鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ②

前回の続き。

washibane.hatenablog.com

 

どこへ?

趣向をとりあえず考え、犯人を警官とすることまで考えたので、次に具体的な推理・手がかりを考えることになる。が、正直、あれこれ書いては消してみて、正確なところはやはり憶えていないと云う結論になった。どのようにして細部を詰めたのかさっぱり思い出せない。だから以下、書いていく文章はあとから作品を振り返った語りが大半を占めるため、前回よりも「指南」や「分析」の側面が強い。ぼくはひとに指南できるほど犯人当てを書いてきたわけではないし、分析するにはもっと適したテキストがあるはずだけれど、はじめてしまったものは仕方がない。何よりぼく自身が、もういまとなっては書けない小説から何かを学び取ろうとすること、実を云うと、それがこの一連の文章の目的である。

犯人を警官とするにあたって、事件が発覚してから捜査が始まるまでのあいだに現場に変更を加えることができると云う特徴を活かした推理を考えていたが、変更がどのようなものでも良い以上、そこにはなんの取っ掛かりもなく細部を詰めることができない。書きはじめるにはもうひとつアイデアが必要だった。そこで、ぼくが思いついたのが、犯人に失敗させると云うアイデアだ。これはのちに「はさみうち」でも用いた方法で、おそらく普遍的な犯人当ての技法である。麻耶雄嵩もやってる。もちろん推理小説は探偵に謎を解かせるために犯人に何らかのミスを犯させるものだが、この場合はミステリの謎と真相を作るための技法だ。どう云うことか?

つまり、犯人が完璧に計画を実行できれば謎も手がかりも何も残らないはずであり、何かしらの謎や手がかりはたいてい犯人のミスや計画の粗から生まれるのである。たとえば犯人が現場で怪我をしたとか、被害者が予想外の行動を取ったとか、事件当日の思いがけない機器の故障だとか。犯人の逃走経路として偽装しようとした扉が実は開かなかったので密室と化した、なんてのはカーもやっていることだ。「鴉」の場合、犯人にとって想定外だったのが土砂崩れである。より正確には、現場がクローズドサークルと化したこと。これによって犯人の警官は現場を訪れることができず、結果的に鴉の彫像を盗むことになってしまった――とは云え、この辺はかなり粗い部分だ。死体発見から通報を受けてすぐに現場へ駆けつけられても、彫像の不在くらいすぐバレそうなものである。しかしどうであれ、メタ的には犯人を容疑者圏外へ出すことになったファクターが、作中では犯人を追いつめることになった。「鴉」がしばしば褒められるのは、意外性がこのように、意外性のためだけに終わっていないからだろう。

やや先走ったので整理しよう。ぼくは犯人に失敗させることで、こう考えついたわけだ――警官である犯人は警察の捜査が始まるより先に現場へ「何か」(最終的には彫像となった)を戻すつもりだった、しかし土砂崩れのせいで駆けつけることができなくなってしまい、戻すべき「何か」を戻せなくなった、だから現場からはその「何か」が失われることになった。探偵が辿るべき推理の順序はこの逆で――「何か」が失われているのは、犯人が戻すつもりだったからだ、それが土砂崩れによって阻まれた、だから犯人は屋敷の外部にいて且つ捜査が始まるより先に屋敷に戻ることができる(はずだった)人物、つまり警官。Q. E. D.

警官が犯人と云うこともあって、ほぼ連想ゲーム的に使われる凶器は拳銃とすぐに決まった。ここまで読めばおわかりの通り、ぼくはあまり論理的に作品を詰める書き手ではなく、基本はなんとなくの連想ゲームを繰り返しながら、ぴったりピースが嵌まるかどうか調べているに過ぎない。もしも一連の記事になんらかの欺瞞、記憶の改竄どころではない語りの違和感を覚えるとすれば、論理的ではない偶然の連鎖をさも論理的必然のもとに並べ替えているからだ。しかし、ミステリとは元来そのようなものではないだろうか? 偶然の連鎖をあとから図式のなかで理屈づける作業。それを経て偶然は運命になるだろう。もしかすると、はじめから図式を考えるより、どのような偶然があったのかを考えてから図式(論理)に当てはめるよう逆算して考える方が、あるいは犯人当ては作りやすいかもしれない。まあ、これも趣向の話ではある。

閑話休題。銃を選んだのは直観だけれど、直観を採用したのは理屈だ。銃は、銃声に弾丸、射線、硝煙と、推理の手がかりに使えるものが山ほどある。少なくともロープや毒物、ナイフ、鈍器よりも推理のなかで扱いやすいはずだ。たぶん「鴉」を書いた当時は、同じく銃を使った先輩の犯人当てや、クイーンの「見えない恋人の冒険」のロジックを念頭に置いていたのだろうと思う。ほかにも、銃は引き金を引くととりあえず弾が出るシンプルな機構なので個人差が出にくい――つまり、毒の有効無効のような、例外的な作用が起こりにくい――と云うのも扱いやすい理由だろう。理屈で割り切りやすい暴置と云って良いし、そこにこそ銃の暴力があるとも云える。

