鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

「鴉はいまどこを飛ぶか」に関するメモ③

前回、前々回からのつづき。

washibane.hatenablog.com

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語りすぎている。いい加減終わらせたい。

どこまで?

トイレだったことはよく憶えている。ぼくがその推理を思いついたのは、実家のトイレの便座に腰掛けていたときだった。何も考えていないところから突然思いついたはずはないから、おそらくかたちにならない推理の断片をああでもないこうでもないと組み合わせていたんだろう。それがトイレでふと気を抜いたとき、ひとつの発想となって浮かび上がった。通路を遠回りして移動する犯人。そのときはまだそれがなんなのかもわからなかったが、考えるうちに手応えを得た。

ロの字形をした通路を想像してほしい。並行するふたつの長い廊下を繋ぐふたつの短い通路と考えても良い。あるいは実作がそうなったように、ふたつの廊下とふたつの階段としても良いだろう。犯人がその通路をどのように移動したのか、どの部屋からやって来てどの部屋へ帰ったのか、事件が発覚した段階ではどんな可能性もあり得る。ではここで、犯人がある部屋を訪れたとわかったら? ――犯人もすぐにわかってしまう。あるいは、犯人の行動は不可解すぎる。前者はつまらないし、後者は謎が増えるばかりだ。では、犯人が通路のうちのひとつ、たとえば階段の一方を通ったことがわかったとしたら? ――これだけでは何もわからない。階段を上ったのか下りたのか定まらない以上、可能性は収束しない。しかしここでさらに、もうひとつの通路、たとえば一階の廊下を通らなかったことがわかれば? ――可能性は一気に収束する。少なくとも、廊下を上ったか下りたかが特定できるし、階段を上って/降りてどの部屋に入ったかもわかる。どうだろうか。手がかりをふたつ(階段を通ったこと、廊下を通らなかったこと)組み合わせることで、犯人の動きを推理することができた。しかもその移動は遠回りなのだ。わざわざ廻り道をしたと云うことは、そこには犯人の意志がある。その意志を推理する手がかりを与えれば、犯人がさまざまなルートの可能性からひとつの道を選んだように、読み手もさまざまな可能性からひとつのルートを選んでくれるだろう。

いま振り返って、もう少し一般的な話に云い換えてみよう。ここでぼくが考えていたのは事件当時の犯人の行動を、歯ごたえのあるロジック(ふたつの手がかりを組み合わせる)によって推理させると云うことだった。前回ぼくは「書き手が用意したルートを読み手がなぞることができる」ことが重要であり、そのためには「こちらが正解なのだとわかるような目印が必要」だと書いたが、容疑者が消去されること戸は別のもうひとつの目印が、この犯人の行動である。推理を進めることで事件当時の状況(犯人が何をして、そこで何が起こったか)がわかっていくと読み手としても推理に自信を持ちやすい。まあ、結局はこれもまた先輩の受け売りであって、一連の記事はぼくが先輩から聴いてきて、それを自分なりに咀嚼したものをこうして整理しているに過ぎない。

皆が寝静まった夜。殺人者が蠢いている。暗闇のなかを歩き回って、殺人者は何かを企んでいる――。そのイメージを描き出すのは、ほかでもない探偵役であり、犯人当ての場合は読み手であるあなただ。推理することで犯人の影が浮かび上がり、そうして輪郭が捉えられ、ただひとりの人物へと収束してゆく。ぼくはケメルマンの短篇「九マイルは遠すぎる」が大好きで、ミクロからマクロを導く推理があると堪らなくなるのだけれど、ただ推理を膨らませるのではなく、その推理が犯人のイメージを作り出すことを望む。「九マイル」の推理がやがて道を歩く犯罪者の、企みをうちに秘めたひとつの影を描き出すように。そこにはミステリにおける、推理と云う営為のスリルがある。同じ理由でクイーンだと『エジプト十字架』のパイプの推理が好きだ。

