鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ①

小説を書くときに何を考えていたかと云うものは所詮後付けに過ぎず、文章を綴る、鉛筆を走らせるその一秒、文字を打鍵するその一瞬に何を考えていたかと云えばそのとき書いている文章以外にはないはずで、つまり、小説を書くときに考えていたことが小説である、とひとまずは云える。もちろんそれをどう制御すれば良いのかと云うことが問題なのであって、ほとんど身体感覚に近いその「書く」ことにどう手応えを持たせるかと云う話が最近の興味のひとつではある。わたしたちはどうやって小説を書くのか? わたしたちはどうして小説を書けるのか?

とは云え、そんなことは考えはじめたばかりのことだしまだ手がかりも揃っていないしそう云う話を読みたければ乗代雄介でも読んでいれば良い。ぼくがここでとりあえず書き残しておきたいのは、ボールを投げるときの言葉にならない感覚を言葉に留めようとするような切実な問題より何段も手前、ボールをどう握ってどう振りかぶれば良いのかを指南するようなもの、さらにはそれにさえなりきらない、いち個人の思い出語りでしかない。いかんせん4年も前のことだし、この想起はつねに現在――鷲羽巧として作品を発表するようになってしまったいま、ミステリ研でそれなりの年数を経て先輩として意見を訊かれるようになった現状――を参照する以上なんらかの改竄と歪曲を避け得ないはずだが、それでも注意深い読み手ならばその歪みさえも読み込めるはずだと信じているし、だからこそオーラル・ヒストリーと云ったものもあるのだろう。重要なのはその語りにある。いま、ぼくがここで打鍵している、その一瞬、そこだけに

前置きが長くなった。要するに、この記事はぼくがミステリ研1回生のとき、まだ「鷲羽巧」と云うペンネームで小説を発表するより前に書いて、それなりに評価を受けた犯人当て小説「鴉はいまどこを飛ぶか」について、あれを書いた夏にぼくが何を考えていて、何をしようとしていたのかに関するメモである。それが結局どの程度成功し、失敗したのか、あなたは『WHODUNIT BEST vol.6』で確認することが可能だ。

booth.pm
犯人当てとは小説の形式――挑戦状を挟む――の一であり、ミステリファンのあいだではごく一般的な名詞だが、ぼくの所属している京都大学推理小説研究会ではそれ以前に毎週の例会としての意味を持つ。当然、そこでどのようなものが書かれ、どのように読まれ、どのように評価されるのかはサークル内の文脈に強く依存する以上、あなたが犯人当てを執筆しようとしているとしてどれだけ参考になるかはわからないし、何より、同じ言葉を喋っていても実のところまったく別のことを想定している可能性もある。留意したうえで了承していただきたい。

「鴉はいまどこを飛ぶか」のような小説を、おそらくぼくはもう書くことができない。『WHODUNIT BEST』に収録されたことで言及される機会は増えたけれど、そのたびにぼくも悔しく歯痒い思いがあった。もう一度無邪気に書きたい気持ちもあるし、書き手としてはこれくらい自在に書けるようになっておきたいとも思う。今回書き残すのは、誰かの参考になることを期待する面もあるが、何より自分自身のためでもある。

当然ながらネタを割るので、以下は作品を読んだうえでお読みください。ついでにもう一回宣伝。こちらは電書版です。

booth.pm

どこから?

さて。

どこから書きはじめるのかを考えたときに、やはりどこから考えはじめたかを書くべきだろうと云うことになった。この辺はとくに記憶が曖昧ではっきりと云うことはできないのだが、一応ひとつ挙げるとすれば、ずばりタイトルである。このブログの名前の由来にもなった、山野浩一の短篇「鳥はいまどこを飛ぶか」。特殊な語彙も複雑な文体も使うことなく、いっそ清冽な印象を与えるにもかかわらず、見る者に問いを投げかけイメージを幾重にも膨らませる優れたタイトルだ。犯人当てについて考えるときになんの取っ掛かりもなかったぼくはひとまずタイトルから考えはじめ、このタイトルに蒼鴉城の「鴉」を加えた「鴉はいまどこを飛ぶか」が案のひとつとして浮かんだ。ぼくはいままで2本の犯人当て小説を書いたが、もうひとつの「はさみうち」も当時考えていた候補のひとつである。こちらは後藤明生――ではなく、クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』のもじり。より正確には、これをもじった先輩の犯人当て小説「ちからわざ」(傑作。『WHODUNIT BEST vol.5』所収)のような、ひらがな五文字のシンプルな響きでしかしさまざまなイメージを広げさせる恰好良いタイトルを真似た結果である。そもそも、ぼくが犯人当てを書く際に参考にした『WHODUNIT BEST vol.5』には同様に古典名作をパロディした作品が幾つか収められており、当時は先輩も「屍人島の殺人」(傑作。『vol.6』所収)と云った作品を発表していたこともあって、犯人当てとはまずパロディからはじまるものだと勝手に刷り込まれていたのだろうと思う。ミステリの歴史は絶えざる引用の伝言ゲームである、と一席ぶつ程のことでもない。先輩に憧れた。それだけのことだ。これは楽しそうだと思ったのだ。しかし、それ以外に何があるのか?