ここまで考えると、それまでは抽象的でしかなかった事件の全貌がぼんやりと浮かんでくる。犯人は何を持ち帰ったのだろう? なぜ持ち帰らなければならなかったのだろう? 犯人が銃を使ったとすれば、おそらく持ち去られるのは拳銃か、弾丸だろう。夜な夜な屋敷に忍びこみ、銃を撃って去ってゆく警官――。ここまで考えると、なんだか書けそうな気がしてくる。あとは容疑者をいったん全員消すための推理――当時のミステリ研ではいったん全員を消してから趣向を明かすことが手っ取り早く意外性を与えることのできる定石であり、それ以外の選択肢をぼくは考えもしなかった――を作りさえすれば、自動的に細部は詰められるのではないか。

もちろんそんな考えは甘かった。ここに至るまでも相当悩んではいたが、ここから構想は完全に停止する。デッドロックと云うかなんと云うか、何か決まらなければ次に進めないが、何かを決めるには別の何かを決める必要があって、つまりアイデアの連鎖は膠着に陥ったのである。後述するように――後述するはずだ――この状態から抜け出したのはほとんど天啓めいたひとつのロジックだが、それを得ることができたのは、いろいろなひとに相談しつつ手をつけられるところに手をつけていったからだろうといまとなっては思う。以下、そのあたりのことを散発的に書いていこう。

クローズドサークルや犯人の設定が決まるなかで、相変わらず鴉が空を飛ぶイメージはぼくのなかで脳裡に残りつづけ、ストーリーの雰囲気も出来上がりつつあった。山中の洋館、そこで暮らす一族を、嵐の近づく不穏な気配のなか、探偵たちが訪れる――。大学サークルの合宿、と云う設定は使わなかった。手垢がつきすぎていると云うのもあるが、何より登場人物にグラデーションが出ない。先輩後輩やより個人的な友情・恋情こそあれ、サークルの集まりと云うものは基本的に均質な集団だ。ホテルに居合わせた客たちとなるともう少し色彩が出るけれど、長篇でなければそれは難しいし、登場人物がお互いに他人過ぎると、そこからひとりを犯人として指摘することの面白さがない。ぼくが理想とする犯人当ては無機質な名前のリストからひとつを指さすのではなく、有機的に各々が結びついたネットワークから犯人を指摘するものであって、そのためには容疑者たちにも一定の個性が必要だった。――こんなことを考えるのも、おそらくぼくにとって犯人当ての原型がアガサ・クリスティーだからだろう*1。ある一点に注目してもらえれば、「鴉」の犯人当てとしてのストーリーがクリスティー中後期のある作品を下敷きにしているとわかるはずだ。そうでなくともクリスティーは、容疑者圏外から犯人を持ってくる(犯人を容疑者圏外に追いやる)名手である。いま読み返しても学ぶ点は多い。

探偵の設定もなんとなく決まりつつあった。鴉の濡れ羽色をした髪の、おそらくは女性。射命丸文だろうと云われたこともあるが、「鴉」で念頭に置いていたのは『さよなら絶望先生』の加賀愛である。こう云うことも書き残さなければ忘れてしまいそうな気がする。助手役の、おそらくは男性だったろう語り手の設定も考えてはいたが、話を詰めていくにつれ彼は排除された。屋敷の客人がふたりに増えるのは面倒だったし、登場人物=深山家の一族を書くにあたって部外者の助手をいちいち噛ませるよりも深山家の一員を語り手としてしまった方がスマートだからだ。何より、探偵と助手を事件関係者から切り離してしまうと捜査する理由がそもそも発生しない。ただ助手=語り手=依頼者とするこれは一度きりの切り札でもあって、探偵の設定を折角考えたのにシリーズをつづけることができなくなってしまった(「鴉」以外の作品では助手も部外者になるから)。

鴉から連想ゲームをつづけるなかで、鴉の羽根が入った枕をサイレンサー代わりに銃を撃つ(現場は鴉の羽根が舞う)と云う絵を思いついたのはわりあい初期のタイミングだったと思う。元ネタは『刑事コロンボ』の「歌声の消えた海」。よく憶えている。はじめて観たコロンボだった。枕越しに発砲するシーンをさして、父親が訊いた。「どうして枕を使ったかわかるか?」。まだ倒叙ミステリなんて言葉も知らなかった頃の、思い出深いやり取りだ。鴉の羽根の舞う殺人現場を思いついた時点で、ヴィジュアルイメージの点ではすでに成功していたと云えるだろう。

