鷲はいまどこを飛ぶか

多くの場合は、小説について。

ジキルとハイド

いろいろと思い出したことなどを、断片的に。



先日、Fridays For Future Kyotoによる気候変動についての交流会に参加した。久しぶりにひとと会う活動をしたので足を動かしただけでもう気力が残って折らず、後半のマーチには参加しなかったけれども、交流会に参加しただけでも良かったと思った。語られた内容は講義で聴いたような話ばかりだったが、講義では気候変動をどこか遠いことのように聴いてしまう、と云うか、この問題を真剣に考えているひとたちが隣にいると云うだけで、問題との距離を考え直すことができた。


 

本当の難点は信念にある。僕が担当した十八歳の学生たちは、読者が現実で、自分自身も現実で、世界の話題も現実だとはまったく信じていない。そうだということを、どこまでも主張しなければならないとは信じていない。

――リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』(みすず書房

 



交流会でも話したことに通じるのだが、子供のころの話を。ぼくが小学生のとき、つまりちょうどゼロ年代の後半、マスメディアでは地球温暖化をはじめとした環境問題が頻繁に取り上げられていた。海面が上昇する。未知の感染症が広がる。未曾有の災害が発生する。資源が枯れる。あの頃、まだ小さかったぼくは、もう自分に未来はないのだ、と思っていた。



あるテレビ番組の記憶がある。何かと楽観的なキャラクターと何かと不安を煽るキャラクターが、あり得べき未来について交代で語る。前者はジキルと呼ばれ、明るい未来の話を。後者はハイドと呼ばれ、暗い未来の話を語った。――と云うことらしいのだが、ぼくはジキルを見た憶えが一度もない。彼がやたらと楽観的であると云う話も伝聞に過ぎない。毎週見ているわけではなかったから、たまたまではあるのだろう。それは自分でもわかっていた。しかしだからこそ、ぼくはあの番組が嫌で仕方がなかった。茶の間にあの番組がかかっているたび、ジキルであれ、頼むからジキルであれ、今度こそ噂の明るい話を聴かせてくれ、と願いながら、ぼくはいつも裏切られた。ハイドは絶望を語った。食糧危機を語り、地球温暖化を論じた。いま思えば現実的な話をしていたと云えるのだが、あれは現実的である域を超えて不必要なまでに脅迫的だった。待っているのは絶望なのだ、とぼくは思った。ぼくには未来がない。ぼくは大人になれない。



人間の強力な正常化バイアスの作用によって、ぼくの心は壊れずにすんだ。結局のところ、不安は子供に現実を受け止めさせるどころか、現実を見ないようにさせた、と云うべきだろう。中学受験がはじまると環境問題のことはすぐに忘れ、中高生のあいだは男子校のなかにぬくぬくと閉じ籠もった。『まんがサイエンス』を何周も読み、科学館を嬉々として巡っていた、これから科学少年になろうとしていた子供はどこかへ消えた。ぼくは代わりに小説を読みはじめ、ミステリを読みはじめた。



別の思い出を。まだぼくが科学少年の、ついに孵化することのなかった卵でしかなかった頃、家族とどこかの高原の天文台に行ったとき、『まんがサイエンス』の系列にある教養漫画――要するに、「先生」が子供たちに宇宙や地球について教える漫画が置いてあって、ぼくはどんな土産よりもそれを求めて、旅の途中もそれを読みふけった。「先生」は確か、宇宙のどこかの星の姫様だったはずだ。彼女は長い旅の最後、子供たちに地球の未来の話をした。環境問題の話だった。あなたたちには暗い未来が待っている。あなたたちにあげられる美しい地球はもう、ない。そう教えられた子供たちは涙を流し、ひとりはパニックに陥ったように、もう車に乗らないよ、と云い出す。排気ガスをもう出さない。それなら大丈夫でしょう? 先生は困ったような表情を浮かべ、彼女のお仕えの助手か何かは、子供になんて思いをさせるんだ、と彼女を叱った。そのくだりだけを何度も読んだことを憶えている。ただ、そのあと先生がどう云って子供たちを諭したのかは、もう憶えていない。確か、あなたたちがしっかりしていれば大丈夫、云々。あなたたちの身体には、ずっと昔に砕けた星屑が混じっているのだ、云々。



それを読んだとき、ぼくは何かに気づきかけていたと思う。ただ、それがなんなのか気づくより先に、ぼくは考えることをやめた。ジキルには会えないまま、ハイドから逃げるようにして。受験がぼくを呑みこんで、思春期がぼくを押し流し、震災と安倍政権があらゆる問題を有耶無耶にした。



ぼくはいま、自分自身が、子供になんて思いをさせるんだ、と云って叱られる側になろうとしている。ぼくは何か重要なことに気づきかけているが、未だに確信を持っていない。なんとなれば、ぼくはまだ有耶無耶のなかに生きているからだ。生きていると云う感覚さえ持たないまま、なんとなく毎日寝ては起きているからだ。



この秋の目標は、生活を手に入れること。生きている、暮らしている、この社会のなかで、この現実とともに。そのような実感を手に入れる、さらに前段階の取っ掛かりを手にすること。これである。


 

季節はきっと秋。修正の季節だ。

――リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』(新潮社)

 



さしあたり、生活をつづける目標は、パワーズ最新作が出るまでに。