「鴉はいまどこを飛ぶか」(以下、「鴉」)と云うタイトルが思いついたとき、ぼくは、それをタイトルに冠する犯人当てとはどんな小説だろうか、と考えたはずだ。「鳥はいまどこを飛ぶか」から「鴉」に変更されたことで、そこには清冽さの代わりに妖しさがあった。透徹した思考実験ではなく、鴉なる悪意がこの町――そう、鴉が飛ぶのは、大空よりもわれわれの暮らしに近い――のどこかにいると云う、優れて犯人当て的なイメージを獲得したわけだ。思いついたときにはすでに、これで犯人当てを書こうと決めていた。以降もぼくは、小説を書くときはまずタイトルと、タイトルが持つイメージから考えるようにしている。

本家「鳥はいまどこを飛ぶか」が章の入れ替え可能な実験小説だったことを踏まえて、問題篇の並び替え――犯人当てとして犯人が一意に定まるように問題篇を正しく並び替える――などを考えてもみたが、実現に多大な労力がかかることが容易に想像できたので断念。具体的なアイデアも思いつかなかった。そこで、山野浩一はいったん忘れて、作品タイトルに戻ってみることにした。鴉はいまどこを飛ぶか。鴉はここにはいない。鴉は上空にいる。われわれを嘲笑うかのように、文字通り鳥瞰しながら。――もう、そのイメージが頭から離れなくなった。犯人は外部にいる!

では、外部とは具体的にどこだろう? 犯人はどこで探偵たちを見ているのだろう? そこで自然に警察と云う答えが出た。犯人は容疑者圏内ではなく、捜査にやって来た警察のなかにいたのだ。とは云え本作の中核にあるこのアイデアもゼロから出たものではなく、元ネタが存在する。ひとつは、明言は避けるがクイーン。もうひとつはバークリーの『第二の銃声』で、屋敷で演じられる犯人当てゲームの犯人として設定されていたのが、屋敷の外部にいた警官だった(これはネタバラシではない。その警官を語り手が演じ、ゲームが本当の殺人になってしまって容疑がかけられることから、探偵の捜査がはじまるのだから)。「鴉」を読んでいただけたなら、とくに後者の影響を受けていることがわかってもらえるだろう。

解決篇。探偵役が犯人として指さしたのは、容疑者の誰でもなく、容疑者たちの周辺で、黒子かのように動く警官だった――。鮮やかな幕切れだ。ぼくは酔いしれた。結局実現はしなかったが、「鴉」を執筆させたいちばんのモチベーションはこの鮮やかさである。ぜったいに意外な真相だと云う確信があった。犯人は容疑者圏外にいるのだから。

『WHODUNIT BEST vol.6』を読むとわかるように、犯人当てを書く際にミステリ研ではしばしば趣向が重視されるが、個人的に気になるのは、なぜそんな趣向を選んだのかと云うことだ。もちろん、究極的には思いついたからでしかないのだが、思いつきを実行したうえで何をしたいのかこそが趣向であるはずだ。ぼくもいまこれを書きながら、その通りだなと思ったので、これからの例会ではそれを訊くかも知れません。いずれにせよぼくの場合、犯人を容疑者圏外から持ってきた理由はぜったいに意外な真相だと思ったからである。素朴だ。いまのぼくが忘れてしまったものだ。


では、犯人を警官にするとして、どのような小説があり得るだろう? とくに、容疑者圏外から犯人を持ってくるにはそれなりの説得力が必要だ。そこでぼくは、警官、とくに事件の最初にかかわるような巡査を犯人として指摘するために、彼以外には持ち得ない性質を考えた。事件が発覚してから捜査が始まるまでのあいだに現場に変更を加えることができると云うものだ。実を云うとこれも元ネタがある。マイナーなクラシック・ミステリで、そちらの犯人は警官ではないが一見事件と関係のない、しかし現場に最初に立ち入っていた人物だった。「鴉」の真相について、ぼくがゼロから考えついたのは拳銃まわりのロジックしかない。基本はどれも何らかの元ネタが存在する

疲れたので今回はここまで。続きはまた近いうちに書くと思う。