要するに、犯人の行動(または事件の全容)の推理と犯人を特定する推理とが一致していること、それが犯人当ての満足度を上げる。おそらく。もちろん犯人当ては究極的には犯人を当てることさえできれば良いので、ほかの要素を一切無視してもかまわないのだが*1、無視することによって犯人当てが面白くなるとすれば、その面白さにはやはり推理は事件の全容を推理するものであると云う前提があるはずだ。あえて外すのならば、外していることに自覚的でなければ、ただ外れているだけで面白くない。これは①で書いたような、趣向の問題にも繋がるだろう。

加えて、犯人の行動を推理させようとすると自然、書くときも犯人の行動から考えることになる。しばしば犯人当てでは趣向が先立って犯人の行動かあまりに不合理だったり、煩雑ゆえに推理のノイズになったりするが、犯人の行動から考えると解いてもらいやすくなるだろうし、もし解いてもらえなくとも真相に納得感が増して、解答篇や感想戦で文句が出にくくなるはずだ。②で書いたような犯人側のミスも作りやすくなる。とは云え「鴉」はそこがうまくいっているとは云い難い。犯人の動きに納得感があるのは、結局、この廊下の移動くらいだった。

さて、ぼくは歯ごたえのあるロジックと書いた。これに関してはまだ言語化できていないものの、解けるひとと解けないひとがわかれるような、一定の発想の飛躍を要する推理、としておこう。どんなパズルもゲームそうであるように――犯人当ても解く解けないで考える以上、ある程度はパズルないしゲームである――問題を解決するには歯ごたえがなければ面白くない。犯人当てにおいてこの歯ごたえはさまざまな方法で獲得できる。手がかりを記述のなかに巧妙に隠したり、複数の手がかりを組み合わせたり、存在ではなく不在を手がかりとしたり(“鳴かない犬”)、発想を逆転させたり。ありふれたロジックでも、ワンステップ踏むだけでぐんと歯ごたえが出ることがある。

たとえば――利き手は前回書いたような理由でぼくはめったなことでなければ用いないけれども、思いついたので――犯人は左利きだったから犯人はお前、とするのは単純であるし、乱暴だ。しかし「犯人はペーパーナイフを使って新聞を切り抜いた」「ナイフは戸棚のなかにあるものが持ち出されていた」「テーブルのうえには右利き用の鋏があった」と手がかりが揃えば、「犯人は右利き用の鋏を使えなかったので(細かな作業には使いたくなかったので)、テーブルの鋏ではなく戸棚を漁って左右兼用のナイフを用いた」と推理できる。このロジックには一定の歯ごたえがあるし、利き手の問題を無造作な手がかりではなく、犯人の行動に結びつけたうえでその思考を読み手に考えさせることで、利き手をテーマ(利き手による差別・抑圧)に結びつけることができる。だからすなわち倫理的だとは思わないが、手がかりをただ容疑者を消去するための入れ替え可能なものではなく、物語と有機的に結びついた無二のものとする点で、最初の推理とは一線を画す。歯ごたえを考えることはそのまま、犯人当てと向き合い、推理を検討することにもなるだろう。

話を戻す。犯人の動きを推理させようと思いついたら、それを中心にして、いままで考えていた推理――犯人が何を持ち帰ったのか、など――が一気にまとまっていった。拳銃、羽根、鴉の彫像。それら漠然とした小道具は、彫像に撃ちこまれた弾丸、階段に落ちた黒い羽根、軋む廊下、拳銃の入れ替えへと具体化した。もう書ける、と確信があった。物語が一斉に起ち上がる瞬間だ。ただ、これでようやく確信を持てるのは遅いと云うべきで、ぼくはいつまでもこの瞬間を待っているから長篇が書けない。

