゆくことの危うさへと至り、これ以上はミステリがミステリでなくなるかも知れない臨界点に触れている。蜘蛛の巣のように暗合を張り巡らせた傑作。北村薫ベッキーさん〉シリーズからは、すべて入れる代わりに最終作『鷺と雪』を挙げておこう。たった一瞬の、奇跡のような触れあいのために、北村薫はこれだけのものを書き上げた。その長くも短い9つの物語には、照応するように暗合が散らされている。今期新たに読んだ作家のなかで最大の収穫が打海文三である。『ロビンソンの家』は最初の一文から最後の一文まで良くない文章がひとつもない佳品――傑作、と云う仰々しさより、そんな表現を使いたい。家と家族とその記憶を辿ると云う点でこれと通じるのが村松友視『鎌倉のおばさん』。真実を語ることは難しく、そのひとについて語るとき、誰もが虚構を語ることになる。そうして積み重なる記憶と云う言葉に、静かに身を浸すような読み心地。
 知っている名前が沢山出てきて勝手にダメージを受けたが、それはそれとして吉川徹朗『揺れうごく鳥と樹々のつながり』は題材も内容も興味深かった。鳥と植物の相互関係と研究者たちのネットワークを、あるいは、ひとつひとつはなんでもない捕食行為でも積み重なれば淘汰を発生させる進化とひとつひとつは簡単な観察でも長年続けば膨大になるデータセットを、つい重ね合わせたくなる。『黄金虫変奏曲』からの連想で読んだ沼野雄司『現代音楽史はぼく好みの内容、つまり、20世紀と云う時代と切り結ぶ芸術史。本書のおかげで『オルフェオ』も読みやすくなった。

短篇

 創作ではなくあくまで引用と云うていのボルヘス「学問の厳密さについて」。いや、本当に原本があるのか? 国と同じ大きさの地図と云う奇想に始まって、呆気なくも凄絶な結末、砂漠に散った地図のイメージで終わる寓話は、短いなかで奇想短篇に自分が求めるものを見事収めている。同じく、短い分量に尽くせるだけの仕掛けと技巧を落とし込んだパワーズ「七番目の出来事」は、思わず何度も読み返した。なんと云う手品を見せられたのか! 仕掛けの詰め込みに驚嘆した作品と云えば丸谷才一「樹影譚」もそう。私小説をメタに扱って、何重もの複雑な構造を起ち上げ、深遠へ滑り落ちてゆく。舞城王太郎「されど私の可愛い檸檬はあまり思い出したくない。何かを考えているつもりで何も考えていない主人公に、思い当たる節がたくさんあって見ていてつらい。うう。自分の進路はまだまったく決まっていません。大山誠一郎「夕暮れの屋上で」は犯人当てとして実にスマート。決して難しいものではないけれど、綺麗な構図の転換から、無二の限定条件が導き出される。連城三紀彦「観客はただ一人」は、人生と云う名の謎、人生と云う名の物語を扱った、これまで読んだ連城のなかでもかなり好きな一篇。通じていない、しかし読み手には通じているあの会話で泣きそうになる。若竹七海の〈葉村晶〉シリーズはどれも高水準ゆえに好きなものをひとつに絞れなかったのだけれど、これからは「不穏な眠り」を挙げたいと思う。徐々に高まる不穏がひとつの像を結んだとき、訪れる破局。圧倒された。《そして童話は、特に大人が読む童話は、間もなく夏休みがはじまろうというころ、物干台に立って遠くに入道雲の立ち上るのを見た時、もしくは、それまで騒ぎまわっていた子供たちがようやく寝静まって、ふと窓を開けてみたら雪が降っていた時、もしくは、春の河原をそぞろ歩いてたんぽぽを見つけ、「おい、見てごらん」と振り返ったら誰もいなかった時、もしくは、家族中のものが出払って留守番をしている秋の夜、台所の隅でこおろぎの鳴くのを聞いた時、それぞれの場所でページをくって見るのがいいのである。》――長い引用になったが、序文でこう語る別役実の寓話は、どこか淋しさがつきまとう。「淋しいおさかな」は、そのなかでもとりわけ淋しい一篇。6月~7月は小川哲ラッシュ。長篇と云って良い分量を雑誌に一挙掲載した「君のクイズ」は『スラムドッグ$ミリオネア』を二重螺旋――ただ重ねているだけではない、くらいの意味――にしたような構成で、競技クイズを通して知識と記憶、人生を語ってみせる。構成の妙と仕掛けの冴え、題材の深掘り。どれを取っても巧み。刺戟的な表象文化論でおなじみ高山宏「殺す・集める・読む」は、あっと驚くミステリ語り。ミステリーズに送った「象と絞首刑」の元ネタのひとつです。

 以上、20タイトルでした。けっこういろいろ読んでたな。