鴉の羽根を単にモチーフだけで終わらせなくなかったから、手がかりとして使うことにした。こう云う思考をするとき、犯人当ての面白さは小説元来の面白さとは違うところにあるのではないか、と思う。はじめに思いついたのは、容疑者のひとりが羽毛アレルギーだから犯人ではない、と云うものだった。思いついたときは手応えがあったので数日こればかり考えていたが、推理を組み立てようとして挫折する。容疑者のひとりが羽毛アレルギーであると推理できるだけの手がかりを作ることがまず難しいし、犯人は羽毛アレルギーだったからこそ自分を容疑者圏外に置くために枕を使ったかもしれないからだ。もちろん重篤な反応が出れば命の危険がともなうが、それほど重度のアレルギーの存在を直接描くことなく手がかりからフェアに推理させるのはさらに困難がある。そもそも、羽毛アレルギーとはどのようなものなのだろう? 枕をサイレンサー代わりにするのは「そう云うものだ」で押し通せるが、アレルギーについて誤った記述は押し通せるだろうか、それだけの知識や覚悟があるだろうか? 所詮は手がかりのひとつに過ぎないのに? ――不採用の理由は要するに、銃を採用した理由の裏返しだ。理屈で割り切ることが難しいからである。

いまとなって振り返ると、不採用は結果的に良い判断だったと思う。「鴉」についてぼくからひとつ、褒められる点があるとすれば、容疑者を限定する推理に容疑者の身体的・生理的特徴を含んでいないことだ。容疑者を絞りこむ推理は、拳銃と廊下について知っているか、鍵を手に入れることは可能かと云ったものであり、利き手だとか身長だとか性別だとかは本作において関係ない。もちろん扱い方によっては人間の身体・生理を手がかりやトリックに取り入れることはできるだろうが、少なくとも「鴉」においてそれがひとつでも混じれば瑣末な扱いを免れ得ない。手がかりの質が異なるし、何よりそこには、犯人当ての倫理的な問題が含まれている*2

犯人当てはどうしようもなく、人間を要素に分解してしまう。分解することで見えてくるものもあれば、分解されることで踏みにじられることもあるだろう。ぼくは「鴉」を倫理的な小説だとは思わないけれども、犯人当てに何ができるのかを当時のぼくなりに考えた結果、一定の誠実さを獲得しているとは思う。もちろん、人間の描写はクリスティーを意識するあまり多分にステレオタイプで、そのくせ厚みが出ていない。誠実さはだから、あくまで限定的な評価だ。

以上、散発的でいつまでもまとまらない構想を、ぼくはどこかでまとめなければならなかった。少なくとも、容疑者をいったん全員消去するための推理は、ひとりひとりを離散的に消すよりも、連続的に消すようなものでありたかった。つまり、5人消すなら5つの推理で消すのではなく、ひとつの推理があって、それを進める過程で5人とも消える、と云うような。どうしてそう考えたのかと云えば、先輩からどう解いてもらいたいかを意識した方が良いとアドバイスをもらっていたからだ。

犯人当てをある程度の量、実際に解いてみるとわかるが、解ける犯人当ては完璧な犯人当てとイコールではない。同様に、余詰めや推理の穴を排除したところで、解ける犯人当てになるとは限らない。犯人当てが解けるかどうかは、書き手の思考(趣向)を、読み手がうまくトレースできるかどうか――つまり、書き手が用意したルートを読み手がなぞることができるかどうかによって決まる。そして読み手に解答をなぞってもらうためには、ほかのルートを潰す(=ほかの可能性を消す)よりも、正解のルートを整える方が重要であるはずだ。自分はいま作者の用意した推理を辿れているな、と云う手応えを感じてもらうこと。もちろんそのためには別解の消去も不可欠なのだが、別解を消去しようとするあまり手がかりが増えては推理が煩雑になってかえって解けない。むしろ、こちらが正解なのだとわかるような目印が必要だ。

「鴉」の場合、その目印は容疑者の消去である。推理を進めるうちに、容疑者がひとりふたりと消えてゆく。そして全員が消えたときに、原点に立ち返って前提を疑ってもらう――何よりここのひっくり返しが眼目なのだから、前段階でなるべく迷ってもらいたくはない。正解のルートは、だからひと繋ぎの方が良いと考えた。容疑者は5人、まず2人消えて、次に2人消えて、最後にひとり犯人と思われた人物も消える、と云うのが綺麗だろう。――当時、そんなことをひとに話していたことは、なんとなく憶えている。

とは云え、抽象的なルートを考えるだけなら誰だってできる。この記事でもわかるとおり、犯人当てを書くうえで最も難しいのは、こうした抽象的な発想をいかに具体的な記述・手がかり・推理へと落とし込んでいくかだ。ぼくが執筆に取りかかるには、その具体化を可能にする発想を待たなければならなかった。

今回はここまで。正解のルートを辿ってもらうためのもうひとつの目印も含め、実際の執筆については次回書くと思う。

*1:ミステリ研の会員ならば、ぼくが「はさみうち」を気に入っていない理由もこれでわかってもらえるはずだ。同作は今後も公開するつもりはない

*2:「はさみうち」では身長を容疑者限定の条件のひとつに含んでまったが、明らかにひとつだけ浮いている。ぼくが「はさみうち」を気に入っていない理由がこれでわかってもらえると思う、以下略