正解の推理をメモに書いてもよかったが、メモでは細部を詰めきれないと感じたぼくは、解答篇をいきなり書きはじめた。と云ってもそれは、探偵役と助手役が会話しているだけの簡素なものだ。これは正しい判断だった。探偵役が推理を語っていく、その過程でアイデアはどんどん具体性を帯び、言葉となり、自分でも想定していなかった細部が見えてきた。そうして見えてきた細部、まだ検討できていない細部に、助手役はぼくも当初想定していなかった反論を入れ、探偵役はこれにこたえながら細部を詰め、ぼくは自分が問題篇で何を書くべきなのかを知った。小説を書いているとしばしば訪れる、キャラクターが勝手に喋る現象だが、この場合はキャラクターの自走と云うよりも小説自体が要請しているものが勝手に明らかになっていったと云うべきだろう。大まかな伏線や人物の動きも、ここで決まった。

館の間取図も、たぶんこのタイミングで書いたはずだ。いちばん楽しい作業だったと記憶している。なるべく犯人当てのためにつくった感じが出ないよう、一般的な洋館の間取図もいくつか参考にして、そこで暮らしが営まれていたことを忘れないようにした。まず世界があって、生活があって、人間がいて、そこに事件が起きる。犯人当てにおいて容疑者は駒だが、彼らははじめから駒だったわけではない。駒ではないものが駒にさせられてしまうこと、そこにミステリの衝撃はあり、悲劇がある。とは云え、犯人当てのために振り切った舞台設定も、それはそれで味わい深い。

解答篇の草稿が一段落すると、今度は問題篇である。プロットに関しては、加藤元浩の作品を真似することにした。導入、容疑者の提示、事件の発生、容疑者各々への事情聴取、解答篇。これである。それだけ決めて早速書きはじめたぼくは、ここでもやはり、自分でも想定していなかった細部に振り回されることになった。ぼくは実際に書きはじめるまで、被害者が、容疑者たちがどんな人間なのか知らなかったし、事件の舞台がどのような場所なのかもわかっていなかった。駒ではないものが駒にさせられてしまうこと。ミステリ小説を書くことは、作者の用意した抽象的な構図と、その網目から逸脱する細部との鬩ぎ合いであることを、ぼくはこの経験から確信した。具体的な描写、具体的な言葉のなかに、論理の手がかりを埋め込んでいく。これが伏線である。とりわけ「鴉」の場合、父の証言と執事の証言の食い違いが、クローズドサークルクローズドサークルではないことへの伏線となる趣向が気に入っている。一見エモーションな語りのうちを、伏線が貫いている。

一方で、具体的な記述は書き手の用意した論理からすり抜けるばかりではなく、むしろその論理を思いがけずサポートすることもあった。問題篇の執筆は解答篇と相互にフィードバックさせながら進められたが、そのなかで、問題篇の何気なく書いた記述がぼくも想定していなかった伏線になることがあった。叔母が軋む廊下の存在を知っていたのは、ぼくが問題篇を書くときなんとなく彼女に廊下を歩かせたからであるし、容疑者としてひとり残った彼女をさらに排除するための線条痕の推理も、問題篇を書きながら思いついたものではなかったか。祖父の自殺や、割れたガラスも、確か即興で思いついたことだ。犯人である警官の設定や行動も、書いていくうちに固まった。

どうやらぼくは、構想やプロットを考えているあいだより、文章を実際に書いているときのほうが、無意識下を含め、小説についてよく考えているらしい。こうして文章を書いているいま、いつになく犯人当てのことを考えているように。重要なのはその語りにある。とぼくは①で書いた。いま、ぼくがここで打鍵している、その一瞬、そこだけに。これもまた、自分でも想定していなかったことだ。

これ以上なく綺麗に嵌まってくれたポーの引用も、後付けである。「もはやない」と云う言葉がここまでぴったり合うとは思わなかった。ほとんど奇跡のようだ。ただ、カルヴィーノからの引用は、たぶん最初から考えていた。いまこれを書くまですっかり忘れていたが、最初に容疑者を全員消そうとしたのも、そうして最後に外部から犯人を持ってこようとしたのも、「最後に鴉がやってくる」からの連想だったかもしれない。

