鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

日記:2022/07/17

ツイートする代わりに日記を書くことにする。続けられるように続けるつもりなので、毎日は更新しない。飽きたらやめる。



8時半にはいちど目を覚ますが、もう一度寝たりだらだらと転がったりしているうちに午前10時前になる。朝ごはんは食べない。この数ヶ月、朝食らしい朝食をほとんど摂っていない。心身の健康が不安定であることの原因は案外それかもな、とは思っているが、改善できない。改善できていればこうなっていない。午前中は茶を飲んで過ごす。パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』を数ページ読み進める。誕生日に贈られたものだ。ありがとうございます。短いのですぐ読めるだろうと手に取ったが、どうも一気に読むような本ではないらしい。段落のひとつひとつ、文章のひとつひとつに捻りと飛躍が加えられていて、少し読むだけで考えてしまう。


 

専門家たちが一般市民に警鐘を鳴らした電気系統のトラブルに二〇〇〇年問題というものがあった。暦が二〇〇〇年一月一日に変わる、九九年一二月三一日真夜中零時に、それは起こるはずだった。情報機器の多くのアプリケーションが二桁の暦を使用していたために、電気系統が二〇〇〇年を一九〇〇年と認識してしまう危険に脅かされたのだ。あたかも、二〇世紀も、そしてオーストリア皇位継承者の暗殺もなかったかのように。
――パトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』(白水社

 



Wikipediaによれば、2000年問題の原因のひとつに、将来の改善を想定して西暦の表記を2桁で処理したことが挙げられると云う。将来へ期待する方が悪いのか。過去からの期待に応えられない方が悪いのか。2000年問題は(関係各所を除けば)幸いにも大混乱を起こさずに終わったが、では、2000年問題以外の、将来の改善を想定して先送りされた問題の数々はどうだろう。




樺山三英「愛の新世界」を読む。過去のユートピアディストピア小説を題材とした『ゴースト・オブ・ユートピア』の一篇だが、ほかの収録作に較べると元ネタがわからない。話の内容も。とは云え文章はかなり好みで、よくわからないままするする読める。



昼飯を食べて書店に行く。昨日『怪談小説という名の小説怪談』を読んだ影響でホラーを囓りたくなって――なんてわかりやすい!――『眼球綺譚』と『営繕かるかや怪異譚』と『ずうのめ人形』を買う。もとより気になっていたタイトルを恰度良い機会に買っただけとも云える。午後はやる気が出ず、ホラーとミステリの交差と云う点で思い出して、動画『捨てられた心霊写真』をまた見返す。人間がいちばん怖いと云う陳腐な言葉も出るけれど、最後のどんでん返しならぬ卓袱台返し含め、全体としてはよくできていると思う。



人間と幽霊のどちらが怖い、と云うのではなく、人間と幽霊が(さまざまな意味で)切っても切り離せないこと、その交叉点、いや、境界侵犯に、恐怖がある。少なくともぼくはそこがいちばん怖いのだと思う。



だらだらしたりまた寝たりしているうちに夕方が近づく。慌ててレポートを書きはじめる。ボイスチャットでお喋りしたりしつつ、なんとか終わって提出し、この日記を書いている。



最近はひとと話すとだいたい、創作論になってしまう。書いていないワナビ――みんなは書いている、書いていないのはぼくだけだ――の語る創作論がいちばんたちが悪い。



晩御飯は冷製うどんにしようかと思っている。