こうした奇跡みたいな偶然が続いたとき、ぼくは小説の完成を確信する。まるではじめから意図されていたかのような偶然の連鎖。あるいは、偶然のなかに見出される意図。ひとはそれを運命と呼ぶ。その瞬間が気持ち良くて、いまも書いているふしがないではない。ただ、「鴉」におけるその瞬間を詳細に語ることができないのは心苦しい。もう大部分を忘れてしまった。

書き上げた問題篇をもとに解決篇を書き直し、それに基づいて問題篇も細部を調整しながら、とりあえず完成させたのが例会の半月程前だったか。ぼくは先輩に第一稿を読んでもらい、かなり詳細な朱入れをいただいた。推理ひとつひとつを検討し、褒めてほしいところをきっちり褒めてくれ、誤魔化したところをしっかり見抜いて指摘する、いま思っても素晴らしい朱入れだ。どのように解いてもらいたいのか意識するようになったのも、ここでもらったアドバイス――このままでは解けないことと、なぜ解けないのかの詳細な指摘――を踏まえるようになってからだ。軋む廊下の存在が地味であることを指摘されれば、軋みをはっきり描写するようにした。拳銃の入れ替わりが想定できなかったことを指摘されれば、拳銃が唯一の品ではないことを記述した。②で書いた、正解のルートを整える作業がこれである。伏線をわかりやすくし、石のように拾ってもらうことで道を辿ってもらう。容疑者から父親を消去する推理については、先輩からもらった修正案をそのまま採用した。ひとによって何を合理的とするかは異なる、とそのときに云われた。だから、限定条件にはあまり合理を持ち込むべきではない。――作品を読めばおわかりの通り、このアドバイスについては、取り入れ切れなかった。どうにも悔やまれる。

驚くべきことに、ぼくはその朱入れで指摘されるまで、クローズドサークルとその外側を行き来する経路をまったく考えていなかった。しかしここでぼくを救ったのもまた、ぼく自身の書いていた細部だった。事件の舞台が昔炭鉱で栄えていたと、ぼくは設定していたのだ。鉱山ならば山のなかにも通路があるはずだ。それを探偵に指摘させたとき、急場しのぎの対処だったにもかかわらず、ぼくはむしろ自信を抱いた。まるで小説が自分自身で自分自身を書こうとしているかのようだとぼくは感じた。小説が生まれ、自立し、巣立ったようだ、と。

あるいはその瞬間から、「鴉」はぼくの手を離れ、ぼくはもう「鴉」を書けなくなってしまったのかもしれない。

どこかへ

「鴉はいまどこを飛ぶか」が発表されたのは夏の合宿だった。伏線のわかりやすさと数の多さを褒めてもらえたことを憶えている。先輩のアドバイスを取り入れた結果だ。ぼくがいまだに「鴉」がいまいち自作と思えないのは、それが理由かもしれない。だからこんな文章を恥ずかしげもなく書けるわけだ。

ほかにも発表時、拳銃の入れ替えまで見抜いてもらえたことは印象深い。ルート整備は、少なくともそこまではうまくいっていたわけだ。そこまで解いてもらったなら大成功やね、と先輩も云ってくれた。

完全解答者こそ出なかったが、警官が怪しいと目をつけてくれたひともいた。だからたぶん、解くのは不可能ではないと思う。

ひとつ、明確に失敗したことがあるとすれば、「どこを飛ぶか」と云うタイトルとそのイメージが強すぎて、はじめから正解のルートを外れて彫像の場所の特定をしようとしたひとたちが出たことである。こうして書いてきたように、イメージは理屈を超えて小説を完成させるのに役立つけれど、あまり頼り切りになるのも考えものだ。

たぶん、まだ語っていないことはたくさんある。自分でも忘れてしまった細部や、あまりおもてでは語りたくない私的な記憶が。とは云えいったん、このメモは閉じよう。いい加減疲れた。

booth.pmbooth.pm

*1:その発想に基づいて書いたのが拙作「はさみうち」である。犯人以外なんの情報も確定することができないと云う趣向はわりと攻めていたと思う。誰かがもっとうまく書いてほしい